Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

草迷宮

稲垣足穂『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』を読んで以来ずっと読みたかった、泉鏡花の代表作。

草迷宮 (岩波文庫)

草迷宮 (岩波文庫)

 

泉鏡花草迷宮岩波文庫、1985年。


「山ン本五郎左衛門」とは日本の妖怪の名前で、宝暦年間に備後三次の稲生屋敷にて起きた怪事が元になっているそうだ。巌谷小波稲垣足穂、そしてこの泉鏡花によって小説の題材とされ、現在までその名を残している。

足穂と鏡花が同じ怪事を題材にしていると言っても、その語り口は全く違う。五郎左衛門が何やら茶目っ気のある無害な妖怪であることに変わりはないのだが、足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』がこの妖怪の所業に照射を当てたものであるのに対して、鏡花の『草迷宮』における五郎左衛門の登場は、その後に控える物語全体の謎を解く鍵でしかない。

表紙に書かれた解説を引用しよう。
「幼な子の昔、亡き母が唄ってくれた手鞠唄。耳底に残るあの懐かしい唄がもう一度聞きたい。母への憧憬を胸に唄を捜し求めて彷徨する青年がたどりついたのは、妖怪に護られた美女の棲む荒屋敷だった」

つまり、主題が別にあるのである。ラストに描かれる景色は見事としか言いようがない。幻想でしかあり得ないはずの景色が、鮮やかに目の前に迫ってきた。

ところで、鏡花の作品をしっかりと読んだのは始めてのことだった。友人の家で岩波書店版『鏡花全集』の中の、ごく短い短編を勧められて読んだことはあったが、腰を据えて読んだのはこれが初めて。

鏡花の文章を他の言語に訳すことなんて、絶対に出来ないんじゃないか、と思った。日本語の美しさを極限まで追求した結果のような文章だ。登場人物のセリフは生き生きとしていて、間に挟まる目立たないはずの文でさえ、声に出してみると恐ろしくリズムが良い。例えば以下の一文。

「実際魔所でなくとも、大崩壊(おおくずれ)の絶頂は薬研(やげん)を俯向けに伏せたようで、跨ぐと鐙(あぶみ)のないばかり。馬の背に立つ巌(いわお)、狭く鋭く、踵(くびす)から、爪先から、ずかり中窪に削った断崖の、見下ろす麓の白浪に、揺落さるる思がある」(10ページ)

振り仮名を括弧でくくらなきゃならない分、ひどく読み辛いが、本として読めば非常に流麗。たまに美しすぎて、わけが判らなくなるほどだ。鏡花に狂化して全集を買った友人の気持ちも理解できた。

「総て一度唯一人の瞬きする間に、水は流れ、風も吹く、木の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え失するものは無うして、唯その瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我らが世にあることを怪むまい」(167ページ)

文体とは価値である。他の本を読んでも得られない体験というのは、往々にして文体が運んでくる。翻訳された海外文学では中々味わえない恍惚感。日本語が母語で良かったと思えた。

草迷宮 (岩波文庫)

草迷宮 (岩波文庫)

 


<読みたくなった本>
泉鏡花『ちくま日本文学011 泉鏡花
→お気に入りシリーズの泉鏡花。『高野聖』や『歌行燈』が入っている。

泉鏡花 (ちくま日本文学 11)

泉鏡花 (ちくま日本文学 11)

 

巌谷小波『平太郎化物日記』
→山ン本五郎左衛門の話。