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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

キャッチャー・イン・ザ・ライ

前に春樹訳の『グレート・ギャツビー』を読んでから、ずっと読み直したいと思っていたサリンジャー『1Q84』が予想以上に良かったので手に取ってみた。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

J・D・サリンジャー(村上春樹訳)『キャッチャー・イン・ザ・ライ白水社、2006年。


グレート・ギャツビー』の時と同様、過去に野崎孝訳で読んでいるものの再読。再読とは言っても最初に読んだのが随分前のことなので、新鮮に読めた。

「スペンサー先生は再びうなずきを開始した。先生はまた、鼻をほじくり始めた。鼻をつまむみたいなふりをしていたんだけど、実は親指をもろに中に突っ込んでいた。部屋には僕しかいないから、そんなことをしてもべつにかまわないだろうと、先生はたぶん考えたんだと思う。いや、僕はべつにかまわないんだよ。でもさ、目の前で鼻をほじくられたりすると、とりあえずはめげちゃうよね」(19ページ)

めげちゃうよね。ホールデンは口が悪く、抜群のユーモアのセンスを持っている。ホールデンが「君」に対して語りかけるこの小説は、ピカレスク(悪漢小説)に入れることもできるし、見方によってはユーモア文学にもなるだろう。

「もし君が作文が得意だったとする。すると誰かが必ずコンマについて何だかんだ言い出すわけだ。そしてストラドレイターというのが実にそういうやつなんだ。こいつは自分の作文が良い点をとれないのは、ただ単にコンマというコンマをでたらめな場所に置くせいだと、君に思わせたいんだよ」(52~53ページ)

アイロニーの塊のような小説である。読んでいる最中は口が悪くなって、人々を頭の中で罵倒するようになってくる。インチキ野郎だの、アホ面だの。

「僕が本気で考えていたのは、このまま自殺しちゃいたいってことだった。窓から飛び降りてしまいたかった。僕が地面に衝突したときに誰かがさっと覆いをかけてくれるとか、そういうことをしてくれるとはっきりわかっていたら、実際に飛び降りていたはずだ。でも僕としては、自分が血まみれになっているところを、アホ面さげた野次馬連中にじろじろ見物されたくはなかった」(178ページ)

サリンジャーの世界と、セリーヌの世界には通ずるものがある。ホールデンとバルダミュ。二人の厭世のかたちを比べると面白いかもしれない。どちらも希望を持たず、未来を信じていない。それでもバルダミュの方がまだ素直だ。

「僕はいつかその戯曲を読まなくちゃいけないね。僕の問題は、いちいち自分で本を読まなくちゃならないってことなんだ。俳優が目の前でそれを演じたりしたら、台詞なんてほとんど耳に入らないんだ。こいつ、今になんかインチキなことをやりだすんじゃないだろうかって、そういうことばかり気になっちまうからさ」(199ページ)

言動だけでなく、描写でも笑わせてくれる。春樹訳は勢いがあって読みやすいから、この描写の面白さがふんだんに発揮される。

「ずいぶん早く着いてしまったので、僕はロビーの時計近くの革のソファに座って、女の子たちを眺めていた。多くの学校はもう休みに入っていたから、おおよそ百万人くらいの女の子たちがそのへんに座ったり立ったりして、デートの相手が現れるのを待っていた。脚を組んでいる女の子たち、脚を組んでいない女の子たち、素敵な脚をした女の子たち、ぱっとしない脚の女の子たち、感じのよさそうな女の子たち、つきあってみたら性格の悪さがずるずる出てきそうな女の子たち」(207ページ)

語りかける文体と、本筋の外へといくらでも脱線する構成の秘密は、ホールデンが「口述表現」という授業をこの上なく嫌っていた箇所から見え隠れする。

「「このコースのクラスでは、生徒が教室で一人ひとり立って、スピーチをしなくちゃならないんです。なんていうか、即興みたいな感じで。それで話がちょっとでもわき道にそれちゃうと、みんな先を争うように『わき道!』って怒鳴らなくちゃならないわけ。そういうのって僕には我慢できなかったんです。で、僕はそいつでFをもらっちまったわけです」
 「なんで?」
 「なんていうのかな。そのわき道騒ぎみたいなのが、神経にぴりぴりこたえたんです。なんて言えばいいのかな。問題はですね、僕はなにしろ誰かの話がわき道にそれるのが好きだってことにあるんです。だってその方が話がずっと面白いんだから」」(310ページ)

ホールデンの叫びは、今でもかなりの人々の意見を代表しているのだ。原書の発売から村上春樹の新訳まで、長い間愛され続けているのも頷ける。

「こういうのがさ、すべてにおける問題なんだよ。君にはひっそりとした平和な場所をみつけることができない。だってそんなものはどこにもありゃしないんだからさ。きっとどこかにあるはずだと君は考えているかもしれない。でもそこに着いてみると、君がちょっと目を離したすきに誰かがこっそりとやってきて、君のすぐ鼻先に「ファック・ユー」なんて落書きしちゃうわけだよ。いちど試してみるといいよ。僕が死んじゃって、墓場なんかに詰め込まれちまったとするね。墓石に「ホールデン・コールフィールド。何年に生まれて、何年に死にました」なんて刻まれてさ。でもそうなっても、そのすぐ下にはきっと「ファック・ユー」って書いてあるはずだ。賭けてもいいね」(345~346ページ)

「やれやれ」、「まじめな話」、「めげちゃう」など、ホールデンの口癖の数々を気づけばそのまま使っている。その影響を最も敏感に受けた一人が、村上春樹だったのだろう。読みにくいわけがない。

村上春樹の翻訳は、どれもこれもすごく良い。全部訳せばいいのに。そうすれば批判も減るし、こちらも大喜びだ。『フラニーとゾーイー』あたりを期待したい。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 


<読みたくなった本>
イサク・ディーネセン『アフリカの日々』
→ホールデンが読んでる本。

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)

 

サリンジャーナイン・ストーリーズ
サリンジャーフラニーとゾーイー
→再読したくなった。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 
フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

 

追記(2014年10月5日):『フラニーとゾーイー』は今年の2月に村上春樹訳が刊行された。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)