Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

グレート・ギャツビー

ああ、やばい。読み始めて五分も経たないうちに思った。ああ、やばい。前にこの本を大っぴらにけなしたことを思い出したのだ。「野崎孝の名訳があるのに、わざわざ訳す必要なんてないじゃないか」と公言していた。僕は高校生の頃に、野崎孝訳のこれを読んだ。はっきり言って、理解できたとは言い難い。それでも野崎孝訳の素晴らしさを吹聴していた。今思えばそれは、理解できないものに対する畏怖のような、またはそれを理解したかのように気取る為の、装置に過ぎなかったのだろう。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

フランシス・スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)『グレート・ギャツビー中央公論新社村上春樹翻訳ライブラリー」、2006年。


初めて理解できた気がする。高校生の頃に苦行のように読んだ野崎孝訳とは、まるで違う印象を受けた。フィッツジェラルドという作家が、身近に思えた。それまで衒学趣味の一部としての虚構の存在だったフィッツジェラルドを、引き摺り下ろしてくれた気がする。村上春樹が。何だか悔しい。

「人は誰しも自分のことを、何かひとつくらいは美徳を備えた存在であると考えるものだ。そして僕の場合はこうだ――世間には正直な人間はほとんど見当たらないが、僕はその数少ないうちの一人だ」(113ページ)

大学生の頃に村上春樹に傾倒し、あらかた読み尽くした後、避けるようになった。翻訳すら避けていた。春樹の語る「僕」の世界が、恐ろしく思えたのだ。何か文章を書こうとする度、春樹の影響を強く感じるようになった。それが嫌で避けていたのだ。

もう大丈夫だろう、と思っていた。駄目かもしれない。春樹の文章のテンポは、あまりにも心地よく響きすぎる。まさかこれほどのスピードで、あの『グレート・ギャツビー』を読み終えてしまうとは思わなかった。

「僕は思うのだが、彼の心を何より強く掴んでいたのはデイジーの声の中にある、ふらふらと揺れる、ほとんど発熱に近い温もりであったに違いない。なぜならその声だけは、どれほどの夢をもってしても凌駕することのできない特別なものであったからだ。その声はまさしく不死の歌だった」(178ページ)

「「過去を再現できないって!」、いったい何を言うんだという風に彼は叫んだ。「できないわけがないじゃないか!」」(202ページ)

高校生の頃、恋の真似事はしていたけれど、焦がれたことはなかった。その後、実際に焦がれている間は、読書が手につかなかった。それすら冷めた今、この小説の素晴らしさを知った。

「不平を言ったところでものごとは余計ひどくなるだけだ」(230ページ)

「友情とは相手が生きているあいだに発揮するものであって、死んでからじゃ遅いんだ」(309ページ)

昔の恋人のことを思い出した。忘れたことなんてない。遥か昔の、今ではあまりにも美化されてしまった恋人、まだ輪郭がぼやけきっていない恋人、瞼の裏に貼り付けられたかのように、鮮やかに描ける恋人。彼女たちの誰もが、自分の中でこんなにも力強く息づいている。『グレート・ギャツビー』はそれを思い出させる。ノスタルジックな気分になり、素晴らしかった過去が目の前に浮かんでくる。

良いものは良い。くそ、悔しいぞ、春樹。野崎孝訳でも、今読めば響く気がする。だが今回の春樹訳ほど、自分を震えさせはしなかったに違いない。無茶苦茶良かった。それが尚のこと、悔しかった。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 


<読みたくなった本>
フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』
フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』
→今更フィッツジェラルドブームを起こす気なのか、俺は。

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 
若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

 

サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ
→やはり高校生の頃に野崎孝訳を読んで、自ら雲の上に掲げ上げてしまった本。春樹の訳文に不満がないことは立証されてしまったが、どうせ既に名声を獲得している作家の本を訳すのなら、代表作以外も訳すべきだと思う。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)