Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

イン・ザ・ペニー・アーケード

友人がミルハウザーをこんな風に評価していた。「トーマス・マンボルヘスを足して二で割ったような感じ」。どんな感じだ。

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

スティーヴン・ミルハウザー(柴田元幸訳)『イン・ザ・ペニー・アーケード』白水uブックス、1998年。


ミルハウザーを日本に伝えた、記念碑的な本。この本を買ったのが、いつだったのか思い出せない。初めてダイベックを読んだ時には、既に『シカゴ育ち』と並べて本棚に入れてあったから、少なくとも一年以上前だ。以下、収録作品。

第一部
「アウグスト・エッシェンブルク」
第二部
「太陽に抗議する」
「橇滑りパーティー」
「湖畔の一日」
第三部
「雪人間」
「イン・ザ・ペニー・アーケード」
「東方の国」

第一部の「アウグスト・エッシェンブルク」は奇跡の傑作。第二部の三作はいずれも女性が主体となっていて、第三部の三作は幻想的な小編だ。

「アウグスト・エッシェンブルク」は完璧だ。ここには才能と知性との闘いが描かれている。芸術に対するそれぞれの思いが、物語を形作っていく。

「ハウゼンシュタインは明らかに退屈していた。才能よりも知性がはるかに上回る人間にありがちなように、心の底から退屈しきっていた」(「アウグスト・エッシェンブルク」より、62ページ)

才能の男アウグストと、知性の男ハウゼンシュタインとの会話が、鮮烈だ。

「かくして多感なる十六歳の日々に、僕は重要な秘密を学んだ。あらゆる言葉は仮面だということ、そしてその言葉が美しければ美しいほど隠しているものも大きいということを。仮面を剥ぐ役割を僕が楽しめるのなら、結構じゃないか、僕なりのやり方でお国のために尽くすことができるというものさ。連中は魂について御託宣を並べ立てる。僕は奴らに、奴らが本当に欲しがっているものを与えてやる。そしてその過程において、僕は世界の虚偽を蔑む思いを満たし、真理を愛する気持ちを充足させることができる。そうさ、僕は奴らを、豚どもを引きずり下ろしてやる。引きずり下ろしてやるのさ」(「アウグスト・エッシェンブルク」より、96ページ)

結末が最高だった。「アウグスト・エッシェンブルク」は一つの長編として捉えていいだろう。しかも、極上の長編だ。

「アウグスト・エッシェンブルク」を読んで、そのまま第二部を読み始めると、度肝を抜かれる。同じ作家が書いたとは思えないのだ。でも、「太陽に抗議する」の最後まで読んだあたりで、同じ作家だと信じられる。短編集には往々にして、記憶に残らない作品が一篇くらい入っているものだが、第三部を読み終えても、どれも鮮やかに思い出せる。一つ一つが独立した作品なのだ。

「胸の内側を殴られたような衝撃とともに僕は理解した。ペニー・アーケードの住人たちは、もはや彼らを信じなくなった人々の視線の呪縛によって、その自由を失ってしまったのだ。その内にひそむ豊かな本性を見ることができない無数の客たちの容赦ない残酷な眼差しが、彼らの尊厳と神秘を押しつぶしてしまったのだ」(「イン・ザ・ペニー・アーケード」より、223ページ)

第三部はまた凄い。「雪人間」にも「イン・ザ・ペニー・アーケード」にも「東方の国」にも、驚かされる。「雪人間」ではダイベックの『シカゴ育ち』に入っている、「荒廃区域」を思い出した。「東方の国」の構成は、見事としか言いようがない。描写が眩しすぎる。

おすすめの読み方としては、まず「アウグスト・エッシェンブルク」を耽読する。そして第二部と第三部の短編を一作ずつ、中断せずに読むことだ。ミルハウザーの短編(ここでは「アウグスト・エッシェンブルク」以外)は、可能な限り中断せずに読みたい。睡魔に打ち勝つ自信があるのなら、毎晩一つずつ読むのも良いだろう。掛値無しに、全部良い。時間がある時に、ゆっくり読むと、本当に素晴らしいものばかりだ。

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 


〈読みたくなった本〉
ミルハウザーエドウィン・マルハウス』

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

 

ミルハウザー『ナイフ投げ師』

あわせて読みたい

ダイベック『シカゴ育ち』