Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

若い藝術家の肖像

サイードが『知識人とは何か』のなかで紹介していた「知識人が登場する小説」は三作、ツルゲーネフ『父と子』フロベール『感情教育』、そしてこのジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』だった。既読だったのは喜ばしいことにツルゲーネフのみで、サイードは自身が挙げた三作の中では、このジョイスの作品を最も力強く推していたように思える。

若い藝術家の肖像

若い藝術家の肖像

 

ジェイムズ・ジョイス丸谷才一訳)『若い藝術家の肖像』集英社、2009年。


昨年末に刊行された新訳決定版、A5版のハードカバーで多分2キロ以上の重みがある、文字通り重厚な本である。新潮文庫に入っている同作も丸谷才一の訳によるものだが、もう一度繰り返すことになるがこちらは新訳決定版。自身の最後の仕事になってもおかしくない年齢の丸谷才一が全身全霊を傾けた作家、それがジョイスなのだ。

「おめめをくりぬくぞ、
 おわびしな、
 おわびしな、
 おめめをくりぬくぞ。

 おわびしな、
 おめめをくりぬくぞ、
 おめめをくりぬくぞ、
 おわびしな」(13~14ページ)

ユリシーズ』も『フィネガンズ・ウェイク』も、これまで何度となく耳にしてきたタイトルであるが、この『若い藝術家の肖像』についてサイードが語っているのを読んで、初めてジョイスを読みたいと思った。必読書とよばれる古典作品でも、入口が見つからない限りは手に取らないのが僕の信条である。とうとう出会えたジョイス。上に挙げた冒頭の文章は、すぐに僕の度肝を抜いてくれた。

タイトルと同様に至るところで耳にしてきた「ジョイスは読めない」という評価は間違ったものである、とすぐに気づく。最初は稚拙と言っても問題ない表現が飛び交う、文字通り幼稚なスティーヴン・ディーダラスの少年時代で、「monocle」という言葉を知らないが故に「a glass」という言葉を使うなど、表現の一つ一つに作家の細かな気配りを感じる。最終章を読み終えた今になって第一章を振り返ると、翻訳された文章の字面を眺めるだけでも大きな驚きがある。つまり後半部では全く登場しなかったひらがなで書かれる語彙が大量にそこに見つかるのだ。

アイルランドに神様はいらない! と彼は叫んだ。アイルランドには神様があんまり多すぎた。神様もろとも出てうせろ!」(71ページ)

少年スティーヴン・ディーダラスは学校と自宅を行き来しながら様々なものを目撃する。理不尽な大人、時代の片鱗、人びとの対立、そして教育される信仰。スティーヴンが目撃するあらゆる事柄が彼自身を形成していく過程が描かれているのである。

「彼はハロルズ・クロスでの子供たちのパーティで椅子に腰かけていた。黙りこくってあたりを見まもっている癖がひどくなっていたし、それにゲームにはほとんど加わらなかった。子供たちはクラッカーからとび出した紙の帽子をかぶって、踊ったり騒がしくふざけあったりしている。いっしょにはしゃごうとしても、自分が、派手な三角帽子や日よけの帽子の子供たちのなかで陰気な存在であることに気がつくだけ」(125ページ)

第二章に入ると、彼は自身が「陰気な存在」になりつつあることに気がつく。それでもまだ彼は少年である。学校において模範的な青年として扱われながら、自身と友人たちとの間にある境界に気がついてしまうのだ。

「この競争相手がみょうに喧嘩っ早い友情の持主だということには、最近、気がついていたけれど、しかし今またその友情を示されても、スティーヴンはいつもの物静かで従順な態度のままでいた。こういう粗野な興奮を信用していなかったし、この種の友情のまじめさを疑っていた。それは大人になるということの悲しい前ぶれのように思われたのだ」(153ページ)

第二章の終わりに、彼はとうとう友人たちとはかけ離れた存在となる。耽読していたデュマの翻訳本に教わったモチーフが、彼の心を支配するようになってしまうのだ。それは愛、性欲だった。

「彼は自分の心の激しい憧れを鎮めようとしたが、その憧れの前には他の一切のことは取るに足りない、相容れないことのように思われた。自分が大罪を犯していることも、自分の生活がごまかしと偽りでできあがっていることも気にかけなかった。心のなかで思いめぐらしている、極悪なことを実現したいという野蛮な欲情のほかには、何一つとして神聖なものはないと感じられた。どんなイメージに眼をひきつけられたときでも、それを丹念に汚す喜びにふけり、そのひめやかな祭の恥ずべきディテイルを皮肉な気持で眺めていた」(180ページ)

何度読んでもこの文章には恐ろしいまでの美しさが備わっている。「ひめやかな祭の恥ずべきディテイル」という言葉の戦慄的な美しさ。それが「恥ずべき」ものであると分かっていても、抗うことなど出来はしないのだ。

「聖ヤコブの、一つの掟に逆らう者はあらゆる掟を犯しているのだ、という言葉は、はじめのうちは誇張に思われたけれど、とうとう彼は自分じしんの状態である闇を模索しだすことになった。情欲という邪悪な種子からほかのあらゆる大罪が生れた。自分に対する傲慢と他人への軽蔑、掟にそむく快楽を追求するため費やす金銭への貪欲、自分の手の届かぬ悪徳をおこなう人々への羨望と敬虔な人々への中傷のささやき、大食への惑溺、自分の渇望について思いめぐらしながらの渋面を作っての怒り、自分の全存在がそこに沈んでいる精神と肉体と怠惰の沼」(196ページ)

抗いがたき力に押し流されるままにスティーヴンは一線を越えてしまい、そしてイエズス会士たちの地獄にまつわる説教を聞き覚えることで、「精神と肉体と怠惰の沼」から這い上がることを決意する。第三章はその過程に尽くされる。快楽の後にやってきた絶望、その告解、そして絶えざる懺悔、懺悔、懺悔。

「自分がひどく堕落してしまい、この娘たちの魂のほうが自分の魂よりも神にとっては尊いのだ、と感じると、気を萎えさせるような屈辱の息が魂の上に寂しく吹きかかった。その風は彼の上を吹いて、ほかの千万もの魂のほうへと渡ってゆく。神の恩寵はそれらの魂の上で、ときには強くときには弱く照り輝いている。ちょうど、星々がときには明るく、ときにはかすかに明滅するように。そして、きらめく魂は明滅しながら過ぎ去ってゆき、ゆらめく風に消え失せる。一つの魂が失われる、小さな魂が。ぼくの魂が。それは一度ゆらめいてそれから消え、忘れられ失せてしまう。終末、黒く、冷たく、虚しい荒廃」(256ページ)

「彼の感覚の一つ一つには、きびしい規律が課せられた。視覚の禁欲のためには、伏し目がちになって通りを歩き、右も左も後ろをも見ないことが規律となった。眼は、女たちの眼と出会うことをことごとく避けた。ときどきだしぬけに気を張って、まるで読みかけのセンテンスの途中で不意に眼をあげ、本を閉じるようにして、視線をそらすこともあった」(274ページ)

その修行に励む姿はイエズス会士たちの目に止まり、ある日彼は校長に呼ばれ司祭職への道を提案される。その瞬間、彼の実践してきた絶えざる努力は全て無意味なものとなるのだ。彼は拒否し、はねのける。それは単なる反骨精神ではない。それは熟慮の末に現れた、彼自身のための孤独な道の第一歩となるのだ。

「世界の数多くの罠とは、世界がしつらえた罪の道にほかならない。ぼくは堕ちてゆくだろう。まだ堕ちてはいないけれど、たちまちにして音もなく堕ちてゆくだろう。堕ちずにいることはあまりにもむずかしすぎる、そう、あまりにも。そういう事態に間もなくなろうとするとき、ぼくは魂の静かな堕落を感じている。堕ちてゆく、堕ちてゆく。まだ堕ちてしまったわけではないけれど、まだ堕ちずにはいるけれど、しかし今まさにぼくは堕ちようとしている」(294ページ)

教会も学校も間違っていて、ただ自分だけが正しい。スティーヴンがその意識に辿り着いたのは、まさしく教会や学校が求める規範に従い、それを常に実践した結果だったのだ。スティーヴンは『父と子』のバザーロフよりも『夜の果てへの旅』のバルダミュに近い。彼らの裏にあるのは、その姿勢へと至る動機である。

「彼女のイメージは永久に彼の魂へとはいったし、しかもぼくの恍惚の聖なる沈黙を破るどんな言葉も発せられなかったのだ。彼女の眼は呼びかけ、ぼくの魂はその呼びかけに胸おどらせたのだ。生き、過ちを犯し、堕ち、勝利を得、生から生をふたたび創造すること! 荒ら荒らしい天使がぼくに現れたのだ。人間の青春と美の天使、うるわしい生命の宮廷からの使節が、一瞬の恍惚のうちにぼくの前に姿を見せ、過失と栄光に通じるすべての道の門を押し開いてくれた。さあ、前へ前へ前へ前へ進んでゆこう!」(311ページ)

この「荒ら荒らしい天使がぼくに現れたのだ」という叫びには、ここまでのスティーヴンを形成してきた全ての要素が詰まっている。学校で学び、過ちを犯し、悔いて、そして新たに立ち上がったスティーヴン・ディーダラス。第四章からは物語は一気に難解になる。それはスティーヴンの心性が変わったことを示し、彼の拠り所が最早それまでと同じでないことの確たる証拠である。

「美学上の議論で、とスティーヴンが言った。一つむずかしいことは、言葉が、文学的伝統に従って使われているのか、それとも、世間の伝統に従って使われているのか区別することです」(342ページ)

「ぼくたちが今しゃべっている言葉、これは、ぼくのものである前にこの男のものなのだ。《家庭、キリスト、ビール、師》などという言葉は、この男の口から出るのと、ぼくの口から出るのとではなんという違いだろう! ぼくはこういう言葉を話したり、書いたりするとき、どうしても心に一抹の不安を感じてしまう。この男の国語は、非常に親しくって、そのくせしっくりしないもので、所詮、習い覚えた言葉にすぎない。ぼくはその単語を作ったり、受け入れたりはしない。ぼくの声がそれを追いつめる。ぼくの魂はこの男の国語の蔭に覆われて苛立つのだ」(345ページ)

第一章で盛んに取り上げられた政治の話題はここに来て再燃する。しかしスティーヴンはもう、何も判らないまま両親とその友人たちの政治談義を聞いていた子どもではない。彼は自分の採るべき態度を十全に把握しているのだ。

「人間の魂がこの国に生れ出るとき、それが飛翔してしまわないように引きとめる網がいくつも投げられる。君はぼくに、国民性や、国語や、宗教のことを話してくれるけど、ぼくはこういう網をかすめて飛び立とうとしている」(371ページ)

ディーダラスはダイダロスを英語読みした姓である。イカロスの父、ダイダロス。空を飛べた父ダイダロスと、太陽に近づきすぎたイカロス。「空を飛ぶのは血筋のせいさ」と題された丸谷才一の巻末解説のタイトルが頭の中で重々しく思い出される箇所である。

「よくない藝術によってかきたてられる感情は、欲望や嫌悪のような動的なものだ。欲望はぼくたちに所有させようとしたり、何かに赴くように駆りたてる。嫌悪はぼくたちに何かを捨てさせたり、何かから離れるように駆りたてる。こういうのは動的な感情である。そういう欲求は嫌悪をうながすような藝術は、従って猥褻なものにせよ、教訓的なものにせよ、よくない藝術だ。審美的な感情は(ぼくは一般的な用語を使ったんだけど)、従って静的なものだ。精神に引きとどめられ、高められて、欲望や嫌悪を超越する」(374~375ページ)

藝術とは何か、藝術家とはどうあるべきか、最終章はそれまでのスティーヴンの思想的遍歴の果てとして、フルオーケストラで鳴り響く。神学者たちの言葉、詩人たちの言葉、そして藝術家の言葉。審美とはどういうことか、美学とはどうあるべきか、それが延々と語られながらスティーヴン自身の生き様へと投影される姿は、まさしく強大な知識人の誕生を告げている。

「ぼくたちが正しいんだ、と彼は言った。そして他の人たちが間違っている。これらのものについて語り、その本質を理解しようと努めること、そして、それを理解してしまえば、鈍重な大地やそれが生み出すものから、あるいはぼくたちの魂の監獄の門である音や形や色から、ぼくたちが理解するようになった美の映像をゆっくりと、つつましく、たえず表現し、表現しつくすこと――それが藝術だ」(377ページ)

「藝術は、とスティーヴンが言った。感覚的ないし知的な事柄を審美的目的のために処理することなのだ」(378ページ)

ここでサイードが提示していた知識人の条件を再掲してみよう。「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」(『知識人とは何か』より、20ページ)。ここでは「藝術家」と「知識人」は同義である。最終章に登場したディーダラスの素質の中で、これらの項目に一つでも合致しないものがあるだろうか。国民性も国語も宗教も、全て権威であり中心である。スティーヴン・ディーダラスはそれを拒絶することで、自らを周辺的存在に置こうとしているのだ。

「藝術家の個性というのは、最初は叫びとか韻律とか気分なんで、それがやがて流動的で優しく輝く叙述になり、ついには洗練の極、存在しなくなり、いわば没個性的なものになる。劇的形式における審美的映像というのは、人間の想像力のなかで洗練され、人間の想像力からふたたび投影された生命なんだ」(393ページ)

「二千年の権威と尊敬がその背後にうずたかく積まれている一つの象徴に対し偽りの讚美をささげるせいで、ぼくの魂のなかに化学反応のようなものが起ることが怖いのさ」(448ページ)

そして彼は飛び立つ。イカロスの飛行となるのか、それともダイダロスの飛行となるのか、その答えは提示されない。「空を飛ぶのは血筋のせいさ」という一文は『ユリシーズ』の中でスティーヴン・ディーダラスの友人が口ずさむ歌の一節である。

「――たぶん、ぼくは出かけることになるよ、と彼は言った。
 ――どこへ? とクランリーは訊ねた。
 ――ゆけるところへ、とスティーヴンは言った。
 ――そうね、とクランリーは言った。この国で君が暮すのはむずかしいかもしれないね」(451ページ)

権威を否定したスティーヴンは「亡命者にして周辺的存在」となり、まばゆいばかりに輝いている。これこそが知識人のあるべき姿である。前へ前へと進んできたスティーヴンは、ここで彼方を目指すこととなる。

「ぼくは自分が信じてないものに仕えることをしない。家庭だろうと、祖国だろうと、教会だろうと。ぼくはできるだけ自由に、そしてできるだけ全体的に、人生のある様式で、それとも藝術のある様式で、自分を表現しようとするつもりだ。自分を守るためのたった一つの武器として、沈黙と流寓とそれから狡智を使って」(454ページ)

「彼方へ! 彼方へ!」(464ページ)

「ようこそ、おお、人生よ! ぼくは出かけよう、現実の経験と百万回も出会い、ぼくの族(うから)のまだ創られていない意識を、ぼくの魂の鍛冶場で鍛えるために」(465ページ)

僕らはみんな、外に出なくてはならない。「まだ創られていない意識」のために、僕らは彼方へと飛び立つ必要があるのだ。そう、できるだけ自由に、できるだけ全体的に自分を表現するために。

正直、これほどまでに自分の琴線がガラガラと鳴らされる経験はしたことがなかった。長篇小説の構成をたっぷり使い切った精神の変遷の描き方に驚くのは勿論のこと、後半に進めば進むほど難解な議論が立ちはだかり、それを時間をかけて読み解くことで最も美しく理想的な回答が現れ、前進する力を与えられる感覚は、恐ろしいの一言に尽きる。セリーヌを読み通すのに必要なのは反骨精神だけだけれど、ジョイスはそうではない。『若い藝術家の肖像』を読むことができたという経験、スティーヴン・ディーダラスにここまで共感させられたという経験は、生涯忘れることはないだろう。心底驚いた。何度でも読み返したい。

若い藝術家の肖像

若い藝術家の肖像

 

追記(2014年10月23日):めでたく文庫化されました。

若い藝術家の肖像 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

若い藝術家の肖像 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

 


<読みたくなった本>
デュマ『モンテ・クリスト伯
→「夜は自分の時間だった。《モンテ・クリスト伯》の粗悪な翻訳本に熱中した」(115ページ)

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

 
モンテ・クリスト伯〈2〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈2〉 (岩波文庫)

 
モンテ・クリスト伯〈3〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈3〉 (岩波文庫)

 
モンテ・クリスト伯〈4〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈4〉 (岩波文庫)

 
モンテ・クリスト伯〈5〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈5〉 (岩波文庫)

 
モンテ・クリスト伯〈6〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈6〉 (岩波文庫)

 
モンテ・クリスト伯〈7〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈7〉 (岩波文庫)

 

バイロンバイロン詩集』
→「――じゃあ最高の詩人は誰だと思う? とボーランドがヘロンを肘でつつきながらたずねた。
  ――バイロンさ、もちろん、とスティーヴンは答えた」(148ページ)

バイロン詩集 (新潮文庫)

バイロン詩集 (新潮文庫)

 

オスカー・ワイルド『嘘の衰退』
→「スティーヴンは階段の上り口で立ち止って、ポケットから煙草の箱を出すと、友人に差し出した」(372ページ)。美学論を語る前に煙草を与える仕草は、この本が起源らしい。

オスカー・ワイルド全集〈4〉 (1981年)

オスカー・ワイルド全集〈4〉 (1981年)

 

アリストテレス詩学
→「美の方向への第一歩は想像力の構造と範囲を理解すること、審美的認識作用そのものを把握することなんだ」(380ページ)

詩学 (岩波文庫)

詩学 (岩波文庫)

 

ユゴー『クロムウェル』
→「藝術は必然的に、次々に進んでゆく三つの形式に分れる」(390ページ)

クロムウェル・序文、エルナニ (ヴィクトル・ユゴー文学館)
 

レッシング『ラオコーン』
→「レッシングは、群像を材料にとって書くべきじゃなかったんだ」(392ページ)

ラオコオン―絵画と文学との限界について (岩波文庫)

ラオコオン―絵画と文学との限界について (岩波文庫)

 

シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』
→「こういう頭の働きは、太陽の作用によって泥から生れる、とレピダスなら言うだろう」(460ページ)

イエイツ『イエイツ詩集』
→「マイケル・ロバーツは忘れられた美を思い出す。そして、彼の両腕が彼女を抱きしめるとき、彼はこの世から長いあいだ消えていた愛らしさを抱くのだ。そうじゃない。ぜんぜん違う。ぼくは、まだこの世に現れていない愛らしさを抱きたい」(462ページ)

対訳 イェイツ詩集 (岩波文庫)

対訳 イェイツ詩集 (岩波文庫)