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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

不純なる教養

大学生の頃、僕にとって重要だったのは授業に出席することではなく、喫煙所において彼の話を聞くことだった。そんな僕の人生を徹底的に狂わせた男、白石嘉治氏による初めての単著。

不純なる教養

不純なる教養

 

白石嘉治『不純なる教養』青土社、2010年。


彼の前作にあたる『ネオリベ現代生活批判序説』が刊行された当時、僕は大学の喫煙所で生まれて初めて世界の歪みが告発される瞬間を目の当たりにしていた。どうして同級生たちは本を読まないのか、どうして大学教授たちは批判に対して沈黙してしまうのか、どうして知識を育む場であるべき大学で就職活動が励行されているのか、自分の頭の中に蓄積されていた懐疑と怒りの原因を、何らかのかたちでもって初めて示してくれたのが白石嘉治氏であった。

「大学は無償でなければならないし、思想の営みは、大学の無償化の根拠となる世界そのものの無償性にねざしている」(13ページ)

大学の無償化、それが前作でも今作でも彼の最も重要な議題である。2006年の6月30日、担当教官の許可を得てまでゼミを欠席し、学部としては何の関係もない白石氏と共にビラをばらまいたことを思い出す。2006年6月30日は日本政府に対して課された国際人権規約第13条2項c号の、批准留保撤回の期日であった。「国際人権規約第13条2項c号」とは「高等教育の漸進的無償化」を定めた条項で、当時この規約の批准を留保していたのは日本とマダガスカルルワンダの三国のみ、その後2008年にはルワンダが留保を撤回し、今でも調印を拒んでいるのは最貧国の一つであるマダガスカルと日本だけとなっている。日本の採っている立場が国際的にも例外的なのは見ての通りで、それを可能にしている思想がネオリベラリズム新自由主義)だ、というのが白石氏の論理であった。

以上のようなことは『ネオリベ現代生活批判序説』に詳しすぎるほどに詳しく書いてあり、大学生の頃、僕はその論理を無条件に信奉していた。だが結局のところ僕らが何枚ビラを撒こうと、日本政府が批准留保を撤回することはなく、2010年の今となってもまだ「高等教育の漸進的無償化」は果たされていない。運動が失敗に終わってからというもの、僕は白石氏の論理を疑うようになった。ネオリベラリズムの掲げる「交換のロジック」が誤謬と欺瞞に満ち満ちたものであることは疑いようがないし、それがもたらした弊害は就職したことで一層明確に映るようになった。問題は方法論だったのではないか? そう結論するようになってしばらく経ったとき、この『不純なる教養』は刊行された。

「公共選択論が思い描く秩序は、この「ポリス」の統治であるといってよい。そこでは係争の契機は排除され、すべての行為が利害を調整するプロセスとなる。われわれが「政治」を失っているとすれば、そうした調整に没入し「平等」や「不和」への感受性が損なわれているからである。だが、そうした「平等」や「不和」こそ、「不純」なる教養の賭け金だったのではなかったか?」(35~36ページ)

ハイエク、ブキャナン、フリードマンの名前は、今でも変わらず敵を意味する固有名詞であり、その「公共選択論」は値段の付けられないものを商品化する「交換のロジック」を促進させた基本的な理念である。ネオリベラリズムが大学を商品化することで、学問は切り売りされる商品へと卑しめられてしまった。就職先を見つけるために大学へ行く、というのは、恐ろしいほど一般的なことになってはいるが、大学は「学士」という「資格」を取得するための専門学校などではないのだ。

ネオリベラリズムが資本主義を純化することで、国家はその暴力による統制という祖型をあらわにする。だから「社会運動」は暴力的に封じ込められる。もちろん、通常は、シンクタンクエコノミストといった「専門家」の動員によるプロパガンダにとどまっているが、必要とあればいつでも露骨な暴力や警察力が出現する。それは「新自由主義国家」の例外的な姿ではない。暴力としての国家の露呈はネオリベラリズムの理論的な帰結なのである」(49ページ)

新自由主義の根本的な理念は、国家の持ち物とされてきた多くのものを市場の論理に委ねることである。「民営化」という言葉の裏にはネオリベラリズムしかなく、教育や医療や福祉でさえもが市場論理によって「運営」されるようになることで、「自己責任」という言葉が横行し、本来国家によって保障されるべきものが次第次第に失われていくのである。新自由主義的な「小さな政府」が持つべきものは軍事と警察のみであるが、この二つが統制することのできないものは様々な言葉で抑圧される。「防災」や「テロ対策」、最近の例では「禁煙」や「環境保護」といった言葉が想起されるが、こういった単語が字義通りに使われた試しはない。メディアにおいてその必要性を説くのは「専門家」であり、そこに「知識人」の出る幕はない。サイードが『知識人とは何か』にて唱えていたこの「専門家」と「知識人」の二項対立はここでも適用されうるのであり、ネオリベラリズムとは「知識人」を沈黙させようとする国家的な暴力なのである。

「サゴ=デュヴォルーによれば、こうした無償性と有償性の接合が深刻なのは、そのことでわれわれの生きる時間性そのものが市場の交換のなかに溶かし込まれてしまうからである。いま何かが無償であるのは、将来それが支払われるからである――この意識が徹底されるならば、未来は計算可能なものとみなされ、それを未来と呼ぶことはできないだろう。あるいは厳密にいって、交換という空間的な表象が全面化するとき、そこには時間はもはや流れていない。無償性の享受なしに、未来も時間もありえないのである」(54ページ)

場の論理から抜け出すために必要なのは、無償化である。「無償」とは例えば広告料金によって賄われるフリーペーパーのようなものではなく、昨今流行の『フリー』(クリス・アンダーソン)が掲げる「<無料>からお金を生みだす新戦略」などというものでも勿論ない。問われているのは、いずれ有償化される商品の限定的な「無料」ではなく、値段をつけること自体が不可能なものの復権である。

「われわれの生の営みにおいて最も重要なものは買えるものではなく、値段がつけられないものであり、それゆえ軸となる無償性の領域を押し広げ、売られるものを周縁化することはよいことである」(サゴ=デュヴォルーからの引用、54ページ)

「すくなくともいえることは、われわれが社会をつくっているのは、すでに存在する無償のものを有償化して、金融機関を肥大させるためではないということである」(55ページ)

何が金になって、何が金にならないか。その議論を続けている限り、この国において「知識人」の居場所は減り続ける一方だろうし、本は当然のように売れなくなるだろう。売れる本といえば自己啓発書とビジネス書、それに有名ブランドのカバンが付録となっている雑誌やダイエットの教本などなど。文学や哲学の出る幕は既に失われており、例えば出版業界がこのまま新自由主義に飲み込まれてしまえば、そこに表出するのはビッグブラザーのいない『1984年』の世界だろうし、誰も指示した覚えのない『華氏451度』の世界だろう。売れない文学や哲学は本屋から姿を消し、売れるダイエット教本や自己啓発書がそこにとって代わるのである。

「日本の高等教育の学費は異常であり、現実的には日本学生支援機構が学費を全額給付すべきである。このことなしに、大学が国家と資本からの自律を高めていく方途はありえない。にもかかわらず、日本学生支援機構にたいする要求がなされないとすれば、多くの大学人が実務家か専門家にすぎないことを意味している」(57ページ)

この末期的な状況を打破するための方策の一つが、大学の無償化である。それは就職先を探すための大学を瓦解させ、知を養う場としての、つまり原義的な意味合いでの大学を復権させる方途となるだろう。本来の大学にて示されるべきものは、資本主義的な交換のロジックにあてはめられるものではないのである。

「問われているのは「知‐政治(noo-politique)」である。ラッツァラートがいうように、非物質的な「共同財」は、共有されても枯渇することはない。なんらかの認識を語っても、その認識が失われるのではないし、芸術や科学の受容は、それらの消費や消尽ではない」(67ページ)

前作『ネオリベ現代生活批判序説』が様々な論点から個別に繰り広げられるネオリベラリズムへの批判文集のような趣を呈していたのに対し、この『不純なる教養』はもっとずっと理念的な、抽象的かつ本質的な敵を対象としている。元々の文章が『現代思想』などの雑誌に収められていたものだということもあいまって、話題は多岐にわたる。

ストライキはたんなる交渉の手段ではない。それはむしろ交渉を絶つことによって、みずからの力を取り戻すことである。あるいはコミュニケーションの切断による生そのものの表現の獲得である。じっさい喜安はこの革命的サンディカリズムの起源を求めるかのように、その後の著作で1848年の二月革命の諸相にさかのぼっていった。二月革命では、普通選挙の実現をかかげる急進共和派の思惑をこえて、パリの民衆の愉悦にみちたストライキや直接行動がくりひろげられたという」(70ページ)

二月革命が勝ち得た圧倒的な力は、先日紹介した『感情教育』に描かれていた通りのものだ。そこで繰り広げられたロジックは「交換」とはかけ離れた民衆の自発的な力だったのであり、労働組合の力を示す革命的サンディカリスムの起源とも呼ぶべきものだった。そしてこの「組合」という概念は、そのまま大学の起源としても通用するものなのである。

「大学は知識を伝授する学校とは異なり、知識の探求のために学生と教員がともにある共同性である」(73ページ)

中世の大学において語られた「哲学は神学のはしため」という言葉は、現代にも当てはめることができる。「神学」とは「実学」を指すものであり、現代的に言い直せば「哲学・文学・歴史学社会学は経済学・法律学・国際なんたら学のはしため」となるのだろう。だが、中世の大学が生み出したのは神学者だけではない。

「中世の大学が産み出したのは、トマス・アクィナスなどの神学者たちだけではない。その二重性の軋轢から、教会のラテン語ではなく、それぞれの俗語でテクストを紡ぐ人文学士やゴリアール(不良学生)たち、ダンテ、エックハルト、ヴィヨン、等々があらわれる」(100ページ)

「『方法序説』で語りなおされているのは、こうした『宇宙論』の構想にいたる探求の路程で堆積したいわば思考のハビトゥスであるが、それはなによりデカルトが「ゴリアール」の系譜につらなることをしめしている。ゴリアールとは中世の大学から脱落した放浪学生である。彼らは放蕩をくりかえしていただけではない。その流浪を衝き動かしていたのは、教会の権力に抗いつつ新しい「生の形式」をもとめる意思である」(147ページ)

不良学生たちが自立的に作り上げた組織こそが「大学(同業組合=universitas)」の雛形であり、大学とは原義的にもただ知識を伝授されるだけの「学校」とは本質を異にするものであった。そこにあったのは学生の自立性とサンディカリスムであり、現代的に抑圧されているものと同じなのである。大学(university)は普遍的(universal)なものでなければならず、学費の発生によって学問が拒まれてはならないのだ。

バタイユは「消尽」という概念によって交換のロジックの途絶する地点をしめす。その「消尽」が開示する無償性の地平から社会をとらえかえすこと。これが彼の「聖社会学」のプログラムだろうし、同じ機制において、ヴァカンス、アンテルミタン、そしてCNRSも創出される。くりかえすが、とりもどされようとしていたのは、言語と情動の能産的な無償性である」(93ページ)

資金の研究への集中は、実質的には大多数の学生をないがしろにする。学生たちは大学のサンディカリズムを構成するのではない。学費を払いつづけるだけの存在であり、その「主観性」の営みは、消費者としての貧しいナルシシズムによって制御されるのである」(105ページ)

例えば大学が無償化されれば学生は「顧客」としての価値を失い、そこはもはや就職するための「学士」の「資格」を切り売りする場所としては機能しなくなるだろう。社会のシステムそのものが変革を迫られ、大学は市場論理とはかけ離れた地平に立つことになる。サイード的な意味合いでの「知識人」が活動する場所は、そこに再発見されるのである。

「非物質的なものを交換財とみなす認知資本主義は、まさにそのことによって理論的な欺瞞をかかえる。そもそも交換が成立するためには、まず何かを失わなければならない。その代価として別の何かをえる。こうした交換のプロセスは物質的なものについては妥当するだろう。だが、われわれが語り愛し合うときに、いったい何が失われているというのか? いわばタルド的な模倣と伝播が生じているだけであり、この意味で非物質的なものは、厳密には市場の交換のロジックとはなじまない。だからこそ認知資本主義は、新自由主義の教説と連動したコミュニケーションのプロパガンダなしにはありえないだろう」(176ページ)

大学の無償化は無償性そのものに対する議論となり、さらにそこから生そのものの無償性が問われる。つまり、ベーシックインカムである。

「万人にたいして生活に必要な所得を条件なく保証するという、真剣な検討に値するベーシックインカムの構想――誰がそれ自体に反対しうるのだろうか?――が、かならずしも人口に膾炙されてこなかったとすれば、おそらくわれわれの感性そのものが二十世紀の経験にとらわれているからだろう。すなわち、福祉国家新自由主義という、前世紀の二つの資本の論理のなかでは、ベーシックインカムは非現実的なリバタリアンの夢想とみなされる傾向があった」(168~169ページ)

ここで疑われているのは、このベーシックインカムを受け付けることのできない思考様式そのものである。だが、白石氏の愛するこの思想はいかにして達成されるべきものなのか、具体的な方策は語られないままだ。前作においても登場したこの大変魅力的な思想は、その魅力を失ってはいないのと同時に疑いも保持したままである。

剰余資本の積極的な使用を謳うのは資本主義であり、消費主義である。大学の無償化が目指すべき知の復権はその論理からの脱却をもくろむものである以上、積極的に実施されて然るべきものだ。だが、ベーシックインカムはどうだろうか。例えば大学の無償化ベーシックインカムも、新自由主義な土台を前提にしなければ実現されえないものだとしたら、ベーシックインカムを導入することで何が復権されるのだろうか。我々の生そのものの価値が問い直される契機となることは間違いないのだが、だがその先は? 剰余資本を手にした人びとが知へと向かうのだろうか。確かにルネサンスを参照すれば、芸術に必要なものは人びとの根本的な豊かさである。だが、それが新自由主義な土台によってしか実現されえないものだとしたら? 新自由主義もなく消費が奨励されることもなく、ベーシックインカムを導入することはいかにして可能なのか。その文脈が明示されない限り、われわれが「二十世紀の経験」から脱却することは難しいのではないか。

「見えるものを信じる必要はない。信は不可視の情動から発生するのであり、コミューンとはそうした情動への信を維持し、能産的なものへと転化する揺籃である。資本主義への怒りや悲しみは、コミューンとその組織化、さらには蜂起それ自体において、反資本主義のエナルゲイアの喜びへとみずからを変貌させる」(194ページ)

白石氏の語る言葉は過激で小難しく、魅力的だ。間違いなく、われわれは「おそらく国家や資本なしでは生きていけても、「珈琲と本」なしでは生きていけない」(221ページ)のであり、大学の無償化は為されなければならない緊急の課題でもある。だが、その実現の方途が示されない限り、彼の語る言葉そのものが「非現実的なリバタリアンの夢想」として斥けられてしまうのではないか。民衆を啓蒙することを目的としているのなら、もっと噛み砕いた論理が必要だったのではないだろうか。政府が僕らを無視するというのなら、次に何を為せばいいのか。彼の理論がまったくもって正しいことは既に彼自身が証明している。次の問題はどのように為すべきかであり、この思想をいかに伝えていくかである。2006年にビラを撒いていた時から、日本が一歩も動いていないことを忘れてはならない。

不純なる教養

不純なる教養

 


<読みたくなった本>
ビル・レディングズ『廃墟のなかの大学』

廃墟のなかの大学 (叢書・ウニベルシタス)

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デリダ『条件なき大学』

条件なき大学―附:西山雄二「ジャック・デリダと教育」

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萱野稔人『カネと暴力の系譜学』

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

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ハーヴェイ『新自由主義

新自由主義―その歴史的展開と現在

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ハーヴェイ『ネオリベラリズムとは何か』

ネオリベラリズムとは何か

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フランシス・ベーコン『ニュー・アトランティス

ニュー・アトランティス (岩波文庫)

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中野憲志『大学を解体せよ』

大学を解体せよ―人間の未来を奪われないために

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ヴィノック『知識人の時代』

知識人の時代―バレス/ジッド/サルトル

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スティグレール『象徴の貧困』

象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代

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ラッツァラート『出来事のポリティクス』

出来事のポリティクス―知ー政治と新たな協働

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ガブリエル・タルド『模倣の法則』

模倣の法則

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喜安朗『革命的サンディカリズム

喜安朗『パリの聖月曜日』

パリの聖月曜日―19世紀都市騒乱の舞台裏 (岩波現代文庫)

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クリストフ・シャルル他『大学の歴史』

大学の歴史 (文庫クセジュ)

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バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

クリストフ・シャルル『「知識人」の誕生1880-1900』

「知識人」の誕生 1880‐1900

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スティグレール『現勢化』

現勢化―哲学という使命

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ロジェ・グルニエ「秘密」『別離のとき』

別離のとき

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アレクサンドル・コイレ『コスモスの崩壊』

コスモスの崩壊―閉ざされた世界から無限の宇宙へ

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アラン・ド・リベラ『中世知識人の肖像』

中世知識人の肖像

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山森亮ベーシック・インカム入門』

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

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ドゥルーズ『記号と事件』

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

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デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために』

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座)

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ジョルジュ・ルフェーヴル『革命的群衆』

革命的群衆 (岩波文庫)

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