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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

煙滅

翻訳不可能と喧伝されたペレックの傑作、"La Disparition"の邦訳がとうとう刊行。その名も『煙滅』。

煙滅 (フィクションの楽しみ)

煙滅 (フィクションの楽しみ)

 

ジョルジュ・ペレック(塩塚秀一郎訳)『煙滅』水声社、2010年。


原書はフランス語で最も使用頻度の高い文字「e」を一文字も使わずに書かれたもので、「リポグラム(文字落とし)」について語る際には必ずと言っていいほど言及される伝説的作品である。「翻訳不可能」というよりも、どのように翻訳すれば原書が持つ味わいを損なうことなく多言語に移し替えることができるか、ということが大問題となる小説だ。

日本語において最も使用頻度の高い文字とは「い」である。このことから翻訳者である塩塚秀一郎は「い段(いきしちに…)」を一文字も使わずにこの本を訳した。これがどれほど常軌を逸した離れ業であるかは、試してみるとすぐ判るだろう。ちなみに私も今回の文章は全て「い段」抜きで書いてみよう、と思っていたのだが、二行で諦めた。いつも通りに書かないと、書きたいと思うことも書けやしないのだ。

さて『煙滅』である。この本は考えてみれば可哀想な本で、執筆にまつわる条件ばかりが先行してしまって肝心の内容がほとんど忘れ去られている。ちょうどジョージ・オーウェル『一九八四年』が、あらすじが知れ渡っているが故に実際に読まれることが少ないのと同じようなもので、『煙滅』の場合はあらすじどころか執筆条件だけで止まっているのだから尚更ひどい。新聞などの採り上げ方も一様で、やはり物語を度外視した感がある。でも、一旦ページを開いてみれば、そこにあるのはあくまでも物語なのだ。

と言いつつも、やはり件の執筆条件が気になって、最初の内はあら探しめいた読み方をしてしまう。本当に「い段」が登場しないのか、検証せずにはいられなくなってしまうのだ。だが、じきにその読み方だといつまで経っても物語に入り込めないことに気が付いて、最初から読み直すことになる。ここまできてようやく『煙滅』の本当のスタート地点に立てるのだ。

「カーペットの底では毛が絡まって、ボルヘスの「エル・アレフ」のごとく、この世の万物を写す点となって、無限のコスモスへと姿を変えるのだった」(19~20ページ)

最初に現れるのはジャック・ルーボーからの意味不明な詩、そしてペレック自身の著作『眠る男』を下敷きにした冒頭と、上述のボルヘスである。ペレックはウリポのメンバーなのだ。気の利いた表現や文芸評論めいた記述には事欠かず、愛書家のテンションを徹底的に上げてくれる。

「その後、バオバブが枯れ、プールが苔で覆われ、捨て去られた家屋が崩れても、モンスーンが吹けば、荒立つ波浪が沿岸の道具を作動させ、あの謎の電路が発動するのである。すると、すぐさま、忘れられた場面が寸分たがわず復活するのだった。それはまるで『ロクス・ソルス』のある場面のようだった。カントレル博士が作った大型クーラーボックスの中で、亡くなった者が没前の山場を何度も熱演する場面である」(38~39ページ)

『ロクス・ソルス』『モレルの発明』まで現れるのである。この二作品の関連性を描いたミッシェル・カルージュの文芸評論『独身者の機械』が最初に書かれたのは1954年(初版)で、『煙滅』は1969年の作品だから、ペレックがこの本を読んでいた可能性は高い。モレルやカントレルの名前が出てくると妙にテンションが上がってしまうのは、病気だろうか。

「「ポーっと浮かんだ考えではだめか」デュパンは不満げな声をあげた。
 そこで、憂さを晴らすため、この件は忘れて、三件の惨殺犯とされるオランウータンを捜査することとなった」(52ページ)

「「あんた、カラマーゾフって男と会ったことは?」
 「あっぱれな弟をもつ奴か?」」(77ページ)

「ポーっと」という訳者の気の利いた言い回しに過敏に反応してしまうところ。カラマーゾフの弟はイワンであれアレクセイであれ、確かに「あっぱれ」だ。こういった他の作家の作品を意識させる記述は枚挙に暇がない。『白鯨』ならぬ『モビー・デック』などはその代表格だ。個人的に大爆笑したのは、以下の一節。

「「なあ、スファンクスよ」アウエはラカンを読んだことがあったので、こう声をかけた。「そう焦らず、まずはお務めを果たせよ。謎をかけるんだろ」」(43ページ)

このアウエ君は六歳児である。ラカンを読んでる六歳児なんているかよ! 「スファンクス」という言葉も苦しくて良い。でもフランス語で発音したら確かに「スファンクス」だ。苦しいものは他にもいくらでもあって「わん公も歩けば棒に当たる」などが楽しい。

物語自体は「失われた何か」を求めて登場人物たちがそれを追究していく、というものだ。何せその「何か」をぴたりと言い当てることは執筆条件が禁じているのだから、彼らは外堀から埋めていかざるをえない。ここで面白いのが、原作と翻訳の言語が違うこと。当たり前のことを書いているようだが、「e」ではなく「い段」を禁止するということは、小説中に現れる「e」を彷彿させる描写を全て「い段」のそれに置き換えなければならないことを意味する。つまり、翻訳者はストーリーも変えなければならないのだ。通常の翻訳にあっては最も忌避しなければならないことが、この作品においては奨励されているのだ。さすがウリポである。秘められた文学の力が翻訳を介して無限に広がっていく。

「「先刻、ロゼッタ・ストーンを読むようだ、と述べたけど、この喩えは不完全だな」呆然たる顔でロバートが洩らす。「ロラン・バルトの論文を読むようなところもある」
 「ロマン・ヤコブソンの論文だろう。『猫』の構造をめぐる論文があったはずだ!」
 「『数学原論』を読むようだ!」
 「<可能文学工房>のテクストを読むようだ!」」(139ページ)

ちなみにウリポは通常「潜在文学工房」と訳される。ペレックは加入から三年でこの作品を書いたそうだ。クノーがどれくらい喜んだか、想像してみると楽しい。ペレックはクノーらの命令によって「リポグラム担当」となったのだから。

「だが、やがて、そのテクストを作った法則がどんなものか分かれば、賛嘆の念を強めることとなるだろう。使える単語は半分もなく、多くの語が消された、不完全で粗末なコーパスだけを使って、結末まで不足なく書かれたのだから」(218ページ)

ウリポ(Oulipo, Ouvroir de littérature potentielle)の「potentielle」の意味が、じわじわと伝わってくる。そもそも何のために、ペレックは「e」を用いずに小説を書いたのか。最も使用頻度の高い文字をあえて封印することは、普段使うことのない単語を代替物として小説中に持ち出す必要が生まれることを意味する。つまり、ペレックは「e」を使わないことで「e」を含まないほとんど全ての単語を小説に投入し、それによっておおよその予想とは正反対に、語彙の幅・表現の幅を圧倒的に広げることに成功したのだ。

「誰でも分かるような約束ごとを課されても、望むことを思う存分書けると思ったからなのだ。彼の考えでは、そのような約束ごとは猿ぐつわや手枷となるのではなく、発想を活発化させる要素となるはずなのだった」(327ページ)

ちなみにフランス語において「e」が使えないということがどれくらいの危機的状況なのか、以下の文章を読めばすぐに判るだろう。

「こうなると、フランス語名詞における男性形・女性形の区別がいかにも意地悪く感じられてしまう。というのも、Eを含まない男性名詞は多いのに、これらを定冠詞男性形leとともに用いることは出来ないからである。逆に、女性名詞であれば、定冠詞laとともに用いることができるわけだが、女性名詞は語末がEで終ることが多い。そうでない場合にも、不定冠詞uneとともに使うことはできないし、大部分の形容詞も、女性名詞につくときはEで終るため、付加することができないのだ」(「訳者あとがき」より、336ページ)

他にも例はいくらでも出せる。de(of, from), que(that, what), ne(not), en(in), je(I), et(and)など、英語で考えてもまず間違いなく文章が作れなくなる。ところがペレックはやったのだ。こんな実験的小説を訳そうと思い立っただけでも、塩塚秀一郎は称賛に値するだろう。まず、先述した通り描写を変えなければならない。それに全26章からなる原書を全48章に組み直したり(アルファベットと仮名の文字数に合わせる)、日本語に対応させるべく登場人物の人数を増やしたりと、『煙滅』の翻訳は辞書通りの意味での「翻訳」とは全くもって違うのだ。ペレックと並走するもう一人の著者、という役割を担わなければならない。

ミステリー的な要素も強いので、なかなか本筋に触れることができないのが悔しい。読んだ人と語り合いたい類の本である。

「この男が誰なのか、これまでの流れから想像がつくはずだ。分からぬのなら、半分寝てたのだろう」(199ページ)

ウリポというグループ自体の見方すら変わってくる。ウリポはクノーだけじゃない。ペレックをもっと読みたいと思った。『煙滅』と双璧を成すとされる「e」以外の母音を一つも使わずに書かれた「Les Revenentes」も訳して欲しい。10年くらい待つので、よろしくお願いします。

煙滅 (フィクションの楽しみ)

煙滅 (フィクションの楽しみ)

 


<読みたくなった本>
メルヴィル『白鯨』
→やたらに長くこの本が引用されている。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 
白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

 
白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

 

ルーボー『麗しのオルタンス』
→ウリポメンバーであるルーボーの唯一の邦訳。しかも何故か文庫。

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

 

ペレック『人生使用法』
ペレックのもう一つの代表作。読まねば。

人生使用法 (フィクションの楽しみ)

人生使用法 (フィクションの楽しみ)