アムステルダム
会社の同期の強い薦めで、試しに手に取った一冊。
イアン・マキューアン(小山太一訳)『アムステルダム』新潮文庫、1999年。
「クライヴの西ロンドンの持ち家、自分のことさえかまっていればよい生活では、文明とは全ての芸術の集積であり、そこにデザイン、料理、よいワイン等々を加えたものであると考えるのも容易だった。しかし今になってみると目の前こそが現実のようだった――何平方マイルという安っぽい現代住宅の主な役割はテレビアンテナや衛星のパラボラを支えることのようで、工場はテレビで宣伝される下らないがらくたを製造し、さびれた駐車場にはそれを届けるトラックが列をなし、ほかのあらゆる場所は道路と交通地獄。まるでどんちゃん騒ぎのディナー・パーティの翌朝だ。こんなパーティを望んだ客はいないが、誰も招きを受けたわけではない。誰もこんなものを計画しなかったし望みもしなかったが、大抵の人間はそこで暮らすほかないのだった。何マイルも何マイルもそれを眺めたあとでは、親切心や想像力、パーセルやブリテン、シェイクスピアやミルトンがかつてこの世にあったことを誰が信じられよう?」(77~78ページ)
初めてマキューアンに触れたが、文章が非常に美しい。「まるで」という副詞が登場するたびに「今度はどんな比喩だろう?」という期待でゾクゾクする。
「ヴァーノンは受話器を肩と頭ではさんで、音を立てずにシャツをセロファン包みから出そうとしていた。シャツを洗う業者がボタンを全部かけてよこすのは退屈のせいだろうか、サディズムなのだろうか?」(122ページ)
友人曰く、『アムステルダム』はマキューアンの著作の中でも特殊な部類に属するものらしい。200ページ程度の薄い本であるにも関わらず、読み応えは十分すぎるほどだった。
「従来の知に依存しすぎてはいけない」(155ページ)
存命の作家を好きになれるのは嬉しい。他の著作も読みたくなった。