カシタンカ・ねむい
2008年に刊行された、神西清訳のチェーホフ短編集。訳者自身による二編のチェーホフ論も併収され、日本におけるチェーホフの紹介に神西清がどれほどの貢献を果たしたか、一望できる一冊となっている。
アントン・チェーホフ(神西清訳)『カシタンカ・ねむい 他七篇』岩波文庫、2008年。
ところで私は、チェーホフの全集を持っている。中央公論社が1960年前後に刊行した、全18巻の全集である。購入したのは一年前の二月頃のことで、所謂四大戯曲(『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』)を読み、その直後に小笠原豊樹訳の『かわいい女・犬を連れた奥さん』を読んだことが直接のきっかけだ。「これほどまでに短編の上手い作家がいるとは」と感動した記憶は、一年経った今もまだ消え去ってはいない。
以下、収録作品。
☆☆☆「嫁入り支度」
★☆☆「かき」
★☆☆「小波瀾」
★★☆「富籤」
☆☆☆「少年たち」
★☆☆「カシタンカ」
★★☆「ねむい」
★☆☆「大ヴォローヂャと小ヴォローヂャ」
★★★「アリアドナ」
★☆☆神西清「チェーホフの短篇に就いて」
★★★神西清「チェーホフ序説」
個人的な意見として、チェーホフの短編の良さは、その気安さにある。複雑なテーマを扱っているものもあれば、ショート・ショートと呼ばれるようなものも大変多い。ちなみに一昔前に話題になっていた松下裕訳の『チェーホフ・ユモレスカ』のシリーズが主に扱っているのは、ごくごく短い後者、チェーホフがまだチェホンテという筆名でユーモア小説を書いていた頃の作品である。チェホンテ時代のものから最晩年の短編に至るまで、作風は確かに変わってはいるのだが、私が言うところの気安さは健在だ。チェーホフの短篇に出てくる人物は、自分の意見を開陳しながらも、それを決して押し付けてこない。というよりも、著者自身がそもそも賛同する気が全く無いような意見さえも、チェーホフは取り上げ、熱を込めて語らせるのだ。聞き手は寝ていたり、別の方向を向いていたり、全く違うことを考えていたりと、やりたい放題である。その構図に笑いがある。よって読みながら、作中の人物にただならぬ共感を覚えたとしても、その短編が終わる頃には見事にクールダウンされているのだ。「アリアドナ」はその好例として挙げられるだろう。
「知合いになったその日に、私はすっかり征服されてしまいました。ほかにどうも仕様がなかったのです。この第一印象は、今日なおありありとその幻像を残しているほど強烈なものでした。私は今になっても、自然があの娘を創造したとき何か宏大な驚嘆すべき目論見を抱いていたのではあるまいかと、よく考えてみるのです」(「アリアドナ」より、163ページ)
「アリアドナ」は『マノン・レスコー』やピエール・ルイスの『女と人形』のような話だ。つまり、途方もない美女がいて、彼女に心酔する男がいて、その女性は悪女としての素質を完璧に身に付けているのだ。
「本当にあなたは、男じゃなくて、まるでお粥みたいだわ。男っていうものは、夢中になったり、気狂いみたいになったり、過ちをしたり、苦しんだりするものだわ。あなたが無作法をしたり図々しい事をしても女は許すけど、小利口なのは許さないものよ」(「アリアドナ」より、172~173ページ)
そして男は自らの恋慕の情を不愉快に思いながら、彼女からは離れられない。
「先ず第一に、私はアリアドナが昔通り、やはり私を愛してはいないことを知りました。が、彼女は本気で恋がしたいのです。孤独がこわいのです。でも大切なことは、私が若くて健康で旺盛なことなのです。一般に冷たい人間がそうであるように、彼女もまた淫蕩な女でした。――私たちはお互いに熱情を籠めて愛し合っているような振りをしていただけです」(「アリアドナ」より、195ページ)
先に挙げた二冊の場合、愛と知恵との不和を徹底的に描くことで、ひたすらに叙情的な作品に仕上がっている。ところが「アリアドナ」では聞き手が興味を持っていない。話の途中で寝ている。激しい愛という感情を一般的なものとして描くのではなく、それをその人物特有の感情として描くことができるのだ。一歩どころか三歩も四歩も引いている。だから、感情移入できなくても面白く読めるのである。
神西清は私の持論を、もっと判りやすく説明してくれた。その時に使われた言葉は「気安さ」ではなく「非情」である。
「手みじかに言えば非情の作用は輻射熱に似ている。草木の繁ろうと枯れようと太陽の知ったことではない。太陽はただその軌道を誤りなく運行するだけのはなしだ」(「チェーホフ序説」より、280ページ)
チェーホフの作品に秘められた、あの客観が見事に説明されている。
「彼は何も人間が可愛かったのではない。真実が可愛かったのである」(「チェーホフの短篇に就いて」より、215ページ)
チェーホフはリアリストであった。自らリアリストを標榜したことなどなく、自然主義作家のような目的すら持たない、実に科学的なリアリストである。
「医学は正妻で文学は情婦だ」(「チェーホフ序説」より、225ページ)
ところがダーウィン的な進化論が、彼に「個人」を見る目を与えた。そして生まれたのが、あの態度、一歩どころか三歩も四歩も引いている、あの「非情」な態度である。
「とにかくわれわれは現にノアの洪水以前の原始人ではないではないか」(277ページ)
チェーホフの作品には「非情」と「ユーモア」の二つの要素がある。だから読みやすく、押し付けがましくない。物を考えずに読むことだってできる。つまり、気安いのだ。何となく自説が立証された気がして、非常に嬉しい。
チェーホフの短編が好きな人なら狂喜するような一冊だ。まだ読んだことのない人には、「中二階のある家」や「イオーヌイチ」が含まれる新潮文庫の『かわいい女・犬を連れた奥さん』を薦めたい。翻訳は神西清ではなく小笠原豊樹だが、彼も絶対にハズレがない、超一流の翻訳者である。チェーホフの短編は素晴らしい。是非とも味わって頂きたい。
<チェーホフセレクション>
チェーホフ『短篇と手紙』
→みすず書房刊「大人の本棚」シリーズ。全集では第16巻にあたる「手紙」に見られるチェーホフの人柄は、非常に面白い。
阿刀田高『チェーホフを楽しむために』
→今年の一月に新潮文庫に入った一冊。こちらは伝記としても四大戯曲の解説としても読める、入門に最適な一冊。
宮沢章夫『チェーホフの戦争』
→滑稽なエッセイを何冊も書いている宮沢章夫だが、本職は劇作家。四大戯曲という「悲しい喜劇」の面白さを描く。