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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

イリアス

先頃紹介した『オデュッセイア』の10年以上も前に起こった、トロイア戦争の物語。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

 

ホメロス(松平千秋訳)『イリアス』上下巻、岩波文庫、1992年。


非常に特殊な構成をした物語だ。トロイア戦争を題材にした叙事詩ではあるのだが、『イリアス』に描かれているのは壮大なトロイア伝説の一側面に過ぎない。話が始まるのはトロイア戦争末期、開戦から10年が経ち、アルゴス勢(ギリシャ連合軍のようなもの)の王たるアガメムノンアキレウスの怒りを買うところである。戦争の発端となった事件、トロイアの王子パリスがアガメムノンの弟であるメネラオスの許から、その妻である絶世の美女ヘレネを奪うことはエピソードの一つとして語られるのみである。それに先立つ「パリスの審判」や様々な英雄たちの所業も挿話として紹介される程度で、現代の読者は注釈に依らざるを得ないだろう。登場人物の多さや挿話の数々を思うと、『イリアス』とはトロイア伝説一般に対する予備知識を持つ読者を想定して伝えられた叙事詩なのだとしか思えない。

トロイアの王子パリスがヘレネを得ることは「パリスの審判」においてアプロディテに約束されたことだった。トロイア戦争の火蓋を切ったのは、神々だったのである。人口を減らそうというゼウスの意図があり、ヘレとアテネがアプロディテに抱く嫉妬があり、そしてアガメムノンプリアモスの政治的な利害関係があった。トロイア戦争は人々の戦争であると同時に、神々の戦争でもある。登場人物が多いのは、当然のことだ。

まずアキレウスがいる。『イリアス』の主人公は誰かと問われたら、このアキレウスである。アキレウスアルゴス勢の英雄であり、他にはアガメムノン、メネラオスオデュッセウス、ネストル、ディオメデス、大アイアス、小アイアス、パトロクロス、アンティロコスなどがいる。

トロイア側の英雄としては、ヘクトルがいる。トロイアプリアモスの息子で、パリスの兄である。他にアイネイアスカッサンドラ、アンドロマケなどがいるが、『イリアス』はトロイア戦争の中でも、アキレウスヘクトルという二人の英雄の戦いに焦点を当てたものと考えて良いだろう。

神々もそれぞれの軍勢に分かれている。ゼウスは中心に立って他の神々を抑える役を買ってでているが、アルゴス勢寄りの神としてはヘレやアテネ、ポセイダオンやヘパイストス、またアキレウスの母である女神テティスなどが挙げられ、反対にトロイア勢を守護するのは軍神アレスにアポロン、アルテミスにアプロディテらである。個人的にはこういった神々のやり取りが非常に面白い。ゼウスの妻である女神ヘレが、夫の監督していない時間にアルゴス勢を助けるために彼を誘惑して臥所に招く箇所なんか最高である。第五歌ではトロイア勢を守ろうと戦場に降りたアプロディテが人間のディオメデスに切りつけられ、泣く泣く天界オリュンポスに帰ったりする。ゼウスは初め神々による戦争への介入を禁じていたのだが、第二十一歌においてとうとう許可を下す。神同士の戦いは凄まじい。トロイア側についた河の神クサントスが河を氾濫させアキレウスを溺れさせようとし、それを防ぐためにヘパイストスが河が残らず蒸発するほどの火を起こすなど。アルテミスが弟であるアポロンを叱りつける箇所も面白い。

トロイア戦争からは様々な文学が派生している。『オデュッセイア』の時に挙げたものと重複するが、アイスキュロスソフォクレスエウリピデスらのギリシャ悲劇から現代の作家たち(例えばクリスタ・ヴォルフの『カッサンドラ』)まで、トロイア戦争に参加した英雄の一人一人が、それぞれ小説の主題となるような人生を送っている。アイスキュロスの『アガメムノン』やウェルギリウスの『アイネイアス』、後にはラシーヌの『アンドロマック』などは戦争終結後に彼らが送った人生を題材にしており、また端役でしかないような人物にも非常に細かなエピソードが用意されていて、まだまだいくらでも文学が生み出せそうだ。例えば二十一歌でアキレウスに討たれるリュカオンは開戦直後、つまり『イリアス』よりも前にアキレウスによって捕まり、アポロニオスの『アルゴナウティカ』で描かれたアルゴ船の英雄イアソンの子孫に、パトロクロスによって売られ、さらに別の人物に買われた後にそこを脱走し、『イリアス』の時代になってようやくトロイアに帰還したのをアキレウスに討たれたのである。悲惨。

以下、それぞれの巻(歌)に付された見出しと共に目次を列挙する。

<上巻>
第一歌:悪疫、アキレウスの怒り
第二歌:夢。アガメムノン、軍の士気を試す。ボイエテイアまたは「軍船の表」
第三歌:休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎討
第四歌:誓約破棄。アガメムノンの閲兵
第五歌:ディオメデス奮戦す
第六歌:ヘクトルとアンドロマケの語らい
第七歌:ヘクトルとアイアスの一騎討。死体収容
第八歌:尻切れ合戦
第九歌:使節行。和解の歎願
第十歌:ドロンの巻
第十一歌:アガメムノン奮戦す
第十二歌:防壁をめぐる戦い

<下巻>
第十三歌:船陣脇の戦い
第十四歌:ゼウス騙し
第十五歌:船陣からの反撃
第十六歌:パトロクロスの巻
第十七歌:メネラオス奮戦す
第十八歌:武具作りの巻
第十九歌:アキレウス、怒りを収める
第二十歌:神々の戦い
第二十一歌:河畔の戦い
第二十二歌:ヘクトルの死
第二十三歌:パトロクロスの葬送競技
第二十四歌:ヘクトルの遺体引き取り

以上、列挙してみて判る通り、ずっと戦っている。戦争の描写が延々と続く箇所も少なくなく、一歩間違えば退屈極まりない描写の連続となってしまうところを、様々な挿話がギリギリのラインで防いでくれる。上下巻合わせて、一体何人の兵を看取ったことか、誰か数えた人はいないのだろうか。戦いは続き、沢山の兵が消えていく。

続くと言えば、『イリアス』が終わってもトロイア戦争は終わらない。有名な「トロイの木馬」の話など、全く出てこない。そのくせ、同じホメロスによる(と言われている)『オデュッセイア』では、オデュッセウスの英雄的な策の一つとして木馬の計はきっちり紹介されている。『イリアス』と『オデュッセイア』の二つを結ぶ、今や失われてしまったホメロスによる作品があったのかもしれない。ちなみにローマ時代にクイントゥスという人物が書いた『トロイア戦記』は、ちょうどこの二つの作品を結ぶ空白を描いたものである。

最後に『イリアス』と『オデュッセイア』の違いについて。『オデュッセイア』が一人の英雄オデュッセウスを主題に置いたものであるのに対し、『イリアス』はアキレウス一人だけに焦点を当てているわけではなく、非常に多くの人と神が関わった壮大な戦争を中心に据えたものである。個人的な感覚としては、小説として読むなら『オデュッセイア』の方が遥かに勢いがある。けれども『イリアス』は『オデュッセイア』からは到底生み出せないほどの拡がりを孕んでおり、あらゆる物語の主人公たちが一堂に会したような赴きがある。つまり、豪華。『オデュッセイア』を読み返すなら、また最初の神々の会議から読むだろうけれど、『イリアス』はパラパラと拾い読みする気がする。例えばオウィディウスブルフィンチを読むと神々のエピソードは断片的に描かれていて、それぞれの神の行なった事柄に詳しくなれても、彼らが集まったところを見ることはできない。『イリアス』には、すぐには価値が伝わってこないほどの、大いなる価値がある気がする。何年も経ったとき「ああ、読んでおいて良かったな」と思える一冊になる。ギリシャ文学に興味のある全ての人へ。この本は、豪華です。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

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イリアス〈下〉 (岩波文庫)

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オデュッセイア』とのミッシングリンクを埋める本。

トロイア戦記 (講談社学術文庫)

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