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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

比類なきジーヴス

ユーモア文学の古典的傑作として名高い、P・G・ウッドハウスのジーヴスもの。国書刊行会による「ウッドハウス・コレクション」の第一回配本である。

比類なきジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

比類なきジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

 

ペルハム・グランヴィル・ウッドハウス(森村たまき訳)『比類なきジーヴス』国書刊行会、2005年。


文学史上の名コンビについて語るとき名前が挙がるのは、ドン・キホーテサンチョ・パンサやフィリアス・フォッグとパスパルトゥー、ホームズとワトソン君などである。ウッドハウスのこの本を読めば、そこにバーティー・ウースターと彼の執事であるこの「比類なき」ジーヴスを付け加えたい気持ちに駆られることは間違いない。この凸凹コンビの素晴らしい関係は、疑いなく文学史に残すべきものである。

『比類なきジーヴス』は多作家ウッドハウスの代表的シリーズ「ジーヴスもの」の第一作目に当たる。オックスフォード出身で教養を持ちつつも頭の悪い主人バーティーと、彼に仕える完璧な執事ジーヴス。この二人を基軸に、バーティーの友人である「熱いお心の」ビンゴや、従兄弟である「キチガイ」の双子クロードとユースタスが、バーティーを巻き込む事件を頻発させていく。

「彼は紅茶のカップをベッドの横のテーブルにそっと置き、僕は目覚めの一口を啜る。完璧である。いつも通りだ。熱すぎず、甘すぎず、薄すぎず、濃すぎもしない。ミルクの量もちょうどいい。また受け皿に一滴たりともこぼれていない。実にこのジーヴス、驚嘆すべき男である。ありとあらゆる点でとてつもなく有能なのだ」(5ページ)

「ありとあらゆる点でとてつもなく有能な」男、ジーヴス。頭の悪いバーティーを慇懃に助けながら、主人の目の届かないところでも策謀を巡らし常に寡黙を保ちつつ彼を助ける。バーティーの頼りようを見ていると、一体どっちが主人なんだと思わずにはいられない。ジーヴスの沈黙ほど効き目のある命令は、彼には存在しないのだ。ちなみにジーヴスは服装にうるさい。たまにバーティーが派手なスパッツなどを履いて街へ出ようとすると、彼はそのスパッツに「氷のような視線」を投げかけるのである。

イギリス文学に根付いているユーモアの伝統は、現在でも連綿と続いている。現代に関して言えば、マキューアンやカズオ・イシグロにもユーモラスな描写は多い。しかし、ユーモアそのものを題材とした作品は意外と少ないことに気付く。ウッドハウスを除いてすぐに思い浮かぶのはジェローム・K・ジェロームだ。『ボートの三人男』の冒頭に、体調を崩した語り手が図書閲覧室に医学辞典を引きに入り、自分が大学病院を一つ抱えているほど沢山の病気に犯されていることに気付く箇所がある。『比類なきジーヴス』にはこんな一節があった。

「奴によるとこの計略の唯一の問題は声帯に負担をかける点で、緊張のため損傷が進行している兆候がある。自分の症状を医学辞典で調べてみたのだが、思うところどうも「牧師咽喉炎」を患っているらしい」(19ページ)

何故英国紳士は医学辞典を引きたがるのか。これは一つの大きな問題である。

「少年はしばらくそこに立ったまま、三十秒ほどシリルに見とれていたが、やがて評決を下した。
 「さかな顔だ!」
 「えっ、なんだって」シリルが言った。
明らかに母親の膝の上で、真実を語るよう教え込まれたのであろうこの少年は、次は彼の意味するところをやや明確にした。
 「お前の顔はさかなに似ている!」」(118~119ページ)

心理描写や情景描写といった読むのに時間を要するような箇所は一ページもない。何も考えずに読むことができる、というのは、何という喜びだろうか。会話文ばかりなので、テンポ良く読み進めることが出来る。電車の中で読むには最高の暇つぶしになるに違いない。ジェロームの時のように、ひたすらゆっくりと読むことをお薦めしたい本である。気乗りしなければ開かない、楽しめるときは一気に読む。それがこの本の読み方である。

「あの窓のそばにいる男は死んで三日はたってるぞ」(268ページ)

実際のところ、特に書くべきこともないのだ。くどくど並べ立てる必要などさらさらない本である。至福の時を約束するから、もう何も考えずに開いてもらいたい。

「「まあそのことはいいとして、これからどうする? それが問題なんだ」
 「わからん」
 「ありがとう」ビンゴは言った。「頼りになるな」」(287~288ページ)

つい先程までの自分がそうだったのだが、疲れたサラリーマンの鞄の中にこの本が入っていたら、何という微笑ましい光景だろうか。ウッドハウスの癒しの効果は絶大である。小難しいことを考えたくないとき、ただただ笑いたいときにでも、この本は素晴らしい効果を発揮する。得られるものが何かあるか、と聞かれたら首を傾げるけれど、そんなことを聞いてくる奴を殴ってやれるほど有益であることは間違いない。

「お前はただジーヴスのみを頼るがよい、さすれば宿命はお前に指一本触れはしない」(293ページ)

さあみんな、ジーヴスに頼ろう。疲れを感じた時まで取っておきたい。

比類なきジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

比類なきジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

 


<読みたくなった本>
ウッドハウス『よしきた、ジーヴス』
→「ウッドハウス・コレクション」第二弾。何と現在までに第十弾まで出ていて、当分楽しめることが約束されている。わーい。

よしきた、ジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

よしきた、ジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

 

ウッドハウスブランディングズ城の夏の稲妻』
→「ウッドハウススペシャル」の第一回配本。ジーヴスもの以外のウッドハウス

ブランディングズ城の夏の稲妻 (ウッドハウス・スペシャル)

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