Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

肉体の悪魔

あまりにも早熟な若者が描いた、悲劇。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

 

レーモン・ラディゲ(中条省平訳)『肉体の悪魔』光文社古典新訳文庫、2008年。


「僕は夢見るようなタイプではまったくなかった。なんでも簡単に信じるほかのみんなと違って、彼らには手の届かないものに見えることが、僕にはありのままの現実に見えた。猫がガラスケースごしに見ているチーズのようなものだ。だが、チーズは見えているが、ガラスの壁も存在している。ガラスが割れれば、猫はその隙につけいってチーズをいただくだろう。たとえ、自分の飼い主がガラスを割り、指を切って苦しんでいたとしても」(7ページ)

これを十代の若者が書いたなんて、信じたくない。何という悲劇だろう。不道徳と頽廃と、諦めと希望、そして絶望。粗削りなところなんか一つもない。それが一層悲劇的だ。

「絆がまだしっかりと結ばれていない場合、会う約束を一度でも破れば、まもなく相手のことを忘れてしまうものだ。僕はマルトのことを考えすぎたせいで、しだいに彼女のことを考えなくなった。心だって壁紙を眺める目と同じようなものだ。見つめすぎればもう見えなくなる」(56ページ)

「体の触れあいを愛のくれるお釣りくらいにしか思わない人もいるが、むしろそれは、情熱だけが使いこなせる愛のもっとも貴重な貨幣なのだ。僕は自分の友情にも愛撫は許されると思っていた。しかし、女性に対するさまざまな権利を与えてくれるのは愛だけだという事実に、心の底から絶望しはじめていた」(64ページ)

若者が愛について悩む時の感覚が、ありのままに描かれている。本能だけで書いたというのだろうか。読んでいる最中には、主人公の年齢、いや、作者の年齢を完全に忘れてしまう。十代の若者が書いた。坂口安吾が「ラディゲの年齢を思う度に憂鬱になる」と書いたのも頷ける。

「彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕にはわからなかった」(65ページ)

「平静に死を直視できるのは、ひとりで死と向かいあったときだけだ。二人で死ぬことはもはや死ではない。疑り深い人だってそう思うだろう。悲しいのは、命に別れを告げることではない。命に意味をあたえてくれるものと別れることだ。愛こそが命なら、一緒に生きることと一緒に死ぬことのあいだに、どんな違いがあるというのだろう?」(88ページ)

「ボートに横になると、生まれて初めて死にたくなった。だが、生きることができないのと同じく死ぬこともできず、慈悲深い殺人者が来てくれればいいと思っていた」(144ページ)

一歩間違えば、陳腐なものに成り得るストーリーを、心理描写の数々が飾り立てている。いや、卑しめているのかもしれない。卑しめ過ぎた結果、この小説にかけがえのない価値が付加されたのかもしれない。

「僕を捨てるって、もっと何度もいってくれ」(185ページ)

ひたすらに悲しかった。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)