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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

わたしを束ねないで

 先日まとめ買いした童話屋詩文庫は三冊、山之口貘『桃の花が咲いていた』岸田衿子『いそがなくてもいいんだよ』、それからこの本、新川和江の『わたしを束ねないで』だった。前者二人は思潮社の現代詩文庫などには入っていないので、ちょっと「発掘」のような気分で読み進めることができたのだが、この新川和江に対しては、事情がちがっていた。まとまった詩集を読んでみたいと、かねてから考えていた詩人だったこともあり、ページを開くまえから身構えてしまっていたのだ。好きになれなかったらどうしようと、すこしばかり不安でもあった。でも、十秒もかからなかった。本を開いて、そんな不安が杞憂でしかなかったのが証明されるまでには。

わたしを束ねないで

わたしを束ねないで

 

新川和江『わたしを束ねないで』童話屋、1997年。


 読みはじめてすぐに目に飛びこんでくるのが、表題作、「わたしを束ねないで」だ。

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  わたしを束ねないで


  わたしを束ねないで
  あらせいとうの花のように
  白い葱のように
  束ねないでください わたしは稲穂
  秋 大地が胸を焦がす
  見渡すかぎりの金色の稲穂

  わたしを止めないで
  標本箱の昆虫のように
  高原からきた絵葉書のように
  止めないでください わたしは羽撃(ばた)き
  こやみなく空のひろさをかいさぐっている
  目には見えないつばさの音

  わたしを注(つ)がないで
  日常性に薄められた牛乳のように
  ぬるい酒のように
  注がないでください わたしは海
  夜 とほうもなく満ちてくる
  苦い潮(うしお) ふちのない水

  わたしを名付けないで
  娘という名 妻という名
  重々しい母という名でしつらえた座に
  坐りきりにさせないでください わたしは風
  りんごの木と
  泉のありかを知っている風

  わたしを区切らないで
  ,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落
  そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
  こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
  川と同じに
  はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩


(「わたしを束ねないで」、12~14ページ)
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 もうすでに、この詩人のすばらしさは疑いようがない。日本の現代詩の自由さは周知のとおりだが、この詩において新川和江は、その自由であっていいはずの空間のなかに、言葉を溶かして流しこむための鋳型のようなものを準備しているのだ。連が重ねられるたび、その型の存在感がどんどん強まっていって、読みながら次第に型を意識することになり、結果として、流しこまれた言葉たちの姿に心底驚かされることになる。「稲穂」、「羽撃き」、「海」、「風」、そして「終りのない文章」。これはちょっと、とんでもない。読めば読むほどに驚くべき詩で、あまりの衝撃の大きさに、開いたばかりの詩集を思わず伏せてしまった。不意打ちで横っ面をぶん殴られた気分だった。これほどの衝撃を、巻頭に置くだなんて。

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  雪の朝


  冬になっても
  ずっと降らずにいた雪が
  真夜中から降り出したらしく
  枯れた芝生や庭木をまっ白にして
  なお降りつづいている

  こんなにどっさりのものを
  天はどんな袋の中に溜めこんでいたのだろう
  じっと怺(こら)えて
  持ちつづけていた袋の口を
  ついに放してしまった……というふうに
  雪は とめどもなく落ちてくる
  あとからあとから落ちてくる

  怺えに怺えていたものならば
  歓びではなく それは
  悲しみであるのにちがいない
  天のとつぜんの告白に
  世界じゅうが しいんとなりをひそめている

  わたしの悲しみも
  どれくらい怺えて こころの口を握りしめていたら
  このようにうつくしくなれるのだろう
  このようにきよらかになれるのだろう

  ……と思いながら
  ガラス戸越しに庭を眺めて
  立ちつくしている


(「雪の朝」、68~70ページ)
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  水


  泣いているのか 夜更けに台所で
  ぽと ぽと と垂れる水滴
  陽の目も見ずに
  暗い下水道へ流れこまねばならぬ運命を

  コップに受けよう 深い大きなバケツにも
  おまえはいつだって 今がはじまり
  いま在るところが みなもと
  どんなに遠くからやってきたとしても

  わたしを通ってゆきなさい
  わたしはそれで活力を得て一篇の詩を書きます
  あしたになったら
  ユリの茎のリフトも昇ってごらんなさい
  階上には聖なる礼拝堂がある
  それとも庭にくるキジバトに飲んでもらって
  思いがけない方角の空に飛んで行く?

  ああ わたしがときどき流す涙も
  ぜひそのようでありたい
  萬象(ものみな)のいのちをめぐり
  悲しみの淵をほぐし
  つねに つねに
  天に向って朗らかに立ち昇ってゆく……


(「水」、118~120ページ)
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 この静謐さ、そして雪や水といったものに自分を重ねていく姿勢。すごくいい。「すごくいい」なんて言葉じゃ、なにも言ったことにならない気がするほど、いい。

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  赤いタオル


  旅をして帰ってくると
  山が紅葉してきれいだったでしょうと
  その地方出身の知人が言う
  ――ぬるで
    いぬたで
    どうだんつつじ
    ななかまど
  郷土自慢をするように
  紅くなる葉を数えあげる

  ――窓のてすりの赤いタオル
  とわたしは心で言い添える
  線路沿いの
  お粗末だが新築のアパートの
  二階の窓に干してあった
  赤いタオル

  なんという町か知らない
  東北の小さな町の
  その町からもこぼれて建った
  ちいさなアパートのちいさなひと間の
  ちいさな暮し

  その赤が なぜか一番
  目にしみて わたしは座席で泣いたのだけれど
  言えなくて
  ――ぬるで
    いぬたで
    どうだんつつじ
    ななかまど
  そう きれいでした! と言う


(「赤いタオル」、40~43ページ)
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 感情移入、というレベルを、越えているのではないだろうか。もはや憑依に近い。『通勤電車でよむ詩集』に収められていた白石かずこの詩と同様、思い出されたのは、吉野弘の「夕焼け」の一節だ。

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  やさしい心の持主は
  いつでもどこでも
  われにもあらず受難者となる。
  何故って
  やさしい心の持主は
  他人のつらさを自分のつらさのように
  感じるから。

吉野弘「夕焼け」より抜粋、『吉野弘詩集』75~77ページ)
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 これはひょっとすると、詩人の条件なのかもしれない。詩人というのは、感情も感覚も、どこまでも重ねていけるひとたちのことなのかも、と思う。でも、最初に挙げた「わたしを束ねないで」でも顕著なとおり、新川和江はけっして感情だけで詩を書いているわけではないのだ。

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  ふゆのさくら


  おとことおんなが
  われなべにとじぶたしきにむすばれて
  つぎのひからはやぬかみそくさく
  なっていくのはいやなのです
  あなたがしゅろうのかねであるなら
  わたくしはそのひびきでありたい
  あなたがうたのひとふしであるなら
  わたくしはそのついくでありたい
  あなたがいっこのれもんであるなら
  わたくしはかがみのなかのれもん
  そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
  たましいのせかいでは
  わたくしもあなたもえいえんのわらべで
  そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
  しめったふとんのにおいのする
  まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
  ひとつやねのしたにすめないからといって
  なにをかなしむひつようがありましょう
  ごらんなさいだいりびなのように
  わたくしたちがならんですわったござのうえ
  そこだけあかるくくれなずんで
  たえまなくさくらのはなびらがちりかかる


(「ふゆのさくら」、148~150ページ)
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 これはじつは、以前にも読んだことのある詩だった。茨木のり子『詩のこころを読む』のなかでも紹介されていたのだ。ぜんぶひらがなで書かれているため、たとえば「つぎのひからはやぬかみそくさく」のところなんて、すぐには頭に入ってこない。「糠味噌」という漢字が浮かぶまでに、わたしはずいぶん長い時間を要したように思える。これは短歌でもよく見かける技巧(と言い切ってしまうのは詩情を奪うことになるが)で、たとえばすこし前に『郷心譜』を紹介した歌人、岩田正にはこんな一首がある。

  省線の音消え去りて夜のしじまもどりきしときくちづくるかな  岩田正

 ひらがな書きになっているから、読みながら一旦立ち止まって考えることになるのだ。読みづらくなったことで、急ブレーキを踏まれたみたいに、伝達速度が下がり、結果的に内容を噛みしめることになる。いっそのこと、噛みしめさせられる、と言ったほうが正確かもしれない。新川和江の「ふゆのさくら」も、暗誦でもしていないかぎり、じっくり、ゆっくり進まざるをえない。この詩を読み流すことはできない。

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  結婚


  呼びつづけていたような気がする
  呼ばれつづけていたような気がする
  こどもの頃から
  いいえ 生れるずっと前から

  そして今 あなたが振り返り
  そして今 「はい」とわたしが答えたのだ
  海は盛りあがり 山は声をあげ
  乳と蜜はふたりの足もとをめぐって流れた

  ひとりではわからなかったことが
  ふたりではわけなく解ける この不思議さ
  たとえば花が咲く意味について

  はやくも わたしたちは知って頬を染める
  わたしたち自身が花であることを
  ふたりで咲いた はじめての朝


(「結婚」、92~93ページ)
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 これを読んだときには、実朝の以下の一首が浮かんできた。

  山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
  (源実朝『金槐和歌集』より)

 もちろん、実朝の「君」は天皇を意味していて、もっと具体的には後鳥羽院を指しているのだろうけれど、現代的な意味の「きみ」と読んでみたら、一気に恋歌のように映って、びっくりしてしまった。こんなの、この「結婚」を読んでみるまでは思いもしなかったことだ。

 また、旧かなづかいの詩もあった。単純に書かれた年代が古いものなのか、それともなにか意図があって旧かなにされたものなのかは定かでないが、以下の二篇はどちらも詩に関わることが詠われていて、おもしろいな、と思った。

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  さういふ星が……


  壁から鋲をはづすやうに
  空の一角から その星をはづす
  すると満天に嵌めこまれてゐた星たちが
  一挙に剝げ落ち
  巨きな手でじやらじやら搔きあつめられて
  宇宙のいつさいがゲームセットとなる……
  さういふ星が あるのではないか

  言葉にもさういふひとことがあつて
  用ゐると
  かがやいてゐたこの世のすべての物語が
  一斉に緑青をふき 虚となつてしまふ
  あるいは 斃れてゐた馬の
  全身が不意にぴくぴく痙攣し
  やにはに起ちあがつて千里を疾走する……

  そのひとことを探すのが
  詩人のしごとなのだらうか
  それとも隠すのが
  詩人の役割りなのだらうか


(「さういふ星が……」、132~133ページ)
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  骨の隠し場所が……


  人が一生のあひだに
  どうしても云はなければならない言葉といふのは
  二言か 三言なのであらう
  はやばやと云つてしまふと
  生きつづける理由が無くなるので
  人はその言葉を
  どうでもいいどつさりの言葉の中にまぎれこませて
  自分でも気づかぬふりをしてゐるのだらう
  どうでもいいどつさりの言葉で
  お喋りをすればするほど心はみすぼらしく飢ゑ
  するうちに四つん這ひになり
  くんくん啼いたりもするのであらう
  どこへ埋めたか 骨の隠し場所が
  つひにわからなくなつた ひもじい小犬のやうに


(「骨の隠し場所が……」、142~143ページ)
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 やはり、初期の作品なのかな、と思う。書かれた年まで記載があるような詩集を手に取って、確かめてみずにはいられない。正直、作品のあまりのすばらしさに、この選集一冊ではぜんぜん足りない、という印象だった。新川和江、ちょっと底が知れない。もっともっと読まずにはいられない詩人に出会えて、いま、とても嬉しい。

わたしを束ねないで

わたしを束ねないで