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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

モレルの発明

ボルヘスの盟友ビオイ=カサーレスが1940年に発表した、伝説の奇書。ボルヘスによって「完璧な小説」と激賞されたSF風小説。

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)

 

アドルフォ・ビオイ=カサーレス清水徹牛島信明訳)『モレルの発明』水声社、1990年。


最近ブラザーズ・クエイ監督作品の『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』を観て、読みたくなった一冊。ボルヘスに狂った周囲の友人たちが前々から薦めてくれていたのだが、天の邪鬼精神から読んでいなかった。読まずにいたことを今、大いに後悔している。

そもそもボルヘスによる序文を読んだ時点で、この本への熱狂は約束されてしまったようなものだ。「これは完璧な小説である」という一節(14ページ)ばかりが有名だが、この序文の素晴らしさは到底それのみに集約できるものではない。

「誰もが異口同音に、二十世紀は面白い話の筋など仕組むことのできない時代だ、と悲しげに呟く。そして、もしこの世紀にそれ以前の世紀よりも優れている点があるとすれば、それはほかでもない、面白い話を仕組む技巧である、ということを誰も思い切って証明してみようとはしない。なるほどスティーヴンソンはチェスタートンと較べてより情熱的で、より視野が広く、より聡明で、おそらくは、われわれが絶対的な愛情を寄せるのによりふさわしい作家であるが、創り出す話の筋という点では劣っている」(11ページ)

国書刊行会が刊行しているボルヘス編纂の文学全集『バベルの図書館』の構成が証明しているように、彼はスティーヴンソンとチェスタトンの二人の作家を偏愛している。前者はエンターテイメントあるいは児童文学、後者はミステリー作家に分類されることがほとんどであるが、彼ら二人の小説を実際に読んでみると、互いに異なる側面を持ちながらも同じような奇妙な発想力があることに驚かされるのだ。現在光文社古典新訳文庫から刊行されている南條竹則訳の『新アラビア夜話』『木曜日だった男』を読んでしまった私にとっては尚更である。そしてビオイ=カサーレスはここに並ぶというのだ。テンションが上がらないわけがない。

読み終えた今になって気が付いたことだが、本書は「SF的冒険推理小説的小説」と謳われている。安易な分類を許さないのもスティーヴンソンやチェスタトンと同様である。実際、SFとも言えるし冒険小説とも言えるし、もちろん推理小説とも呼べるのだ。この最後の条件のために、内容を伝えるようなことがまるで書けなくなってしまった。少なくとも『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』を観た後に読むべきではなかった、と残念に思う。この映画はルーセル『ロクス・ソルス』とこの『モレルの発明』の二作を脚本としたものであるから、内容を包み隠さず語ってしまった、というわけではないのだが、想像の飛翔に任せるべき情景をあらかじめスクリーンで観てしまっていたのが残念でならないのだ。

「私は、私自身にとっては不利なものである信じ難い出来事の証言を残すために、これを書く。ここ当分のあいだに私が溺れて死んだり、自由の身になろうとして死んだりすることがなければ、『生存者弁護』とか『マルサス頌』とでも言った本を書きたいものだ。そして、警察組織、警察の調書、ジャーナリズム、無線連絡、税関といったものがますます完全なものとなってゆくこの世界では、かりに司直が誤ちを犯しても、それをつぐなうすべはない。この世は迫害される者にとっては逃げ場のない地獄になるということを、その本のなかで説明してみたい」(18ページ)

二重の語りによって構成される小説であることは伝えても問題ないだろう。名前を持たない「私」によって語られる記録を、ビオイ=カサーレスは一歩下がったところから説明していく。こんな風に書くと大変前衛的な作品のように聞こえてしまうが、読んでいる最中にはそれはまるで感じられない。まさに冒険小説や推理小説のように読めてしまうのだ。SFという分類が介在している理由はタイトルから想起してもらいたい。

「フォスティーヌはわざとらしくゆっくりと歩いていた。彼女の大柄な肢体、長すぎる脚、白痴的な肉感性に、私はあやうく心の平静を失うところだった」(80ページ)

スイスイ読めてしまう中に疑念が湧き起こる。疑い始める頃にはもう取り返しの付かないところまで行ってしまっていて、二重三重に仕掛けられた罠の中で身動きがとれなくなってしまうのだ。まるで完全犯罪だ。

「不在を阻むための機械とは、例外なく現出の手段なのである」(131ページ)

内容を包み隠さず語ってしまいたい。これが初めて読んだ作品ではあるが、ボルヘスの友人という形容詞から手が伸びずにいる人はすぐにでも読むべきだ。ビオイ=カサーレスという作家がボルヘスの存在抜きには語れない人物であっても、少なくとも『モレルの発明』は『伝奇集』よりもずっと読みやすい。

「いまや私の未来にあるのは、涙と自殺のみだ」(164ページ)

アルゼンチンにこんな作家がいるとは思わなかった。いわゆるマジックリアリズムの流れは私の場合はほとんど意識しなかった。むしろこれは、先にも述べた通り、スティーヴンソンやチェスタトン系譜に繋がっているように思える。これは完璧な小説である。ボルヘスのその言葉には、一片の曇りもない。

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)

 

追記(2014年10月17日):現在買うのならこちらの版。ちょっと表紙がださい。

モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

 


<読みたくなった本>
ウェルズ『モロー博士の島』
→モレルとモローという名称について、ボルヘスがほのめかしている。

モロー博士の島 他九篇 (岩波文庫)

モロー博士の島 他九篇 (岩波文庫)

 

ロブ=グリエ『去年マリエンバードで』
→解説によると『モレルの発明』を霊感源として書かれた小説だそうだ。入手困難。

去年マリエンバートで・不滅の女 (1969年)

去年マリエンバートで・不滅の女 (1969年)

 

オットー・ランク『分身』
→解説にあった、鏡像に関する民間伝承が色々と書かれている一冊。心理学書。

分身 ドッペルゲンガー

分身 ドッペルゲンガー