ボヴァリー夫人
古典的名著と呼ばれる小説は、思い立った時に読んだ方がいい。読んだことを後悔することはほとんどないと言っていいし、それが名著である由縁が判らないことも、また、ほとんどないからだ。
ギュスターヴ・フローベール(生島遼一訳)『ボヴァリー夫人』新潮文庫、1965年。
最初は岩波文庫版の伊吹武彦訳で読んでいたが、途中で生島訳に切り替えた。生島訳の方が圧倒的に、現代的な文章で書かれている。これから読む方には、迷わず新潮文庫を選んで頂きたい。
「フランス文学」という単語から作品を抜き出そうとすると、どうしたって『赤と黒』や『居酒屋』や『ボヴァリー夫人』も挙がってくるだろう。単純にみると、これら三つの作品の共通点が浮かび上がる。不倫である。『赤と黒』のレナール夫人、『居酒屋』のジェルヴェーズ、そして『ボヴァリー夫人』のエマ・ボヴァリー。彼女らは皆、それぞれ異なる状況で不貞をはたらく。それでまさか「フランス文学とは不倫の文学だ」などと言う気はさらさらないが、ちょっと面白いことだと思う。
「結婚するまでエマは恋をしているように思っていた。しかしその恋からくるはずの幸福がこないので、あたしはまちがったんだ、と考えた。至福とか情熱とか陶酔など、本で読んであんなに美しく思われた言葉は世間では正確にはどんな意味でいっているのか、エマはそれを知ろうとつとめた」(47ページ)
『ボヴァリー夫人』の主人公は紛れもなくエマ・ボヴァリーなのだろうが、ここにはもう一人の主人公がいる。エマの夫であるシャルル・ボヴァリーである。私はこれをエマのではなく、シャルルの物語として読んだ。シャルルの境遇に同情し、泣きまくってしまった。
「十月の中ごろ、エマは背に枕をおいて寝床ですわれるようになった。彼女がはじめてジャムをつけたパンを食べるのを見たとき、シャルルは泣いた」(286~287ページ)
シャルルが可哀想で仕方なかった。小説ということを忘れてしまった。彼は全くの善人で、深く妻を愛しており、彼女を信じていた。
「嘘をつくことが、欲求となり、癖となり、快楽となって、ついには、もしエマが私は昨日道の右側を通ったといったら、実は左側を通ったのだと思わねばならない、までになった」(374ページ)
エマの心理が克明に描かれている分、さりげなく悲しみに包まれていくシャルルが恐ろしく哀れに映る。「フローベール論」の著者チボーデは「シャルルの欠点は《そこにいる》ことだ」と指摘している(「解説」より、499ページ)。それって、あんまりじゃないか。
「愛している人を中傷すればいくらかその人との間に溝ができてしまうものだ。偶像に手をふれてはならない。金箔がはげて手に残る」(391ページ)
第三部の後半から、もう完全に抜け出せなくなる。仕事が手につかなくなってしまう。『赤と黒』の時と同じだ。「エマ、お前、えらいことしてくれたな」と言いたくなる。
他の人たちはどういう風に読むのだろう。何でこの本のタイトルは『シャルル・ボヴァリー』じゃないんだろう。小説中の人物にこんなに同情、というか共感したのも久しぶりだ。読み継がれる理由も、よくわかった。
追記(2014年9月27日):山田ジャクの翻訳も今や文庫化されている。
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