Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ナショナリズムの克服

驚いた。
たまたま姜尚中の講演に行くから一冊適当な本でも読もう、と思って手に取った新書にこれほど楽しませてもらえるとは、全く予想していなかった。
戦後後期におけるナショナリズムに興味を持っていたから手に取ったにすぎないような読者をここまで惹きつける本に出会えたことを心から嬉しく思った。 

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

 

姜尚中森巣博ナショナリズムの克服』集英社新書、2002年11月。


政治学者姜尚中と博奕打ち兼作家の森巣博の対談をまとめたもので、その議題は現代の「ネオナショナリズム」、アイデンティティの問題、カルチュラル・スタディーズ隆盛の意義、「民族」という概念の暴力性、ベネディクト・アンダーソンに基づく国家概念の「再想像」の必要など、非常に多岐にわたっている。

北田暁大が「反シミン主義」と呼び、小熊英二が「〈癒し〉のナショナリズム」と呼んでいたものが、ここでは「ネオナショナリズム」と名付けられ、やはり旧来のナショナリズムとは切り離せないものであると指摘した上で、旧来のナショナリズムと現代の「ナショナリズム的なもの」のアーキュレイトを認め、長期的スパンにおいて持続し得るものではないと述べている。
政治ナショナリズムが経済ナショナリズムへと変容し、それらが戦後において必要なものだったことを認めた上で、既に国民国家は崩壊寸前であることを言及し、その反動として現在強勢をもって「ネオナショナリズム」が台頭してきている、という。

国民国家の崩壊を述べる上で今度はアイデンティティの問題が表れる。在日二世である姜尚中と、早くから日本を出た国際的博奕打ち森巣博の述べるアイデンティティという概念は非常に興味深いもので、特に若き日の姜尚中アイデンティティにまつわる葛藤は、読み物としても非常に面白いものだった。『在日』という本でさらに詳しく言及されているようなので、いつか手に取ってみたい。

アイデンティティ問題から派生し、今度は「民族」という概念が取り沙汰される。
「民族」はその空間におけるマイノリティに当てはめられる概念で、辞書的な意味合いで捉えようとするとナショナリズムレイシズムに直結する可能性もある、非常に暴力的なものとして扱われる。西欧の構造主義・ポスト構造主義隆盛において、即ちレヴィ・ストロースアルチュセールラカンフーコーロラン・バルトドゥルーズデリダなどの実践において徹底的に解体された概念であるのに、日本の人文社会においてはそれが伝わらず、現代においても「民族(nation)」という単語が濫用されているという事態に警鐘を鳴らしている。

しかし西欧から30年遅れで輸入されたカルチュラル・スタディーズがようやく実践の段階を得て、さらにポスト構造主義の紹介も日本においてようやく陽の目を浴びるようになったことから『国家の品格』などが売れるような土壌は内部から崩壊していくだろう。

そして最終的に問われたのは「無族協和」である。世界がようやくH・G・ウェルズに追いついた、と言えるかもしれない。さらにネグリの『〈帝国〉』からの意見が述べられる。

「ハートとネグリによれば、「帝国」とは、内部矛盾を外部化することによって、成立してきた。ところが現在では、世界のどこをどう探しても外部なんてものはないんだ、ということを指摘しているわけです。」(本書、213ページ)

例えば「日本民族」という観点からみた「アイヌ民族」「沖縄民族」「在日××民族」など、無理に外部を作ろうとしてナショナリズムレイシズムが奨励されるのは最早根本的矛盾を避けようがない問題で、そういった対照化を諦めた上で、さらに「帝国」における新たな差別構造の再生産が行われる可能性も指摘している。

長々と書いてしまったが、こんなにややこしい言葉は使われず、基本的にわかりやすい口語で議論が進められていく、素晴らしい本です。デリダを研究している仲正昌樹が「わかりやすさという教理に反発する」といったことをどこかで言っていたけれど、やっぱり「わかりやすい」本は面白いので、僕は仲正昌樹よりも内田樹のスタンスをとりたい。
わかりやすくて、良い本です。昨今の新書には稀なほど、しっかりとした結論も提示してくれます。オススメ。 

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

ナショナリズムの克服 (集英社新書)