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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

長靴をはいた猫

巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』を読んでからずっと、「おとぎばなし」を読みたいと思っていた。ルーセル『ロクス・ソルス』を読んだことでその想いが一層強まり、手に取った一冊。

長靴をはいた猫 (河出文庫)

長靴をはいた猫 (河出文庫)

 

シャルル・ペロー(澁澤龍彦訳)『長靴をはいた猫』河出文庫、1988年。


1697年に『昔話』として発表された「おとぎばなし」を集めたものである。巖谷國士が訳した版もあるのだが、澁澤訳に浮気してしまった。巖谷訳の方はもっと網羅的なので、また読みたくなった時にはそちらを手に取ろうと思う。

ペローの編纂した数々のおとぎばなしは、日本ではほとんどグリムの紹介によって知られている。しかし同じ題材を採っていても、グリムに比してペローの方は遥かに大人向けである。残忍ともとれるような悪人たちへの対処や、救いのないラストなどが子供に読み聞かせるのに向かないのだ。グリムの方が人気を博してしまうのも無理はない。その方が遥かに健全である。

だがグリムによって脚色された作品の数々を知った上で、グリムよりも前に書かれたペローを読むと大変面白い。そんな話だったか、と首を傾げることが多々あるのだ。有名な作品が多い分、それだけ驚きも大きい。

以下目次。
「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」
「赤頭巾ちゃん」
「仙女たち」
「サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴」
「捲き毛のリケ」
眠れる森の美女
「青髯」
「親指太郎」
「驢馬の皮」

この中でも特に有名なのは「赤頭巾ちゃん」やディズニー映画のイメージの強い「サンドリヨン(シンデレラ)」と「眠れる森の美女」だろう。しかし「赤頭巾ちゃん」はその悲惨なラストで、「眠れる森の美女」は美女が目覚めてからの物語の広がりでもって我々を大いに驚かせてくれる。他の作品についても、聞いたことはなくても読んでみると知っているような気がしてきて、最後には驚かされる。「驢馬の皮」なんて「サンドリヨン」にそっくりだ。個人的には「捲き毛のリケ」の不完全さが気になって仕方ない。未解決の問題を多く残したまま、大団円を迎えてしまう作品である。

「自分で利口でないと思っているのは、お姫さま、利口であることの何よりの証拠ですよ。そもそも知恵というものは、それをもっていればもっているほど、自分では、それだけ足りないと思うものなんです」(「捲き毛のリケ」より、90ページ)

「青髯」でも「親指太郎」でも「長靴をはいた猫」でも、色々な箇所で唐突に死が現れる。殺されそうになったら逃げ出すのではなく、相手を返り討ちにするのだ。こういった残忍な側面がペローの面白いところであって、子供たちに読み聞かせられない理由なのである。

「死ななきゃならんよ、奥さん、今すぐにね」(「青髯」より、145ページ)

読んでいる最中にはこの上なく熱中してしまうのに、読み終えた端から忘れていってしまうテンポの軽さがまた素晴らしい。おとぎばなしの良さはこういう取っつきやすさにあるだろう。

場所や時代が限定されず、近代的な自我が投影されていないということが、巖谷國士の言うところの「おとぎばなし」の条件であった。ルーセルの『ロクス・ソルス』があれだけ面白かった理由は、この「おとぎばなし」のような立脚点に基づく巧みなストーリーテリングにあるに違いない。巖谷國士が厳密に規定した「おとぎばなし」に限らず、誤謬を含んだ言葉としての「メルヘン」、つまり童話・民話・神話などを雑多に含んだそれを、もっともっと味わいたいと思った。

長靴をはいた猫 (河出文庫)

長靴をはいた猫 (河出文庫)