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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

 このごろ、「この詩人がいい、あの詩人もいい」、と、立てつづけに詩集の紹介ばかりしてきたが、いま、そのことをちょっとだけ後悔している。詩というのは、書かれていることの即効性が重視される散文とは大きく異なり、あとになってから響いてくるものも、とても多いからだ。第一印象ならぬ、「第二印象」とでも呼ぼうか。だから、性急に印象を書き留めるのは、あまり薦められたことではない。音楽をイメージしてもらったら、きっとわかりやすいだろう。最初に聴いたときにはあまりピンとこなかったものが、繰り返し聴いているうちにどんどん好きになっていって、やがては自分の一部にさえなってしまう。このマンデリシュタームの詩集を読んでいたときの感覚は、まさしくそれで、初読の際には「ふうん」と通りすぎていた詩行に、一週間ほど経ってからの再読にあたっては、いちいち足を止められた。ふつう、再読のときのほうがすいすい読めるものなのに。若き日のマンデリシュタームを含む、ロシア象徴派詩人たちの標語ともなったヴェルレーヌの言葉、「なによりもまず音楽を」を引くまでもなく、これは、音楽そのものなのかもしれない。

詩集 石―エッセイ 対話者について (群像社ライブラリー)

詩集 石―エッセイ 対話者について (群像社ライブラリー)

 

オシップ・マンデリシュターム(早川眞理訳)『詩集 石/エッセイ 対話者について』群像社、1998年。


 マンデリシュタームの音楽への傾倒は、この詩集の前半ではとくに顕著で、その美学は以下の詩に集約されているように思える。

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  14 SILENTIUM


  彼女はまだ誕生してはいなかった、
  彼女は音楽にして言葉、
  それゆえに生命(いのち)あるものことごとくの
  毀りがたい絆。

  海の乳房は安らかに息づいている、
  けれど、狂人のように昼は輝きわたり、
  海の泡の蒼白いライラック
  紺碧の容器にうかぶ。

  わが唇よ 見出だしてあれ
  原初の沈黙を、
  音の結晶のような、
  生まれたままの無垢なる沈黙を!

  海の泡のままでいてくれ アフロディテよ、
  言葉よ 音楽に戻れ、
  心よ 心の表出を辱づるがいい、
  生命の根源とひとつに融けあったものよ!


(14 SILENTIUM、1910年、25~26ページ)
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 そしてこの宣言は、以下のフョードル・チュッチェフの詩行に対する反駁であると、「訳注」が教えてくれている。

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  心はおのれを語れるだろうか?
  他人にお前が理解できるだろうか?
  お前が何を思い生きているか他人はわかるだろうか?
  言葉にした思考は偽りである

(チュッチェフの「SILENTIUM」、「訳注」より、151~152ページ)
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 そもそも、1913年刊行の、この処女詩集の題名『石』も、チュッチェフを強く意識したものだそうだ。詩集にはもともと「貝殻」という題が付けられる予定だったらしいが、このころからそれまでの象徴主義を捨て、「アクメイズム」と呼ばれる運動に参入していったマンデリシュタームが、建築材ともなる硬い「石」を好んだ、とのこと。

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  山から転げ落ち、石は谷間に横たわった。
  どうして石は落ちたのか? 今では誰にも分からない
  頂きからひとりでにはがれたのか
  それとも他の者の意志で投げ落とされたのか
  百年また百年と時を重ねたが
  誰もまだこの問いには答えられない。

(チュッチェフ『プロブレム』、「解説」より、186ページ)
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 わざわざ建築材としての石、などと断っているほどだから、詩のなかに建築が出てくることも多い。エッセイ『アクメイズムの朝』では、詩人はこんなことを語っているそうだ。

「建設することは、空虚と戦い、空間に催眠術をかけることを意味する。ゴシックの鐘楼の美しい尖塔の先は悪意にみちている、なぜならその全ての意味は空を突き刺すこと、空の空虚を非難することにあるのだから」(「訳注」より、155ページ)

 さて、上述のとおり、マンデリシュタームは象徴主義から離れていくのである。冒頭でヴェルレーヌを挙げながら、「若き日のマンデリシュターム」などとわざわざ書いたのは、そのためだ。上に挙げた「14 SILENTIUM」は、象徴派詩人時代のマンデリシュタームの姿勢を伝えてくれる、文学史的にはたぶん貴重な一篇である。だが、そんなものはわたしの好みにとっては、正直なんの関係もない。象徴主義であろうがアクメイズムであろうが、マンデリシュタームのすばらしさが揺らぐわけではないのだ。

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  4


  ただ子どもの本だけを読むこと、
  ただ子どもの思いだけを愛おしむこと、
  大きなことはすっかり遠くへ吹き散らすこと、
  この深い悲しみのなかから蹶(た)ち上がること。

  ぼくは生あることに死ぬほど疲れてしまった、
  生からうけとるものはなにもない、
  けれどもこの貧しい地上を愛している
  ほかの世は見たことがないから。

  ぼくは遠く離れた庭園でゆれていた
  粗末な木のブランコに乗って、
  あの暗くそびえる樅の木々を
  朦朧とした熱に浮かされ思い出している。


(4、1908年、12ページ)
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  9


  言いあらわせないほどの悲しみが
  ふたつのおおおきな瞳をみひらいた、
  花を盛った花瓶が目をさまし
  その水晶を潑ね散らした。

  部屋じゅうに溢れている
  けだるさ――あまい薬だ!
  こんなに小さな王国が呑みこんでいる
  こんなにたくさんの眠りを。

  赤いワインのひとくち、
  晴れやかな五月のひととき――
  そして、うすいビスケットを割っている、
  かぼそいゆびの白さ。


(9、1909年、20ページ)  
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 これは1913年刊行の詩集であると書いたが、その後何度も増篇のうえ再出版されているため、初版では23篇だった詩の収録数も、この翻訳では1913年以降のものも含め、81篇にまで増えている。それに、見ていただくと一目瞭然だが、べつに読みやすい詩というわけでもないのだ。難解と言ってもいい。そしてこの性格は、象徴主義だろうがアクメイズムだろうが、別段変わらないのである。一読してすぐに気に入った、というような詩は、正直とても少ない。マンデリシュタームを読むには、構えが必要なのだ。初読のときには、当たり前だが、その構えが身についていない。これは再読・再々読以降に真価を発揮する本なのだと思う。

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  15


  するどい耳は帆をいっぱいに張り、
  みひらいた瞳(め)はうつろになっていく
  夜更けの小鳥たちの微かな合唱が
  しじまを流れていく。

  ぼくは自然と同じように貧しく
  大空のように単純だ、
  ぼくの自由は幻覚のよう、
  夜更けの小鳥たちの声のように。

  ぼくは見ている 息絶えた月と
  麻布よりも生気ない空を。
  おまえの病んだ奇妙な世界を
  空虚よ、ぼくはいま受け入れている!


(15、1910年、27ページ)
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  24


  かすかにそよぐ木の葉たちを
  黒い風はさらさらかき鳴らし
  燕はつばさふるわせて
  暗い空に円をえがく。

  ぼくの死にかけた
  優しい心のなかでは静かに諍(あらそ)っている、
  迫りくる薄暮と
  消えかかる陽の光とが。

  暮れかかる森の上に
  赤銅(あかがね)いろの満月が昇った。
  どうして音楽はこんなにも少なく
  こんなに静かなのだろう?


(24、1911年、39ページ)
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 同じアクメイズム運動を組織したアフマートワの詩に対する注釈として書かれた詩、という、奇妙なものもあった。訳者は「文学的連想(レミニッセンス)」という言葉を多用しているが、マンデリシュタームにはこういう、ほかの詩を知ることで楽しさが増すものが、数多い。以下はアフマートワ。

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  ここではあたしたちはそろって飲んべえで、淫蕩女
  でもこうして一緒にいてもとても憂鬱!
  壁には花々や小鳥たちが
  雲のあいだでけだるそう

  あなたは黒いパイプを吹かしているのね
  パイプの上に立ち昇るとても奇妙なけむり
  あたしはぴったりしたスカートをはいてきたの
  もっとすらりと見えるように

  窓は永久に釘付けされたまま
  外は凍てつきかしらそれとも雷雨?
  あなたの眼ときたらそっくりなのね
  用心深い雌猫の眼に

  おお、あたしの心はとても憂鬱!
  死のときを待っているのじゃないかしら?
  いまダンスしているあの女は
  きっと地獄へいくでしょうよ

(アフマートワの詩、1913年1月、「訳注」より、162~163ページ)
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 そしてこちらが、マンデリシュターム。

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  44


  放縦な生活にぼくらはうつつを抜かしている。
  朝から酒びたり、晩には迎え酒。
  この空しい宴をどう抑えたらいい、
  おまえの顔の紅潮を、おお 酔っ払いのペストよ?

  握手は苦しい儀式のようなもの、
  あちこちの通りで深夜のキッス、
  河の流れはしだいに重くのろのろと、
  街灯がたいまつのように燃えている。

  ぼくらは死を待っている、お伽噺の狼を待つように、
  けれどもぼくは心配だ、紅い不安そうな口の
  眼にかぶさるほど前髪をたらしたこの男が
  いちばん先に死んでしまいそうで。


(44、1913年11月、73ページ)
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 上に挙げたチュッチェフに対する共感や反駁も、いわばこの「文学的連想」だろう。だからマンデリシュタームには、注釈のありなしで、ぜんぜん印象が変わる詩も多い。「それって独立した詩としてどうなのよ」とは、書きながら自分でも思ってしまうが、なんであれ、この訳者の注の付け方には脱帽するしかない。まともな学術論文を書こうというときには、悉皆調査という、関連したテーマの文献や論文の渉猟が、同じテーマに関わったことのある研究者たちへの礼儀としても欠かせないものであるが、この本の訳注からは、まさしく「悉皆」という印象を受けたのだ。つまり「ことごとく、みな」読んだうえで、この訳者は一冊の詩集と向き合っているのである。これこそまさしくプロの仕事だ、と思わずにはいられなかった。しかもこの訳注、初読のときは付されていることにさえ気づかず、「解説」の手前にたどり着いてから見つけた次第で、だからいま思えば、もうその時点で、わたしがこの詩集を再読することは宿命づけられていたのだった。あれはもはや精妙な罠だったのでは、と勘繰ってしまうほどである。マンデリシュタームはこんなことも書いていた。

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  おそらく、財宝だけではないだろう、
  孫をとばして、曾孫(ひまご)へと渡ってしまうのは、
  かくてまた吟遊詩人(スカリド)は異国の歌をつくりなおし、
  それを自分の歌のように吟うのだ。

(67より抜粋、1914年、110ページ)
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 これは詩の一部分のみの抜粋であるが、「異国の歌をつくりなおし、/それを自分の歌のように吟う」というのは、まさに翻訳という行為そのものである。大学教授も顔負けの悉皆調査をしながら、在野の詩人・翻訳家として原文の詩情を伝えてくれている、この早川眞理というひとは、いったいどんな思いでこの箇所を訳したのだろう、と考えずにはいられない。何度も言うが、これはほんとうにものすごい仕事である。

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  52 アメリカ娘


  年は二十歳のアメリカ娘
  エジプトまでは行かねばならぬ、
  地下墓所(クリプト)よりも暗い海の底で眠ってる
  「タイタニック」の忠告を忘れ果て。

  アメリカでは工場のサイレンが歌っている、
  紅い摩天楼の煙突たちは
  冷たい雨雲にさしだしている
  その煤けたくちびるを。

  そしてルーヴル美術館で大洋(おおうなばら)の娘は
  立つ、トーポリのように美しく。
  お砂糖の大理石を粉にしようと、
  リスのようにアクロポリスへよじのぼる。

  なにも分からないまま、
  車室で「ファウスト」を読んでいる
  そしてしきりに残念がる、
  どうしてルイはもう王位につかないの。


(52 アメリカ娘、1913年、88~89ページ)
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  75


  今にいたるもアトス山には
  奇跡の樹が生えている。
  緑なす険しい斜面では
  〈神の名〉が歌っている。

  それぞれの僧房では歓喜している
  〈神の名〉教徒の百姓たちが。
  言葉こそ――まことの歓び
  気鬱を癒すもの!

  全国民に、公然と
  修道士たちは異端宣告されている。
  けれどもこの魅惑の異端から
  ぼくらは逃れられない。

  恋をするたび、またしても
  ぼくらはこの異端におちいる。
  ぼくらは名のない愛を滅ぼすのだ
  名とともに。


(75、1915年、124~125ページ)
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 マンデリシュタームに戻ろう。アクメイズムという運動がなんであるか、わたしはまだほとんどなにひとつ知らないのだが、どうもこれは象徴主義の陥りがちな、ことさらに神秘性を与えようとする傾向や、意味の軽視を否定したものであったらしい。この時点ですでに、ランボーを受けつけられないわたしは大喜びせざるをえないのだが、巻末に収められたエッセイ「対話者について」において、マンデリシュタームがこんなことを書いているのも見逃せない。

象徴主義は魂の建築物へ楽音を投げかけ、象徴主義特有の自己陶酔をもって、他人の精神の円天井の下をさまよう楽の音を追うのだ」(「対話者について」より、137ページ)

「心をくだかねばならないのは、音響学についてではない。なぜなら音響学はおのずとやってくる。むしろ距離についてである。隣人とささやきあうのは退屈なことだ」(「対話者について」より、146ページ)

 詩人が、「音楽」ではなく「音響学」という言葉をわざわざ用いていることを、見逃してしまうわけにはいかない。アクメイズムに入ってからも、マンデリシュタームの詩には、たしかに音楽が流れているのだ。勝手な印象だが、アクメイズムというのは、象徴主義で追い求められていた音楽性を維持しつつも、それを「音響学」や「音声学(phonétique)」といった表層的な段階からは逸脱させる、という試みであったのかもしれない。そういえばヴェルレーヌの名が登場してくる、変な詩もあった。

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  41 老人


  もう明るい、警笛が歌っている
  朝の六時すぎ。
  ヴェルレーヌに似た老人よ、――
  さあ きみの出番だ!

  眼には狡そうなまたは子どもっぽい
  緑色の火、
  頸にはトルコ風の
  柄もののスカーフを巻きつけて。

  神を冒瀆し、ぶつくさ言ってる
  とりとめのないことを、
  懺悔したいのだが――
  それより先に罪を犯したいのさ。

  失意の労働者
  またの名は悲嘆にくれる浪費家(すってんてん)――
  夜の底でぶん殴られた片眼が、
  七色の火花を咲かせて。

  土曜の安息日を守りながら、
  老人はよろよろ歩いている、
  家々の門扉の下の隙間からは
  陽気な不幸が顔をのぞかせて、

  家では――とぎれめもなく罵って、
  カンカンになって青い顔をし、
  酔いどれのソクラテスを迎えるのだ
  てきびしい細君が!


(41 老人、1913年、68~69ページ)
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 それからまた、ユマニスム、という言葉をうっかり使いたくなってくるほどに、この詩人のギリシア・ローマに馳せる想いは、強い。以下のは、一読してすぐに気に入った数少ない一篇である。わざわざ書くまでもなく、『イリアス』が下敷きになっている。

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  78


  不眠。ホメロス。ぴんと張った帆また帆。
  ぼくは船軍目録を半分まで読んでしまった。
  かつてヘラスの空高く舞い上がった
  あの雛鳥の長い列、あの鶴の列を。

  異邦めざし飛びゆく鶴の楔形のよう――
  王たちの頭(こうべ)に潑ねかかる神の水泡(みなわ)――
  どこへあなたがたは漕ぎゆくのか? ヘレネーがいなければ、
  トロイヤは価値あるものか、アテナイの武人(もののふ)たちよ?

  海も、ホメロスも――全ては愛によって動く。
  ぼくはどちらに耳傾けるべきか? いまやホメロスは沈黙し、
  黒い海が、雄弁をふるいながら、ざわめく
  そして鈍く重い轟きをあげ、ぼくの枕辺に打ち寄せてくる。


(78、1915年、129ページ)
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 一篇まるごと、というわけでなく、部分的に気に入った詩なら、ほかにもいくらでもある。だが、詩を切り刻むのはあまり褒められたことではないので、どうしても書き留めたかったものだけを以下に挙げておく。

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  自分に陶酔して、
  光りの愛撫をうけ柔弱になった織物、
  それは今も夏を味わっている、
  まるで冬に冒されないかのように

(13より抜粋、1910年、24ページ)
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  おもちゃのような茂みをさまよいながら
  ぼくは瑠璃色の洞窟をみつけた……
  ぼくは実在の人間なのだろうか、
  死はほんとうにやってくるのだろうか?

(25より抜粋、1911年、41ページ)
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  しかし城塞ノートルダムよ、もっと注意深く
  おまえの怪物のような肋骨を研究するたびに、
  ぼくは前にも増して考えたものだ、悪しき重さを素材にして
  ぼくもいつの日か美しいものを創造しようと。

(39より抜粋、1912年、66ページ)
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 さて、詩集の話はここまでにして、さきほどちょっと先回りしてしまったものの、エッセイ「対話者について」のことを書いてみたい。そもそもの「対話者」というのは、詩人にとっての読者にほかならない。この問題意識そのものにも、詩人が抱いていた象徴主義に対する懐疑が、目に見えるかたちで表れている。

「生ける人間仲間へではなく、魂のない対象、自然へ話しかける詩人に人びとが狂気の烙印を押すとしたら、その人びとこそ正しい。狂人からそうするように、人びとがぞっとして詩人から跳びすさるのは当然だろう、仮に詩人の言葉が実際に誰へも向けられていないとするなら。しかし、それは違う」(「対話者について」より、137ページ)

「いったい詩人は誰と語るのだろう? これは難問であり、かつきわめて現代性のある問題だ、なぜなら象徴派詩人たちは、今日にいたるまでこの問題の鋭い提起を避けているので」(「対話者について」より、138ページ)

 ここで紹介されていたバラトィンスキイの詩が、信じられないほど良かった。

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  わたしの才は貧しく 声は低い
  けれどもわたしは生きている この地上にも
  わたしの存在を懐かしむ者もあるだろう
  遠い後の世の人は はたしてわたしの詩に
  わたしの存在を見いだしてくれるだろうか
  そうしたらわたしの心はその人の心と結ばれるだろう
  同世代に友を見いだしたように
  後の世の人のなかにも わたしは読者を見いだすだろう

(バラトィンスキイの詩、「対話者について」より、139ページ)
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 ちなみに、これを読んですぐに思い出したのは、『虹消えず』にも再録されていた、以下の堀口大學の一篇である。

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  死後


  私の死んだ後に
  一人が私の歌を歌ふかも知れぬ
  私の知らぬ一人が…………

  一人がこれ等の歌の中に
  彼みづからの愁しさを見出で
  やさしく小声に
  私の名をつぶやくかも知れぬ
  私の知らぬ一人が…………

  敗者であり
  弱者であり
  そして私の知らぬ一人が
  私の死んだ後に
  これ等の悲しい歌によって
  私を愛してくれるかも知れぬ
  私の知らぬ一人が…………


堀口大學「死後」、『虹消えず』より、145~146ページ)
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 バラトィンスキイも堀口大學も、同じことを詠んでいるのだ。そして、バラトィンスキイを引きながらマンデリシュタームが語っていることは、とても明確だ。つまり、詩人は特定の読者を想定するべきではない、ということ。

「具体的な対話者へ向けての呼びかけは詩の翼をうばい、その大気を、飛翔の力を奪ってしまう」(「対話者について」より、143ページ)

「意外性、これこそ詩の大気なのだ。一定の人へ向けて話すとき、わたしたちは一定のことしか話せない」(「対話者について」より、143ページ)

「仮にわたしが自分と話している相手を知っているとしたら、わたしが何を語るにせよ、わたしが語ることへ彼がどう応じるかを予め知っているわけで、したがって彼の驚きによって驚き、彼の喜びによって喜び、彼の愛によって愛することはできない」(「対話者について」より、146ページ)

 散文の場合は、ちがう。だが、ここで語られている「散文作家」とは、いったいだれのことだろう。「prose」という意味での散文体の詩人や、もっと広義に、たとえば小説家は含まれるのだろうか。いや、わたしの印象では、含まれてはいない。これは、文学を志すことのないすべての書き手、という意味で受けとるべきなのだと思う。ブロツキーが語っていたとおり、文学というのは「種としての人類の目的」なのだから(『私人』、17ページ)。

「散文作家は常に具体的な聴き手、時代の生きた代表者へ語りかける」(「対話者について」より、144ページ)

「聴くためにそばだてた耳は演説家や政治家、散文作家なら誰でも意気込ませることができるだろう、詩人を除いて……」(「対話者について」より、145ページ)

 結論として挙げられる「公式」も、明快そのものである。

「わたしたちを対話者の抱擁へと押しやる唯一のものは、自分自身の言葉に驚きたい、自分自身の言葉の独創性と意外さにうっとりしたいという願いである。この論理は不動だ」(「対話者について」より、146ページ)

「話したいという願いは、対話者に関するわたしたちの実際の知識に反比例し、対話者にわたしたちへの関心を抱かせたいという希求にぴったり比例する」(「対話者について」より、146ページ)

 じつは先日国内にいたとき、わたしがこの本を鞄に潜ませていると知った友人が、マンデリシュタームの別の本をプレゼントしてくれた。ヴァレリーボルヘス、ブロツキーなどを考えてみるとわかりやすいが、詩人が書くエッセイや評論というのは暴力的なまでに明晰で、読んでいてこれほど楽しいものはない。この詩集を好きになれたことで、いま、あのプレゼントがとても嬉しい。

「詩とは自己の正当性の自覚である」(「対話者について」より、141ページ)

「詩は多かれ少なかれ、詩人が自己を疑わずしてはその存在を疑うことのできない、遙かな未知の名宛人へあてられているのである」(「対話者について」より、148ページ)

 マヤコフスキーやブロツキーといった幸運な例外を除いて、わたしはこれまであまりにも、ロシア詩の豊潤さに無頓着であったように思う。「文学的連想」とともに詩を綴るマンデリシュタームの特異な書きかた、そしてその原典を言い当てつづける訳者の見事な仕事ぶりが、この沃野の広大さを垣間見させてくれた。ひょっとしたらここは、黄金しか発掘されない洞窟なのかもしれない。ああ、飛びこみたい。邦訳が手に入る環境を整え次第、どんどん読みたいと思っている。

詩集 石―エッセイ 対話者について (群像社ライブラリー)

詩集 石―エッセイ 対話者について (群像社ライブラリー)

 


〈読みたくなった本〉
ナジェージダ・マンデリシュターム『流刑の詩人マンデリシュターム』

流刑の詩人・マンデリシュターム (1980年)

流刑の詩人・マンデリシュターム (1980年)

 

チュッチェフの詩集

Poems selected from Karamzin, Pushkin, Tyutchev, Lermontov, Count A. Tolstoy, Nikitin, Pleshcheyev, Nadson, and Sologub

Poems selected from Karamzin, Pushkin, Tyutchev, Lermontov, Count A. Tolstoy, Nikitin, Pleshcheyev, Nadson, and Sologub

 

バーチュシコフ詩集
(そんな馬鹿な、と言いたくなるほどに、英語にもフランス語にも翻訳がなかった。以下は唯一見つけた英訳で、Kindle版。きっと買わない)

Poetry (English Edition)

Poetry (English Edition)

 

チャアダーエフ『哲学書簡』(執筆はフランス語で為された)

Lettres philosophiques
 

 マンデリシュターム『ピョートル・チャアダーエフ』(エッセイ、リンクは仏訳)
「ロシアには精神的な自由、選択の自由というチャアダーエフにとってたった一つの贈物があった。西欧ではこの自由はこれほどの大きさ、これほどの純粋さと完全さで実現したことはなかった。
 チャアダーエフはその自由を神聖な錫杖のように受け取るとローマへ赴いた。国と民衆がたった一人でも完全に自由な人間を創造し、その人間が自分の自由を行使したいと願い、それを敢えてしたとしたら、国と民衆はもはや自分たちを正当化できる、とわたしは思う。
  ボリス・ゴドノフがピョートル大帝を先取りして、ロシアの若者たちを外国へ派遣したとき、そのうちの誰一人として戻ってきはしなかった。存在から非存在へ の帰り道はない、永遠の都ローマの不死の春を味わった者は息苦しいモスクワでは死んでしまう、という単純な理由で彼らは戻らなかったのである。
 けれども最初に放った鳩たちもノアの箱船へ戻りはしなかったではないか。
 チャアダーエフは実際に、思想的に、西欧に滞在したあと、帰りの道を見つけた最初のロシア人だった。同時代人たちはそれを本能的に感じていて、自分たちのなかにチャアダーエフがいるのをとてつもなく大切に思っていたのだ」(「訳注」より、171~172ページ)

マンデリシュターム『アクメイズムの朝』(エッセイ、リンクはさまざまな運動の宣言をまとめた英書)
「永久に論証し続けることが必要だ。なぜなら、芸術において疑うことなしに何かを信じるのは、芸術家にふさわしくはなく、安易で退屈だから」(「訳注」より、163ページ)

Manifesto: A Century of Isms

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バラトィンスキイの詩集

A Science Not for the Earth: Selected Poems and Letters (Eastern European Poets Series)

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ロバート・サウジー「ペナーテース賛歌」

Juvenile and Minor Poems Vol. 2

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