ボートの三人男
過去に筑摩書房版『世界ユーモア文学全集』のために訳出された、イギリスの傑作ユーモア小説。
- 作者: ジェローム・K.ジェローム,丸谷才一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/03/25
- メディア: 文庫
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ジェローム・K・ジェローム(丸谷才一訳)『ボートの三人男』中公文庫、1976年。
「ユーモア文学が好きだ」と至るところで書いたり言ったりしているが、本当のところこのジャンルに括ることのできる作家は少ない。敢えて挙げるなら、ケストナーやロダーリ、チェーホフやウッドハウスといったところか。ユーモラスな文章が含まれる小説は膨大にある。ジョン・アーヴィングやミラン・クンデラの書くユーモアは大好きだし、彼らの笑いのセンスを認めないわけにはいかないのだが、それでもやはりユーモア文学作家ではないだろう。ユーモア文学のテーマは笑いによって人を幸せにすることにある。極端な話、読後に何も残らなくても良いのだ。読んでいる最中に口元が歪みさえすれば、そして本を閉じてからの十分間、普段よりも少し目線を高くして世界を見据えることができれば、それだけでその作品はユーモア文学として成功している(と、僕は勝手に思っている)。
そういった意味で、この『ボートの三人男』はユーモア文学である。本書が書かれたのは1889年、それもこの小説は元々ユーモア文学として着手されたものではなかったと、解説で語られている(ちなみに解説者は井上ひさし。訳者といい、非常に豪華である)。百年以上も前に書かれたものとはとても思えない。でもそのことすら、「人間って変わらないなぁ」とほくそ笑むことができるのも、この作品の、ユーモア文学の醍醐味である。
「夕食の前はハリスもジョージもぼくも喧嘩腰で、不機嫌で、言葉つきはガミガミしていた。夕食が済むと、互にほほえみあい、犬にまで微笑を投げるのであった。ぼくたちはお互に愛し合っていた。ぼくたちはあらゆる人を愛した。ハリスがボートのなかを歩き廻って、ジョージの足の底豆を踏みつけた。これが夕食前だったら、ジョージは必ずや、この世および未来におけるハリスの運命について、思慮ぶかい人を戦慄させるだけのさまざまな願を表明したに相違ない。ところが今は、「気をつけてくれよ。底豆ができてんだから」と言うだけだ。そしてハリスのほうにしても、もしこれが食前だったら、ジョージみたいな足の大きい奴が寝転んでいる以上十ヤード以内の所を歩く人間だったら誰でも足を踏みつけるのは当り前だ、ジョージはこんな狭い舟にあんなに大きな足で乗るべきじゃないんだ。もし乗るんだったら夕食前みたいに舟べりから足を投げだしてるほうがいいだろう、と言ったに違いない。ところが今は食後なものだから、「やあ、御免、御免。ぼくが悪かった」と謝った。するとジョージは、「いや、何でもないんだ。ぼくのほうが悪かったんだよ」と答える。それに対してハリスは、「いや、ぼくが悪かったんだ」と言う。こういうのは聞いていて気持がいい」(140~141ページ)
「聞いていて気持がいい」というのは重要である。
「一体ぼくは、いつも働くべき分量以上に多く働いているような気がする。誤解しないでほしいが、ぼくが仕事が嫌いだという訳ではない。ぼくは仕事が大好きだ。何時間も坐りこんで、仕事を眺めていることができる位なのだ。ぼくは仕事をそばに置いておくのが好きで、仕事から引離されるなどということは、考えただけでも胸が痛くなる。
ぼくはいくら仕事が多くても平気なのである。仕事を溜めておくということは、ぼくにとって、ほとんど情熱のようなものになっている。今では、ぼくの書斎は仕事が一杯になって、もうこれ以上仕事を置いておく余地がないくらいだ。もうじき建て増ししなければならないと思っている。
それにぼくは仕事に対して注意ぶかい。だから、ぼくが抱えている仕事のなかには何年間もぼくの所有に属していて、しかも指のあと一つついていないものもあるのだ。ぼくは自分の仕事にたいへん誇りをもっている。ときどき仕事をとりだして、ハタキをかけてみるくらいだ。仕事の保存状態がぼくよりもよい人は、あまりいないだろう」(218ページ)
井上ひさしは解説で「この小説を速読するのは損だ」と書いている。本当にその通りで、これはゆっくりと世界に(テムズ河)に身を浸しながら読むべき小説だ。付け加えておくと井上ひさしも、僕の大好きなユーモア文学作家の一人である。
沢山の人に読んでもらいたい小説。ただし、何も期待しないこと。本棚からおもむろに取り出して読むような時こそ、この本は真価を発揮する。
- 作者: ジェローム・K.ジェローム,丸谷才一
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