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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ドルジェル伯の舞踏会

『肉体の悪魔』とは全く異なる、ラディゲの遺作。

ドルジェル伯の舞踏会 (新潮文庫)

ドルジェル伯の舞踏会 (新潮文庫)

 

レイモン・ラディゲ(生島遼一訳)『ドルジェル伯の舞踏会』新潮文庫、1951年。


ラディゲには二つの著作しかない。処女作である『肉体の悪魔』と、遺作であるこの『ドルジェル伯の舞踏会』だ。二十歳で世を去った若者は、この二つの全く異なる著作によって、その才気を生前から既に世に示していた。この本に寄せられたジャン・コクトーによる序文が、もの悲しくも、それを如実に表している。

 

「私が要求する唯一の名誉は、死によってあたえられるであろう立派な地位を生前のレーモン・ラディゲにすでにあたえていたことだ」(6ページ)。

 

ラディゲは、単に自らの悲劇的な体験を書き表した若者ではなかった。彼はその才覚の故に、自らの人生の悲劇性に気付いてしまったのだ。

「この男を早熟というのはおよそ不正確だ。あらゆる年齢にはそれぞれの果実がある。それをうまく収穫することが大切だ。しかし、若い者たちはもっとも手のとどきにくい果実を早くとろうとあせり、はやく大人になろうとあせるあまり、目のまえにある果実を見落すのだ」(23ページ)

『肉体の悪魔』は、若者のほとばしる感情によって書かれていた。この『ドルジェル伯の舞踏会』を描くラディゲの筆致は、あまりにも冷静だ。フランス文学の伝統たる恋愛心理を描きながらも、彼は誰にも感情移入していない。それでいて恐ろしいことに、これは夫を持つ元来貞淑な女性と、若者との恋の物語なのだ。つまり、『肉体の悪魔』と全く同じなのだ。

「こんなにして長い一日をすごした後も彼女は心配にはならなかった。(あのひとといっしょにいて、あたしなにも感じないもの)と思うのだった。これこそ幸福の完全な定義ではあるまいか? 幸福も健康もおなじようなものだ。それとは気がつかずにいるものである」(133ページ)

ラディゲの文学的な手腕を、まざまざと見せつけられる作品だ。死が彼に与えた栄誉は大したものではない。『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』を前にすると、そんなもの、何の価値もないのだ。

訳者による解説を引用しよう。
「従来のフランス心理小説的手法では、作者の知的な位置が作中人物のどれかと一致して、その時々に都合よく説明する。ラディゲの小説では、作者の知的な位置はけっして人物のどれとも一致しない。常に人物の外にある。それは人物の心の動きとは別に幾何学の軌跡のような線をえがいている。こういう特色はプルーストドストエフスキーのようなもっとも現代的な小説に見られるが、ラディゲはこれをもっとも純粋な形に完成しようとこころみたというのである」(解説、225~226ページ)

フランス文学であることに疑いはないのだが、人物たちの特色が、あまりにも事細かに語られる点で、ジェイン・オースティンを彷彿とさせる。ただ、彼女はもっと感情を込める。ラディゲの立ち位置は、彼らからあまりにも遠い。

個人的には『肉体の悪魔』の方が好きだ。まだ愛着が持てる。あと10年も生きることができたなら、ラディゲは一体どんな小説を書いたのだろう。コクトーの嘆きも頷ける。

ドルジェル伯の舞踏会 (新潮文庫)

ドルジェル伯の舞踏会 (新潮文庫)

 
肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)