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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

バートルビー 偶然性について

ジョルジョ・アガンベンの論文「バートルビー 偶然性について」と、その主題であるメルヴィルの短編「バートルビー」の新訳を同時に収録した、大変気の利いた一冊。主題となる小説の短さが可能にした素晴らしい構成であり、さらに訳者による「バートルビーの謎」も併録されている。

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

 

ジョルジョ・アガンベン(高桑和巳訳)『バートルビー 偶然性について』月曜社、2005年。


メルヴィルの短編「バートルビー」は、評論などで頻繁に言及されている伝説的な作品である。それなのに手に入れるのはなかなか大変で、先日この月曜社版の存在を知ってようやく読むことができた。さすが信頼のブランド。早速、三本立ての内の真ん中、メルヴィルの原作から読み始めた。

「彼は、私が会ったなかで、いや、耳にしたなかでも、最も奇妙な筆生だった」(「バートルビー」より、93ページ)

先述した通り方々で見かけるためタイトルもあらすじも聞き知っていたのだが、実はメルヴィルの著作を読むのすらこれが初めてだった。それでも、評論家たちがカフカと並べる理由はすぐに判った。午後になると精細を欠くようになるターキーと、午前中は神経質なことこの上ないニッパーズなど、法律家である「私」の事務所には変人しかいない。そんな奇妙な事務所の中で、最大の異彩を放っているのがバートルビーである。

「彼を呼んだとき、私はちょうどそのような姿勢で腰掛けていた。そして、彼にやってもらいたいことを早口で述べた――つまり、私と一緒にちょっとした書類を点検してほしい、と言ったのである。ところがバートルビーは、自分の私的領域から動くこともなく、特異なまでにおとなしくも堅固な声で「しないほうがいいのですが」と応えた。そのときの私の驚き、いや狼狽を想像していただきたい」(「バートルビー」より、107ページ)

バートルビーは労働を放棄する労働者だ。それまでは黙々と筆写を続けていたのに、その写しを点検するという段になって急に、彼に求められる一切の職務を斥けるようになる。

「私は折戸を閉め、あらためてバートルビーのほうに進んだ。私は、自分を運命へと誘惑するさらなる刺激を感じた。私は、またもや反抗されるだろうと思い、燃えたった。私は、バートルビーがけっして事務所を離れないということを憶い出した。
 「バートルビー」と私は言った。「ジンジャー・ナットは外出中だ。郵便局までちょっと行ってきてくれるね? (郵便局は徒歩でほんの三分のところにあったのだ)私宛のものが何か届いていないか見てきてくれないか?」
 「しないほうがいいのですが」
 「したくないのか?」
 「しないほうがいいのです」」(「バートルビー」より、116ページ)

「次の日、私は、バートルビーが何もせず、ただ窓の外の行き止まりの壁を見つめて夢想にふけっているのに気づいた。なぜ書かないのかと訊ねると、彼は、もう書かないことに決めたのだと言った」(「バートルビー」より、130ページ)

バートルビーの態度を単なる怠慢と呼ぶことはできない。この「しないほうがいいのですが」という言葉に秘められているのは怠慢とはかけ離れた姿勢である。

「彼は今までどおり、私の部屋の備品のままだった。いや――万が一そんなことがありうるならだが――彼は、以前よりまして備品じみてきた。何をすべきか? 事務所にいても彼は何もしようとしない。それなら、なぜ事務所にそのままいなければならないのか?」(「バートルビー」より、132ページ)

バートルビーが仕事を放棄しても、法律家は彼を解雇することができない。語り手であるこの法律家は基本的に善人で、バートルビーをつぶさに観察することで彼のことを自分なりに理解しようと努める。

「ということは、彼はジンジャー・ナットを食べて生きているわけだ、と私は考えた。いわゆるきちんとした食事はまったく食べていない。菜食主義者にちがいない。いや、野菜すら食べていない。ジンジャー・ナット以外は何も食べていない。そこで私の心は、もっぱらジンジャー・ナットを食べて生きると人体にどのような影響がありそうかという夢想へと向かった。ジンジャー・ナットがそう呼ばれるのは、ジンジャーが独特な成分として含まれていて、最後の味つけになっているからである。さて、ジンジャーとは何か? 辛い、香ばしいものである。バートルビーは辛く、香ばしいだろうか? 全然。とすれば、ジンジャーはバートルビーに何の影響も及ぼしていなかったわけだ。おそらく、彼はジンジャーが何の影響も及ぼさないほうがいいというわけだろう」(「バートルビー」より、113ページ)

ところがバートルビーの生活ぶりを観察すれば観察するほど、彼に対する同情心が高まってしまう。バートルビーは家に帰ることもなく、それどころか事務所内の自分の空間から一歩も出ようとせず、窓の外の壁と一日中向かい合っているのだ。仕事を求めれば「しないほうがいいのですが」と答え、かといって他のことをしているわけでもない。哀れみを覚えた法律家は彼を怒鳴りつけることができなくなってしまう。

「ここには、何と悲惨な寄る辺なさ、寂しさが啓示されていることか!」(「バートルビー」より、122ページ)

「ああ、幸福は光を追い求める。だから私たちは、世界が陽気なものと思ってしまう。ところが、離れたところには悲惨が姿を隠している。だから私たちは、悲惨などないものと思ってしまう」(「バートルビー」より、122ページ)

そして次第にバートルビーの持つ影響力が法律家にまで作用するようになる。「ほうがいい」という言葉が口をついて出るようになり、とうとう彼は自分たちの事務所を移転させることでバートルビーを厄介払いすることに決める。

「何よりも憶い出されたのは、彼にはいわば蒼白な――何と呼ぼうか?――蒼白な傲岸さというか、厳粛な自制といったものが無意識のうちに雰囲気として備わっていて、それで私は畏怖を覚えて、彼の常軌を逸したところにも唯々諾々と従うようになっていたということだ」(「バートルビー」より、124ページ)

「どういうわけか私は最近、わざとではないのに、この「ほうがいい」という言葉を、正確にはそれに適さない機会にもすべて用いるようになってしまっていた。この筆生と接触したことで自分が心理面ですでに重大な変質を被ってしまったと考えて、私は震えあがった。この先、さらに深刻な迷錯が何か起こらないと言えるだろうか?」(「バートルビー」より、129ページ)

その後、からっぽになった事務所に留まり続けたバートルビーは「浮浪者」として逮捕されてしまう。そう、動くことを完全に拒否した人物でも「浮浪者」になり得るのだ。やがて法律家はバートルビーのいる監獄へと足を運ぶようになり、最後にはバートルビーが牢獄の中庭で倒れている。それは食事を「しないほうがいい」と考えた彼の末路だった。

この小説が書かれたのは1853年のことである。文学史カフカが登場するのが50年以上も後のことだと考えると、驚かずにはいられない。理不尽の極みともいえるこの小編は、様々な批評家から視線を浴びることとなった。カフカは勿論のこと、シェイクスピア『ハムレット』ルイス・キャロル『スナーク狩り』ベケット『ゴドーを待ちながら』などを並べてみても面白いかもしれない。

さて、いよいよメインのアガンベンの登場である。アガンベンバートルビーのこの姿勢をアリストテレスを引きながら解き明かそうと試みる。その鍵となるのが「潜勢力」という言葉だ。

「精神とは何らかの決まったものではなく、純粋な潜勢力の存在なのであり、まだ何も書かれていない書板という譬喩こそまさしく、一つの純粋な潜勢力が存在するありかたを表すのに役立つ。じつのところ、何らかのものとして存在したり何らかの事柄を為したりすることができるという潜勢力はすべて、アリストテレスによれば、つねに、存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力でもある」(「バートルビー 偶然性について」より、14~15ページ)

潜勢力は「することができる」という、英語で言うところのポテンシャルを想起させる言葉である(イタリア語ではpotenza)。だが、例えばギターを弾くことができる人は、ギターを弾かないこともできる。この「しないことができる」という「非の潜勢力」こそが、アガンベンのこの論文において最も重要な概念なのである。

神学者たちは、神は全能であると断言しているにもかかわらず、それと同時に、神に対して、存在することができるという潜勢力、欲することができるという潜勢力を否定せざるをえなかった。じつのところ、存在することができるという潜勢力が神にあるとすると、存在しないことができるという潜勢力もあることになり、それでは神の永続性と矛盾する。また、神が、自らの欲するものを欲しないこともできるとすると、彼は非存在や悪を欲することができることになり、それは、ニヒリズムの原則を神に導入することに等しい」(「バートルビー 偶然性について」より、35ページ)

「非の潜勢力」はそのままバートルビーの姿勢を読み解く最大のキーワードとなる。書くことができるのと同様に書かないことができる状態、つまり決して現勢力へと移行することのない非の潜勢力の状態に留まり続けているのが、バートルビーなのだ。

「書くことと創造の過程との同一視はここでは絶対的である。書かない筆生(バートルビーはその最終的な形象、衰弱しきった形象だ)は完全な潜勢力であり、これを創造の現勢力から分離するのは今や、無だけである」(「バートルビー 偶然性について」より、21ページ)

「書くことをやめた筆生である彼は、あらゆる創造が生じるもととなる無をかたどる極端な形象であり、また、純粋かつ絶対的な潜勢力であるこの無を最も苛烈に要求するものでもある。この筆生は書板になったのであり、彼は今や、自分自身の白紙に他ならない。したがって、可能性の深淵のなかに彼がこれほど執拗にとどまり、そこから抜け出そうという意図をいささかももっていないように見えるのも、驚くにはあたらない」(「バートルビー 偶然性について」より、38ページ)

潜勢力を現勢力へと移行させるもの、それが意志である。その意志を持たない状態を保つ、ということが、バートルビーの苛烈に要求する「純粋かつ絶対的な潜勢力」を保持することなのだ。ここにきて、「しないほうがいいのですが」という言葉は彼の持つ正直な感情として映るようになる。「したくない」のではなく「しないほうがいい」のである。

「意志のない潜勢力は、まったく実効性のないものであり、けっして現勢力へと移行することができない」(「バートルビー 偶然性について」より、40~41ページ)

ところで、メルヴィルの「バートルビー」に以下の一節がある。バートルビーを理解しようと努める法律家がいくつかの書物に当たっている箇所である。

「数日が過ぎたが、私はそのあいだ暇を見ては、エドワーズの『意志について』とプリーストリの『必然性について』を少しばかり覗いてみた。状況が状況だけに、こうした本は健康になるような感じを誘発してくれた」(「バートルビー」より、141ページ)

法律家の選書がいかに的外れなものであるのか、アガンベンは完全に立証してしまう。何もそこまで、と思いもするものの、これまでの潜勢力の文脈からすんなりと納得できる論理なのだ。法律家の読む本が『必然性について』であるのに対して、アガンベンのこの論文のタイトルは「偶然性について」である。

「法律家が、この筆生を彼なりに真摯に理解しようと努めるとき、彼が読みふける本は、彼が用いようとする諸範疇についての疑念をまったく残さない。それは、ジョナサン・エドワーズの『意志について〔意志の自由という一般的観念に関する入念かつ厳密な検討〕』とジョゼフ・プリーストリの『必然性について〔哲学上の必然性に関する教説〕』である。しかし、潜勢力は意志ではないし、非の潜勢力は必然性ではない。これらの読書が彼にもたらす「健康になるような感じ」にもかかわらず、これらの範疇はバートルビーを理解する役にはまったく立たないままだ」(「バートルビー 偶然性について」より、39~40ページ)

先程いくつかの作品に交えて『ハムレット』を挙げたが、ここでもハムレットの有名な独白「To be, or not to be」が引かれている。

デンマークの王子の警句は、存在することと存在しないことのあいだの二者択一においてあらゆる問題を解決するものだが、筆生の定式は、この警句に対して、その二項を超越する第三項を立てる」(「バートルビー 偶然性について」より、52ページ)

この第三項に関しては以下の通りだ。

「純粋な潜勢力という状態にあって、存在と無との彼方で、「より以上ではない」をもちこたえることができるということ、存在と無の両方を超出する非の潜勢力という可能性のうちに最後まで留まるということ――これがバートルビーの試練である」(「バートルビー 偶然性について」より、53ページ)

つまり、繰り返しになるが、バートルビーは「非の潜勢力という可能性のうちに最後まで留まるということ」を目指しているのである。先の法律家の選書でも際立っていた対比、必然性と偶然性に関する問題も解き明かされる。

「存在することができるとともに存在しないことができる存在は、第一哲学においては、偶然的なもの、と呼ばれる。バートルビーが冒す実験は、絶対的偶然性の実験である」(「バートルビー 偶然性について」より、58ページ)

潜勢力を現勢力へと移行させるあらゆる意志は、偶然性を内包している。そして偶然性とは存在しないことができる。逆に、必然的なものは存在しないことができないのである。ここでもアガンベンは鮮やかに、バートルビーの立つ地平を描き続ける。

「「しないほうがいいのですが」は可能性の全的な回復である。それは、可能性を、起こることと起こらないことのあいだ、存在することができることと存在しないことができることのあいだの平衡状態に保つ。これは、存在しなかったものの想起である」(「バートルビー 偶然性について」より、75ページ)

短編「バートルビー」のラストには、法律家が風の噂で聞きつけたバートルビーの来歴が紹介されている。バートルビーは筆生となる前、「死んだ手紙部局」の下級局員だったというものだ。配達先不明の手紙を処理する部局に働いていた彼がどんな感情を抱くに至ったのか、善良な法律家は想像する。それは自分の処理している手紙が「絶望のうちに死んだ人々に宛てられた赦し」かもしれない、と、バートルビーが感じたかもしれないことに想像をめぐらす。

しかしここでもアガンベンは、徹底的に法律家の誤りを指摘する。ここでも登場するのは潜勢力であり、非の潜勢力なのである。

「手紙は、書くということは、潜勢力から現勢力への移行を天界の筆生の書板の上にしるしづけるものだ。しかし、まさしくそのゆえに、あらゆる手紙はまた、何ものかが真とならないということをしるしづけてもいる。この意味で、手紙はつねに「死んだ手紙」なのだ。これこそ、バートルビーがワシントンの部局で学んだ耐えがたい心理であり、これこそが「生の告知のはずが、これらの手紙は死へと行き急ぐ」という特異な定式の意味なのだ」(「バートルビー 偶然性について」より、81ページ)

アガンベンのこの論文はアリストテレスの声で埋め尽くされている感があるが、そこには別の哲学者たちも顔を出しており、例えばライプニッツは「存在することができたが存在しなかった」ものに対して想いを馳せる。ライプニッツの『弁神論』に描かれる「運命の宮殿」には、存在することができたあらゆる未来が込められているのだ。ピラミッド状になっている最上階には最善の世界があるが、バートルビーが目指しているのは反対で、最下層である。

バートルビーが新しいメシアだとしても、彼は、イエスのようにかつて存在したものを贖うためにではなく、かつて存在しなかったものを救済するために到来するのだ。新しい救済者である彼が降りていく底なし地獄は、<運命の宮殿>の地下の最深層であり、ライプニッツが視覚を届かせられなかったところ、何ものも他の何かと共に可能的ではない世界、「何も、何かよりむしろ存在するということがない」世界である」(「バートルビー 偶然性について」より、82~83ページ)

以上がアガンベンの論文の大意だ。こちらの理解力不足で最後まで把握できなかった箇所も多く、間違った読み方をしている箇所も大いにあるかもしれない。精読が必要な、電車の中で読もうとすると一行も進めないような論文である。結局要約みたいになってしまったが、哲学を小説に援用することでこれほどの効果を生み出すことができるとは知らなかった。「バートルビー」を理解する一助として、興味深く読むことができた。

ちなみに、訳者による「バートルビーの謎」ではブランショデリダドゥルーズらの読みが紹介されている。元々アガンベンの論文は彼自身によるドゥルーズバートルビー論のイタリア語訳刊行の際に付されたものだそうだ。とてもじゃないが一つずつ追うことはできない。

たまに人文書を読むと刺激的で面白い。精読できる環境を作って、もっともっと読みたいと思った。

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

 


<読みたくなった本>
メルヴィル『白鯨』

白鯨 上 (岩波文庫)

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白鯨 中 (岩波文庫)

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白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

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アリストテレスの著作
ライプニッツ『弁神論』

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上

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ライプニッツ著作集 (7)

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ブランショ『災厄のエクリチュール

L' ecriture du desastre

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ボルヘス『序文つき序文集』

序文つき序文集 (ボルヘス・コレクション)

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ドゥルーズ『批評と臨床』

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

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