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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

不思議の国のアリス

ルイス・キャロルによるあまりにも有名な作品の、河出文庫版。文庫にも関わらず、他社とは一味違った豪華な製本が魅力的な一冊。

不思議の国のアリス (河出文庫)

不思議の国のアリス (河出文庫)

 

ルイス・キャロル(高橋康也訳)『不思議の国のアリス河出文庫、1988年。


とにかく、作りが豪華な本である。紙の質からして、他社とは明らかに違い、ジョン・テニエルの挿絵や、ややおせっかいに過ぎるほどに付された訳注も魅力的だ。

訳注が本当に多い。普通の小説なら完全に嫌になる量である。だが、新潮文庫版の芥川龍之介『羅生門・鼻』のように、不必要な注で埋め尽くされているわけではない。むしろキャロルに関して、注は必要不可欠ですらある。言葉遊びが凄まじいのだ。新潮文庫の『不思議の国のアリス』は澁澤龍彦の妻、矢川澄子が訳し、ちくま文庫では柳瀬尚紀である。ジョイスの翻訳者だ。ルイス・キャロルとジョイスほど、翻訳者を選ぶ作家もいないだろう。高橋康也訳の本書は、製本も訳も文句なしである。ややこしい箇所に逐一、原文の紹介が付されていて、納得させてくれる。ああ、これじゃ訳しようがないわな、というかたちでの納得なのだが。

不思議の国の中では、意味が意味を為さない。荒唐無稽、ノンセンスである。イギリス育ちでもなければ、英語で読んでもわからないだろう。言葉が意味を為さない不条理の世界を、アリスが遍歴していく。正直、カフカの方がずっと理解し易い。

言葉が本来の意味を失い、勝手に動き出し、それを追いかける者もいない。これがベストセラーになった理由が全くわからない。1862年のイギリスに、一体何が起きていたのか、と頭を捻ってしまう。余程文学に親しんでいないと、読むのも辛い気がする。意味を意味として捉えようとしてしまうからかもしれない。普段小説を読まない人ならば逆に、表面に現れる荒唐無稽を楽しみながら読めるのだろう。というよりも、これはそのように読むべき本である。意味を考えちゃいけない。立ち止まって考えたところで、何かが生まれてくることなんて、ほとんどない。アリスのように、順応しなければならない。不思議さを、受け止めねばならない。

チェシャ猫(本書の訳文では「チェシャー・ネコ」)とアリスの会話がすごいことになっている。長いけれど引用する。

「「ここからどの方角へ行ったらいいか、教えていただけるかしら?」
 「そりゃ、あんたがどこへ行きたいかでかなりちがってくるだろうな」
 「どこでもかまわないんですけど――」とアリスがいいかけると、ネコがいいました。
 「それじゃ、どの方角へ行こうとかまわんだろう」
 「――どこかへ行きつくことさえできればね」アリスはことばのつづきをつけ加えました。
 「そりゃ、どこかへ行きつくにきまってらあね、ずっと歩きつづけさえすればね」
 なるほど、いわれてみればそのとおりなので、アリスは別の質問をしてみました。         
 「このあたりにはどんな人たちが住んでいるの?」
 「こっちの方角には」とネコは右の前足をまわしながらいいました。「帽子屋が住んでいる。あっちの方角には」ともう一方の前足をふりながら「三月ウサギが住んでいる。どっちでも好きなほうを訪ねるがいいさ。どっちも気が狂ってるぜ」
 「でもわたし気が狂ってる人たちのところへなんか行きたくないわ」
 「そんなこといったって、しかたないさ。ここじゃみんな気が狂ってるんだ。わたしも気ちがい、あんたも気ちがい」
 「わたしが気ちがいだってどうしてわかるの?」
 「そうにきまってるさ。でなければ、あんた、ここへきやしなかったさ」」(106~107ページ)

ディズニー映画によって、この作品はあまりにも有名になってしまった。あれはウォルト・ディズニーによる、一つの解釈に過ぎない。書籍の刊行当初にファンだった人たちは、激怒したことだろう。久しぶりに観たくなってしまった。『不思議の国のアリス』はいくらでも解釈が可能な、稀有な、そしてものすごく前衛的な、文学作品である。

「「教訓なんてないんじゃないかしら、きっと」アリスは思いきっていいました。
 「まあまあ、なんてことを、お嬢さん! なにごとにも教訓というのは必ずあるものだよ、もし見つけることができさえすればね」」(156ページ)

いくらでも解釈が可能な作品だからこそ、こんなにも長く人々の心に留まり続けるのだろう。個人的にはラストに衝撃を覚えた。まさしくメタフィクションである。逆にディズニー映画のラストが気になってしまった。未読の方のために、秘密にしておきたい。

大人たちは何を思って、この本を子どもに読ませるのだろうか。恐ろしい奇書である。ディズニー映画しか見たことのない方は是非とも、一度原作に当たってもらいたい。

不思議の国のアリス (河出文庫)

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その他の翻訳。 

不思議の国のアリス (新潮文庫)

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不思議の国のアリス (ちくま文庫)

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<読みたくなった本>
キャロル『鏡の国のアリス』
キャロル『シルヴィーとブルーノ』
キャロル『スナーク狩り』
→本気で取り組んだら発狂してしまうかもしれない。

鏡の国のアリス (ちくま文庫)

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シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)

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スナーク狩り

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シェイクスピア『ハムレット』
ベケット『ゴドーを待ちながら』
→訳者が挙げていた、「いくらでも解釈が可能な作品」二冊。 

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

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