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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

スナーク狩り(エンデ)

ルイス・キャロル『スナーク狩り』を、ドイツ語に翻訳したのはミヒャエル・エンデだった。

エンデ全集〈11〉スナーク狩り―L・キャロルの原詩による変奏

エンデ全集〈11〉スナーク狩り―L・キャロルの原詩による変奏

 

ミヒャエル・エンデ(丘沢静也訳)『エンデ全集第11巻 スナーク狩り』岩波書店、1997年。


非常にユニークな構成をしている本である。短編集の時のように、目次を列挙して見せよう。

「緒言」(チェスタトン)
「<作者まえがき>へのまえがき」(ローゼンドルファー)
「作者まえがき」(キャロル)
「キャロル『スナーク狩り 8章の苦悶』」(エンデ訳)
「翻訳者あとがきにして<作曲者まえがき>へのまえがき」(エンデ)
「作曲者まえがき」(ヒラー)
「エンデ『スナーク狩り クラウンたちのための歌芝居』」(エンデ作、ヒラー曲)
「<翻訳者あとがき>と<作曲者まえがき>へのあとがき」(ローゼンドルファー)
「解説 エンデ/キャロル/ベケット」(高橋康也)

書けば書くほど、わけがわからなくなった。でも、読めば一連の流れになっていて笑えます。

まず、チェスタトンの「緒言」。1ページに収まる短いものだが、ここでチェスタトンに出会えるとは思っていなかったので、大変嬉しかった。

ルイス・キャロルの文章は、けっして子どものために書かれているのではない。子どもたちは、パウンドケーキでも焼いているほうが、ずっとよろしい。むしろキャロルのナンセンスは、髪が白くなった賢明な哲学者たちのためにある」(チェスタトン「緒言」より、3ページ)

その後のローゼンドルファーの「<作者まえがき>へのまえがき」は凄い。キャロルやエンデの話が、全く出てこないのである。

「「だあれも読みそうにないまえがきを書いてさ、ぼくは、言ってよければ本の核心とやらを書く奴に復讐してやるんだ。ぼくが書くべきことに知らんぷりを決めこんでさ」。ありとあらゆることを私は承知している。ただし、いま私がまえがきを書いているこの本に書かれていることだけは、別である。それは知らない。私は自分の健全な偏見に身をまかせ、ひとりで理論をどんどん一般化するのである」(「<作者まえがき>へのまえがき」より、10~11ページ)

つまり、勝手なことを書きまくっているのだ。架空の書物の序文を集めた、スタニスワフ・レムの『虚数』を思い出した。ちなみにこの適当な男、ローゼンドルファー氏は、エンデ版『スナーク狩り』の後で再び現れ(「<翻訳者あとがき>と<作曲者まえがき>へのあとがき」)、自分の大法螺を撤回しようとする。時すでに遅し、である。

「作者まえがき」と「キャロル『スナーク狩り』」は、先日紹介したキャロルの純然たる著作である『スナーク狩り』と、同じものである。ただし、これはエンデによるドイツ語訳からの、言わば重訳であり、微妙に文言が異なる箇所もある。例えば以下の一節。

「私は、ヘブライ語でも、ギリシャ語でも言いました。それどころか
 スワヒリ語でも、サンスクリット語でも、ラテン語でも。
 だが残念ながら、頭が混乱していたので、忘れていた。
 船長がわかるのはドイツ語だけなんですよね」(「キャロル『スナーク狩り』」より、39ページ)

勿論、原文は最終行が「船長がわかるのは英語だけ」となっている。他にもポンドがマルクになっていたり、細かな部分で差異があった。

丘沢静也の翻訳には一切文句はないが、『スナーク狩り』を注釈無しで読むのは至難の技だ。その後のエンデ版を楽しむためにも一度、高橋康也訳の『スナーク狩り』を読んでおいた方が良い。エンデ全集には図版も付いていないので、尚更だ。

その後の「翻訳者あとがきにして<作曲者まえがき>へのまえがき」と、「作曲者まえがき」は、エンデ版『スナーク狩り』を作った二人の、原作の解釈をめぐる喧嘩である。ヒラーが「あわれなエンデは、勝手に議論するがいい」(「作曲者まえがき」より、75ページ)と、一蹴していて笑える。

ただ、この喧嘩の中に、非常に興味深い部分がある。エンデが指摘した、キャロルとサミュエル・ベケットとの関連性である。

「スナークとゴドーは双生児なのである」(「翻訳者あとがきにして<作曲者まえがき>へのまえがき」より、72ページ)

『ゴドーを待ちながら』を読みたくなった。この説に関しては、高橋康也(!)が「解説」で詳しく述べている。

さて、エンデ版『スナーク狩り』である。原作が詩のような体裁なのに対して、こちらは何と戯曲である。しかも、喜劇。さらに言えば、ドタバタ喜劇になっている。登場人物の数も、原作とは異なる。決定的なのは、最初から最後まで登場するルイス・キャロル氏とチャールズ・L・ドジソン氏の二人だろう。

ドジソンとはキャロルの本名である。双生児として登場する二人が、自分たちが作り上げた『スナーク狩り』に巻き込まれるという、劇中劇の構成を採っている。キャロル氏が尊大な人気作家なのに対して、ドジソン氏の人物描写が凄い。以下、冒頭の「人物説明」より。

「ドジソンのほうは、内気で、いじけた、左利きの、不器用な男で、徹底して世間を避け、自由にしゃべれるのは、十二歳以下の女の子がいるときだけで、大人がそばに現われると、たちまちどもりはじめて赤くなる」(「エンデ版『スナーク狩り』」より、84ページ)

そこまで言うか。キャロルが死んでて良かったね。でも、化けて出そうだ。

エンデ版もキャロル版を忠実になぞりながら、ところどころにキャロル氏とドジソン氏との対話が挟まれる形で進む。だが、先述した通りドタバタ喜劇だ。「歌芝居」という副題の通り、全編が歌に乗せて語られ、原作のメランコリックなブラックユーモアは徹底的に明るい哄笑へと変換されている。

実際のところ、エンデ版を先に読んでいたらキャロルには手を伸ばさなかったかもしれない。ここまで変える必要があったのだろうか。特に「作者まえがき」の部分をドジソン氏が語るシーンが、喜劇的に脚色されていて気に入らなかった。この本の構成からも見てとれる通り、あくまでもキャロル版を既に読んでいる人のための変奏なのだろうか。それならば、頷ける。個人的にはもう少し原作の哀愁を大切にして欲しかった。

だが、解釈できない作品の変奏だからこそ、エンデもここまで変えたのかもしれない。雰囲気の全く違う『スナーク狩り』も、原作が好きな人なら読むべきだ。劇中でのドジソン氏の最期は、秘密にしておこう。

エンデ全集〈11〉スナーク狩り―L・キャロルの原詩による変奏

エンデ全集〈11〉スナーク狩り―L・キャロルの原詩による変奏

 

 

<読みたくなった本>
ベケット『ゴドーを待ちながら』
→ここまで言われたら、もう読むしかない。

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

 

レム『虚数
→ローゼンドルファー氏に、何故か敬意を表して。

虚数 (文学の冒険シリーズ)

虚数 (文学の冒険シリーズ)

 

エンデ『エンデのメモ箱』
→エンデ全集第18・19巻。実は先日、岩波書店版の『エンデ全集』を19巻揃いで購入した。今回の『スナーク狩り』も、その一冊。やっぱりエンデは良い。

エンデ全集〈18〉エンデのメモ箱(上)

エンデ全集〈18〉エンデのメモ箱(上)

 
エンデ全集〈19〉エンデのメモ箱(下)

エンデ全集〈19〉エンデのメモ箱(下)

 

キャロル『シルヴィーとブルーノ』
→どんどん後回しになってしまっている。

シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)

シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)