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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

昼が夜に負うもの

今年の10月に刊行されたばかりの、ヤスミナ・カドラの翻訳三冊目。『カブールの燕たち』アフガニスタン『テロル』ではパレスチナを描いたアルジェリア出身作家が、とうとう描いたアルジェリアの世界。

昼が夜に負うもの (ハヤカワepiブック・プラネット)

昼が夜に負うもの (ハヤカワepiブック・プラネット)

 

ヤスミナ・カドラ(藤本優子訳)『昼が夜に負うもの』ハヤカワepiブックプラネット、2009年。


見た目からして今までの翻訳の倍の厚さはある、長篇小説である。これほど長篇小説特有の読後感に浸れる作品も珍しいほど、長さ、ストーリー、そしてその結末の全てが、読者と作家による感覚の共有を積み重ねることによって支えられる感動を下地にしている作品だった。

「人間は自分たちのなかの悪魔の気晴らしのために神を発明したのさ」(17ページ)

ちょうどディケンズの代表的著作の数々のように、幼年期から晩年までの一人の男の生涯を追った作品で、四部構成となっている。幼年期にあたる第一部の舞台は、カミュの『ペスト』の舞台にもなったアルジェリア第二の都市オラン。この作品では至るところにカミュが溢れていて、解説によると日本語で読んでいては気がつかないようなオマージュも沢山隠されているようだ。

物語の冒頭は1930年代で、主人公のユネスは没落した地主の家系に生まれた。父の耕す小さな畑が唯一の収入源である貧しい暮らしをしながら日々を過ごしていると、豊作が見込まれていた年にその畑が何者かによって焼かれてしまう。一家は大都市オランへ逃れ、ジェナヌ・ジャトと呼ばれる貧民窟での生活を余儀なくされる。

「このあいだ、私はおまえに言ったはずだ。私は生計を立てることに失敗したかもしれないが、人生そのものをしくじったわけじゃない、と。先祖伝来の土地をおまえに残してやることはできなかった。そのことは悔やまれる。どれほど悔やんでいるか、おまえには想像もつかないだろう。そのことで、自分を絶えず責めつづけている。だが、敗北を認めたわけじゃない。失敗を取りかえそうと必死に努力している。なんとしても、私は自分一人の力でここから這い上がらないといけない。言っていることがわかるか、ぼうず。我々の身に降りかかることで、おまえに罪の意識を持ってもらいたくない。何があろうと、いっさいおまえのせいではない。帳尻を合わせるためにおまえを働かせる気はない。そうして買ったパンなど食うものか。倒れたら起きあがる、それが支払うべき代償であって、だからといって誰も恨んではいない。なぜなら、私は必ずやりとげる。ああ、約束しよう。この腕一本で山さえ動かしてみせる」(57ページ)

やがて家族の窮乏が深刻化すると、ユネスはヨーロッパ人たちの中で薬局を営んでいる伯父の元へ里子に出される。ユネスは一人ジェナヌ・ジャトを出て、裕福な子どもたちと付き合うようになるのである。

「「いいでしょう」ジェルメーヌは譲歩した。「ジョナスと私はお風呂に入ってくるわ」
 「ぼくの名前はユネスだよ」と、私は思い出させようとした。
 彼女は優しく微笑み、手のひらを私の頬にすべらせ、耳元にささやきかけた。
 「これからは違うのよ、坊や……」」(76ページ)

イスラムの名であるユネスをフランス風のジョナスに変えられ、彼は新たな家族と生活を共にするようになる。そして伯父がイスラムの指導者たちの革命運動を支援したという嫌疑がかけられると、一家はオランを発ちリオ・サラドへと向かう。

「今でもまだ私は自問している。結局のところ、世のなかは見かけ次第なのではないか、と。青白い顔をして、空腹に麻の袋を抱えていれば、貧乏人ということになる。顔を洗って、櫛で髪を撫でつけ、清潔なパンツを穿けば、それで別人となる。わずかなことですべてが変わってしまう」(96ページ)

ここまで書いてもまだ第一部を出ていない。物語の主題のほとんどが新地であるリオ・サラドで展開されるのだが、第二次世界大戦、そして何よりアルジェリア独立戦争が始まる前の彼の地の風景が克明に描かれていて興味深い。そしてこの前提があればこそ、第二部以降に繰り広げられる闘いが一層悲劇的なものに映るのだ。

「一度きりの風が人生の流れを大きく変えてしまうことがあると知っていたら、私は自分からさきに行動を起こしていたかもしれない。だが、十七歳の頃には、何が起ころうと自力で切り抜けられると自負しているものだ……」(181ページ)

第二部、そしてとりわけ第三部で、物語はラブストーリーへと転換される。リオ・サラドで出会う友人たち、シモン、ファブリス、ジャン=クリストフという三人の親友たちとの関係が、その後のユネスの立ち位置に莫大な影響を与えることになるのだ。そして何より、第三部の表題にもなっているエミリーという女性の存在が、彼ら四人の運命を決定的に左右する。

「まばたき一つで、私は彼女を地獄へ送ることができただろう。誰かに対して、地獄へ堕とせるほどの威力を発揮できるということと、その相手というのがかつて自分が愛した女であり、いかなるときもその寛容な気品を唾棄すべき肉欲の罪と結びつけて考えなかったことを、私は恥じた」(261ページ)

「愛には恥も罪もないの。例外は、それがたとえ正しい理由のためであっても、愛を犠牲にしてしまうときだけ」(290ページ)

1954年にアルジェリア独立戦争が勃発すると、リオ・サラドの街は大きな変革を迫られる。アルジェリア独立戦争は教科書に描かれるような判りやすい戦争ではない。潜在的な不満が至るところで爆発したことによって始まり、1999年になるまでフランスはこれが戦争であったことを認めなかった。簡単に図式化すればイスラム系の人々を含む先住民たちがヨーロッパ系の入植者を追放した戦争である。幼年期にジェナヌ・ジャトに追いやられ、その後伯父の元でヨーロッパ系の友人たちと生涯の友情を結んだユネスが、一体どちらの勢力に与することができるというのか。物語は一気に加速する。

「この悲惨な情況をよく見てください。これが我々のこの国での、我々の祖先の国での居場所なんです。よく見てください、ジョナスさん。神ですらこの地に近づくことはないんですよ」(208ページ)

「どうして、私たち全員が一緒くたにされなくてはならなかったんだ。どうして、ほんの一握りの連中がしたことの責任を私たちが負わされたんだ。私たちは父が、祖父が曾々祖父が生まれた土地で異邦人と見なされ、この手でつくりあげ、心血を注いできたはずの国から簒奪者と呼ばれたんだ」(452~453ページ)

亡命と移民が現代世界文学の一つのキーワードとなっていることを考えると、まだ古くなってはいないこのアルジェリアの悲劇を考えずにはいられないだろう。

アルジェリア人のアルジェリアは、涙と血の増水のなかで鉗子分娩によって生まれようとしていた。フランス人のアルジェリアは、滝のような瀉血のなかで命を終えようとしていた」(405ページ)

物語の終末に現れる年号は2008年。1930年代から80年近くに渡って描かれたアルジェリアの物語である。現代だからこそ書けるものがある。今だからこそ書かなければならないことがある。そう思わずにはいられないほど、第四部の一行一行がフィナーレとして重く響き渡る。

「どれほど醜いものでも、ひとたび愛と出会えば、美をさらけださずにはいられない」(423ページ)

何度も繰り返すようだが、長篇小説に必要な様々な条件を見事なまでに満たした作品だった。アルジェリアに興味のある人には新しい必読書として今後百年は提示されることとなるに違いない。とうとう書かれた新しい古典。厚さにビビらずに読んで良かった。

昼が夜に負うもの (ハヤカワepiブック・プラネット)

昼が夜に負うもの (ハヤカワepiブック・プラネット)

 


<読みたくなった本>
カミュ『ペスト』
→至るところにカミュがいる。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 

スタインベックの作品
→「「あいつが誰だか知っているか」ジョーが親指を背中に向けながら、我々に聞いた。「小説家のジョン・スタインベックさ。従軍記事をヘラルド・トリビューンに書いているんだ。おれの連隊のことを記事にしたことがあるんだ」」(175ページ)