Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

居酒屋

柏倉康夫の『敗れし國の秋のはて』を読んだ時に、「パリの街角で民衆が『ナナ』を買うために行列を成していた」という、堀口九萬一による回想が紹介されていた。古典作品はどうも後回しになりがちだから、興味が湧いた時に読まなければならない。そして手に取った。

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))

 

エミール・ゾラ(古賀照一訳)『居酒屋』新潮文庫、1970年。


長かった。何せ700ページもある。しかも、恐ろしく読みやすいのだ。小難しい考えが全く必要ない分、だらだらと読んでしまった。

『居酒屋』は『ルーゴン・マッカール叢書』の第七巻にあたる作品である。巻頭に付された著者による序文「今回は『居酒屋』の番である」(5ページ)が、二十冊に及ぶ膨大な作品群の影を際立たせる。『ナナ』を読む前に『居酒屋』を読まなければ、と手に取ったのに、『居酒屋』自身もまた、この叢書の中では続編として扱うことができるのだ。

しかし、その独立性たるや、これが二十冊の内の一冊に過ぎないとは、俄には信じ難い。長編と呼ぶに相応しく、完結しているのだ。読み終えて大急ぎで『ナナ』を手に取る必要もない。ちゃんと終わった。『ルーゴン・マッカール叢書』の二十冊は、それぞれが独立した作品であり、同時に何かの作品のサイドストーリーとしても読めるのだろう。ナナは『居酒屋』の主人公、洗濯女ジェルヴェーズの娘である。ナナより上には二人の息子がおり、長男クロードは『制作』の主人公、次男エチエンヌは『ジェルミナール』の主人公なのだ。『ルーゴン・マッカール叢書』はこうして広がっていく、圧倒的な独立性を持ったシリーズなのだ。

ここまでは作品の外の話である。読んだからには内容についても書いておきたい。先述した通り『居酒屋』は長い話だが、一つのテーマが作品を貫いている。即ち、十九世紀の一人の労働者としての、洗濯女ジェルヴェーズの栄光と破滅である。最後まで読み終えてから冒頭を開くと、彼女を取り巻く人々が、ほとんど変わっていないことに気付く。同じ人々の内面の変化が、それと気付かぬ緩やかさで描かれている。この長さはそれを緩やかに見せるために必要なものだったのだと、頷ける。観念的な描写なんて一つもないのに、ゾラが小難しい小説を書く者と見なされる理由は、ここにある気がする。あんまり緩やかに変遷するものだから、そこからいくらでも観念的な要素を汲み取ることができるのだ。

「男ってひと晩のために、それも最初のひと晩のために結婚することがよくあるんだから。でも結婚生活はそれから一生のあいだ、夜も昼も続くのよ」(89ページ)

登場人物たちのどんなセリフであれ、それを予言や暗喩と取ることができる。後半部に差し掛かると、ひどく単純な話を読んでいることに気付く。チェーホフなら短編にまとめてしまいそうな内容だ。

「給料が、強いブランデーのなかで溶けてしまったといっても、ともかく自分のおなかにはいっている。きれいな黄金の水みたいに、きらきら光る、澄みきった給料を飲んでるのだ。ああ! 世間の連中がどう言おうと知ったことではない! 人生がこれほど楽しい思いを与えてくれたことはない」(568ページ)

作品を長大にしている要素は他にもある。風景描写が非常に豊富なのだ。たまたま私の卒業論文のテーマが十九世紀末フランスだったので、読んでいて興味深い点が非常に多かった。論文を書く前に読んでいれば、と惜しまれる。例えば労働者階級の識字率については、今ではアナール学派のユニークな方法でおおよその数字が明らかにされている。それは教会に保存された、結婚式用の台帳に成された署名から割り出すというものだ。字が書けない者は署名の代わりに十字架を書く。『居酒屋』にあった場面は、これの歴史的証言ともいえる。

「みんなは台帳にしがみついて署名したが、その字たるや跛で太かった。新郎だけは字が書けぬために十字架を一つ書いた」(118ページ)

十九世紀のフランスを研究対象としているのなら、読んでおいた方がいい。おそらく『ルーゴン・マッカール叢書』全てを読むべきなのだろう。ここには様々な職種の労働者が現れ、その仕事が窺える。洗濯女、帽子屋、ブリキ屋、鎖職人、住居管理人、鍛冶屋、巡査、造花女工など、『居酒屋』だけで随分多くの職業を見ることができる。しかも「訳者あとがき」によると、叢書の主人公たちは全員異なる職業に就いている。医者から娼婦まで、選り取りみどりだ。歴史的風景の全体像を浮き彫りにするのに、これほど有用な史料も珍しい。帽子屋と巡査が政治の議論をするところなど、非常に面白い。

結局、長かったがそれなりに楽しんで読んだ。ただ、小説を読んだ感じではない。ここまで揚げた事柄に興味がないと、恐ろしくのっぺりした小説と映るかもしれない。小説として楽しもうと思うのなら、無理に薦めはしない。

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))

 

 

<読みたくなった本>
ゾラ『ナナ』
→ジェルヴェーズの娘の話。

ナナ (新潮文庫)

ナナ (新潮文庫)

 

レオン・ガーフィールド『見習い物語』
→十八世紀ロンドンの民衆の、様々な職業を描いた短編連作の児童文学。

見習い物語〈上〉 (岩波少年文庫)

見習い物語〈上〉 (岩波少年文庫)

 
見習い物語〈下〉 (岩波少年文庫)

見習い物語〈下〉 (岩波少年文庫)

 

レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『パリの夜』
→こちらは十八世紀末フランスの民衆。

パリの夜―革命下の民衆 (岩波文庫)

パリの夜―革命下の民衆 (岩波文庫)