Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ドラゴンは踊れない

友人の強い薦めで手に取ったカリブ海文学、現代トリニダード・トバゴを代表する作家、ラヴレイス。

ドラゴンは踊れない

ドラゴンは踊れない

 

アール・ラヴレイス(中村和恵訳)『ドラゴンは踊れない』みすず書房、2009年。


普通、トリニダード・トバゴの作家といえばV・S・ナイポールだ。僕もこんな本が出版されていることには、全く気が付かないでいた。人の薦めがなければ中々手に取らない類いの本である。

読み始めてすぐに色々と驚かされた。まず、大変読みやすくてスピード感がある。元々読みやすい文章を書く作家なのだろうが、翻訳も入念に読みやすく工夫した感じがある。力業の原文を丹念に紡いだようで、わくわくする。中身には更に驚かされる。恐ろしいほどの反骨精神である。セリーヌブコウスキーのような闘う姿勢を感じる。この二人の作風は全く違うが、通ずるものはあるはずだ。その関係の中にラヴレイスも並べたい。

「丘の上にカーニヴァルがやってくる、ラジオが大音量で鳴り響きつづける、掘っ建て小屋を震わせて、カリプソが通りにあふれ出す。この季節、新しい歌が発表され、人々の足どりまでみんな、新しいリズムに揺れている。そのリズムは赤泥と石ころだらけの道を越えて上ってくる、この町の光景、この丘の臭気から立ちのぼるうめき声の中をリズムは笑って駆け抜ける、耐えつづける人々の骨の中をリズムは泳ぎ抜け、解き放つ。だから彼らは叫ぶのだ。生よ! 彼らは歓喜する、フラー! ラムを飲み、言い放つ、くそくらえ! 彼らは歩く、たけ高く熱く美しく、ゴミと犬の糞の間を、生を称賛し、飾りひとつない自分自身、剥き出しの骨格と肌を誇らしげに見せつけて」(6~7ページ)

この本を読むことでトリニダードの歴史がある程度概観できるのも面白い。スティールバンド、カリプソ、そしてカーニヴァルの熱狂。知らないことばかりだった。

「彼はフレディのバーでそこに座りラムを飲みつづけた、ジュークボックスが次々にがなりたてるカリプソを聴きながら、男や女が踊っているのを眺めながら。踊っている男女はしっかりと互いをつないでおこうとはしていなかった、一緒にいながらもうすでにお互いを捨て始めていた、この投げやりな気配こそカーニヴァルだった」(140~141ページ)

一年に一度のカーニヴァルで、人々は仮装をする。そしてスティールバンドの奏でるリズムに合わせて踊るのだ。主人公の一人であるオルドリックは毎年ドラゴンの衣装をまとう。マスカレードの王である彼は、一年かけてカーニヴァルの準備をするのだ。

カーニヴァルはたった二日間だ。一年の残りの日々、彼女は仮装行列者でも見物人でもなく、ただこうして生きている。彼女の人生はこうしてつづいていく、彼の人生もそうだ。だけどその人生にはなんらかの意味があるのだ、彼女の人生には、彼の人生には――カーニヴァルの終わった翌日の灰の水曜日から、次のカーニヴァルの月曜の朝まで、この間の人生にだって意味はあるんだ。いま彼は彼女を一種の同志のように感じていた、彼女に呼びかけて、この連帯をつよめることばをいいたかった、でもそんなことばは使ったことがなかった。彼はそのことを考えてみた、そこに立って、手を扉の留め木にかけたまま、灰の水曜日の朝の沈黙と沈滞の空気のなかで」(164ページ)

ラヴレイスの人の描き方は素晴らしい。彼は登場するどんな人物に対しても、彼らにも小説中の役割以外の生活があること感じさせるのだ。どんな脇役も捨て置かないディケンズや、際立った個性を描くオースティンを思い出させる。みんな人々の前に出しているのは自分の一部分だけで、隠されている部分にこそ、その人の本質があるのだ。ラヴレイスは決してそのことを忘れない。

「なんのための人生だ、マン、なんのためにがんばる? 友達が去ってしまってひとりぼっちになっちまうんなら、友達がわかってくれないんなら、意味ないよ」(198ページ)

「みんな人に見せてるよりもっといろいろなんだ。だからおれたちは生きなきゃならねえんだ」(273ページ)

オルドリック、フィッシュアイ、フィロ、パリアグ、ミス・クレオチルダ、シルヴィアと、実に沢山の人々が登場する。それなのに誰かと誰かを混同するようなことが起こらないのは、ラヴレイスが人を大切に描くからだろう。

カリプソ歌手であるフィロはこんな歌を歌う。

「新しい連中ばかりだぜここじゃ、だれひとり
 だれがだれだか わかっちゃいねえ
 やつらはほんとにそっくりだぜ、みんな
 名前まで 似たりよったり
 同じような犬、同じような奥さん、同じような暮らし
 どいつもこいつも 似たりよったり

 ジョンさんとハリーさんが 酔っぱらって帰った
 それぞれ自分のじゃねえほうの 家に入って寝た
 そのままそこで暮らした 何年もだれも 文句ひとついわねえ
 ある夜二人はまた 酔っぱらって帰った
 そしてまた入れ替わって もとの家に収まる」(276ページ)

ラヴレイスはディケンズのように、全体を描く作家だ。そしてその手法はまさにディケンズのように、細部を描くことで成り立っていると思える。フィロのメッセージは象徴的で、植民地時代からこの国に残る人種差別的な風潮を想起させても、その重さは感じさせない。

「フィロ自身があのターザンのカリプソでいいたかったこと、それはもしターザンが本当にいたならアフリカ人は彼を食っていただろうということだった。アフリカ人が人食い人種であるという考えは気にいった。そりゃもうわくわくするような、とんでもなくいけない光景だっただろうな! ターザンがでっかい湯気の立った鉄鍋に入れられて、周りをアフリカ人が飛び跳ねてやつが煮えるのを待ってるんだ。あの歌を聴くたび、彼は笑った」(302ページ)

結局、ラヴレイスは素晴らしい作家だ。他に邦訳が無いことが残念でならない。今後増えていくことを期待する。

「恐れが彼をとらえた、そしてそれをかなぐり捨てるように、彼は振り向くとまた手を振った、今度は両手を上げて、彼女を信じていると、この瞬間に歓喜していると信号を送った、大事な友達として、恋人として、いまは行くけれどあとでかならず彼女がやってきて一緒になれると信じていると」(262ページ)

素晴らしかった。友人に感謝。

ドラゴンは踊れない

ドラゴンは踊れない