Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

南方郵便機

新潮文庫版『夜間飛行』に併収された、サン=テグジュペリの芸術作品。

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

 

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(堀口大學訳)「南方郵便機」、新潮文庫『夜間飛行』所収、1956年。


「水のように澄んだ空が星を漬し、星を現像していた」(124ページ)

ページ数だけ見ても、「夜間飛行」よりも少し長い位にしか感じられない。だが、この作品は一行一行が圧倒的な重みを持っており、端的に言って、電車の中等で片手間で読めるものではない。

「あの時すでに君は知っていた、ジャック・ベルニスよ、僕らはグラナダも、アルメリアも、アルハンブラも、回教寺院も、見物する折りがない代りに、小さな小川、一本のオレンジの樹、そしてそれらのものの心貧しい打明け話を知り得るはずだと」(134ページ)

訳者である堀口大學も「『南方郵便機』は『夜間飛行』以上に読者に精読を要求する作品だ」と断言している。私にはこの作品以上に精読を要求する本が想像できない。難解な哲学書ですら、理解できないながらも、もっとすんなりと入ってくる気がする。

「この世の中に希望ほど、脅え易いものはない」(155ページ)

例えば先日紹介した、ジャン・コクトー『ポトマック』が「詩集のような小説」だったのとは対称的に、『南方郵便機』は「小説のような詩集」だ、と言える気がする。ただ、それもある部分までは、だ。最後まで読むと、これは紛れもない長編小説の読後感を与えてくれる。

「隊商の通路は、落ち散っている白骨で知れる、僕らの航空路は落ちている数台の飛行機で知れる」(261ページ)

「昨夜、あの窓は紺色だった。それが今では、暁の光に汚れている。昨夜、あの窓は、ランプの光に照らされてサファイアのような深い緑色に見えていた。昨夜、あの窓は星のところまで穿たれ続いていた。窓は昨夜、人を夢にさそい、人に空想を与えた。人は船の舳にいるような気持だった」(198ページ)

やはり空の描写に圧倒される。闇、星、月。物語の主役は、全てこの三者に取り囲まれている。空を描く時、サン=テグジュペリほど濃密にそれを分析した作家はいないだろう。太陽の有無に関わらず、彼は操舵を握りながら、独り、空と見つめ合っていたのだ。

「彼は、自分が今、苦しんでいるかどうかもわからなかった。というのが、彼が、いま楽な坂道を下っていて、未来が努力なしに自分の方へ近づいて来ていたので。事件のままに身を任せている限り、人間に悩みはない。悲しみに身を任せてさえも、すでに悩みはない。やがて後になって、消えた楽しい夢を思い出す時、初めて彼は苦しむはずだ」(200ページ)

「彼は思った、「僕を説明し、僕を立て直してくれる所が見つかるとしたら、それは僕にとっての真実のはずだ」次に彼は、つまらなそうに、つけ足して独語した、「しかし僕はそれを信じないだろう」と」(203ページ)

ひたすらに格好いい。ありとあらゆる意味でロマンに溢れた作品だ。先述した通り、持ち運んで読めるものではない。家で、可能ならば夜に、じっくり向き合ってこそ、この短編であり、また同時に長大な長編小説のような作品の魅力を、垣間見ることができるだろう。稀有な作品。何度読んでも、初めて触れるような感覚に陥るに違いない。

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)