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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

転落

最近諸事情から読書に時間を割くことがほとんどできないでいる。そんな時に手に取った、慌ただしい読書を徹底的に拒む本。おそらく最も手に取ったはいけなかった類いの書物。

転落・追放と王国 (新潮文庫)

転落・追放と王国 (新潮文庫)

 

アルベール・カミュ(大久保敏彦訳)「転落」『転落・追放と王国』新潮文庫、2003年。


「転落」は1956年発表の小説である。あまりにも時間がかかりすぎて、併収された「追放と王国」を読むのを諦めてしまったほどだ。カミュは電車の中で読めるような作家ではなく、可能な限り静かな場所で、ゆっくりと読まれるべき作家である。それだけの環境を整えたとしても、十全に理解できるとは言い切れないのだ。今の仕事が月末までには一段落すると思うので、「追放と王国」はその時にでもゆっくりと読みたい。

「未来の歴史家がわれわれについてなにを言うか、ときどき考えてみることがあるんです。現代人はたった一行で片づけられてしまうでしょうよ。つまり、姦淫の罪を犯しさまざまな新聞を読んでいた、とね」(13ページ)

「もちろん、わたしにも原則はあった。例えば、友人の細君には絶対に手を出さない、というような。ただ義理堅く、数日前に、夫たちと絶交しておく」(67ページ)

「転落」は全編ある男の告白からなる小説である。先ほどから「小説」という言葉を使っているが、実はこれすらかなり怪しい。聞き手である人物は存在していても姿は見せず、語り手であるクレメンスの声だけがそこに描かれているのだ。

「オランダは夢ですよ、あなた、昼間はもっと煙ったく、夜はもっと黄金色に映える、黄金と煙からなる夢なんですよ」(20ページ)

アムステルダムの同心円状の運河が地獄の輪に似ていることに気がつかれましたか。もちろん悪しき夢に満ち満ちたブルジョワの地獄です」(21ページ)

舞台はオランダ、アムステルダムで、クレメンスは「裁き手にして改悛者」を自称している。この謎めいた肩書きに対する関心が、聞き手をクレメンスの元へと駆り立て、ほとんどが脱線から成る「告白」が五日間に渡って繰り広げられるのだ。

最後の審判を待つのはお止めなさい。それは毎日行われているんですから」(122ページ)

この本が何をテーマにしているのか、正確に言い当てるのは簡単なことではない。ただ、「裁き」という言葉がこれほど多く現れる小説は他には見当たらないだろう。「裁き」とは一体どういうことなのか、「裁かれる」ということはどんな意味を持つのか。この形而上的な問いが、カミュにこの小説を書かせた動力となっていることは間違いない。

「まったくここだけの話ですが、だから奴隷制度、とくににこやかな奴隷制度ってやつはなくてはいけない。しかしわれわれはそれを公に認めるわけにはいかない。だから奴隷をもたざるを得ない人間は、奴隷を自由人と呼んだ方がよいのではないでしょうか?」(54~55ページ)

「あらゆる自由の果てには、宣告があるんです。自由がなぜ担うに重いものかはそこなんですよ。とくに熱に悩まされたり、苦しんだり、あるいは誰をも愛せないときにはね」(144~145ページ)

クレメンスは奴隷制度の復活を声高に奨励する人物である。特定の主人を持たない、という他ならぬ自由という概念が、人を孤独にし日々の重みを増加させているのだ、と。自由は羨望の的となるような概念ではなく、与えられた自由こそ我々を束縛しているのである。

「あなたもよくご存知のように、インテリってやつは誰でもギャングの一員になるか、あるいはもっぱら暴力によって社会に君臨することを夢見るというのが真相なんですよ」(64ページ)

「あなたが死なない限り、人びとはあなたの理屈や誠実さや苦しみの重さなんてけっして納得しやしません。生きている限り、あなたは疑わしき事例で、彼らの懐疑的態度に接するのが関の山ですよ」(83ページ)

カミュが「裁き」というものを頑なに拒否するのは、サルトルとの論争あってのことだ、と「解説」に訳者が書いている。『反抗的人間』の刊行によってサルトルと激烈な論争を繰り広げたカミュは、自らの形而上的反抗を徹底的に否定されることで「裁かれた」という感覚を持ち、自らの哲学をもう一度問い直すこととなる。「転落」に書かれた「裁き」という言葉の重みはそこから始まっているのだ。

「殉教者はね、あなた、忘れられるか、あざけられるか、利用されるか、どれかを選ばなければいけません。理解されるなんて、あり得ないことですよ」(85ページ)

「賭もだめ、芝居もだめとなっで恐らくわたしは真理を掴んでいたのでしょうな。しかし真理というものはね、あなた、退屈なものですよ」(112ページ)

現代人の不誠実、残虐性、欺瞞性への批判も随所に見られ、自分たちがいかに卑劣な生物であるか痛感させられる。「生きていることすら忘れられる」という拷問部屋は、人が立っていられるほど大きくはなく、かといって寝転がるだけの幅もない。窮屈な姿勢を取らざるをえない囚人たちは、この中に入れられて数日もすれば自らが有罪であることをいともたやすく認める、というものだ。唾掛独房は、囚人が立ってはいるが、身動きできないように作られている箱のことで、頭だけが箱から突き出ている。その顔しか見えない囚人に、看守たちがみんな通りすがりに唾を吐きかけていく、というもので、囚人に許される自己防衛の手段は目をつぶることのみ。これらを紹介しながらカミュは言う。「このささやかな傑作を作るために神は必要なかったのです」(121ページ)。

「女は戦士の報奨ではなく、罪人の報奨なんです。女は犯罪者の港であり、避難所であるからこそ、犯罪者が逮捕されるのは大抵は女のベッドのなか。女というものはわれわれに残された最後の地上楽園ではないでしょうかね?」(109ページ)

「若者は最初の愛人をもつとともに形而上学的不安を失うし、ある種の結婚は、公に認められた放蕩であるがゆえに、同時に大胆さと創造力をも葬ってしまう単調な霊柩車となるわけですよ」(116ページ)

「裁き」の問題と現代人に対する批判に次いで多いのが、女に関する言及だ。クレメンスは最初に揚げた現代人の特性を自ら実証しながら、飛び込み自殺をする女は見殺しにしてしまう。そして女の断末魔が耳から離れなくなった彼は、至るところで彼女の溺死体に遭遇する幻覚を覚えるのである。

「白状しにくいことですが、一人の可愛い踊り子との最初のデートとくれば、アインシュタインとの会見だって十回は断ってもよい。もっとも十回目のデートなら、アインシュタインの後を追い掛けたでしょうし、あるいは真剣に読書に打ち込んだでしょうがね」(68~69ページ)

この軽々しい科白にも、核爆弾に対する批判が込められているのだ。一読しただけでカミュを理解しようなどとは思わない方が良い。

物理的な転落と、形而上的な転落。もしくは物理的な転落がもたらした形而上的な転落。カミュが言わんとしたところを理解できたとは到底思えないが、久しぶりにここまで頭を使う本を読んだ。それにしてもこの「転落」は150ページほどの中篇である。まったく、何という濃密な150ページだったろう。

転落・追放と王国 (新潮文庫)

転落・追放と王国 (新潮文庫)

 


<読みたくなった本>
ベディエ『トリスタンとイゾルデ
→語り手は「イゾルデの宿命的愛」という言葉を聞く度に、「歯ぎしりをせずにはいられない」(111ページ)。

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

 

カミュ「追放と王国」
→こちらは短篇集なので、もう少し軽めに読めるかも。それにしても「転落」と短篇集を抱き合わせにするなんて、新潮社の意図がまったく判らない。

転落・追放と王国 (新潮文庫)

転落・追放と王国 (新潮文庫)

 


今更ながら、このブログにカミュを掲載するのが初めてだったことに気が付いた。何ということだ。カミュを熱心に読んでいた頃はブログなんてやっていなかったのが理由である。いずれ再読したいものばかりなのが、せめてもの救いか。ただし『幸福な死』だけは二度と読みたくない。