Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

聖母の贈り物

一冊の本をこれほど長い期間読み続けたことは久しくなかったように思える。これほど多くの場所へ連れ回したことも。この本を最初に開いた場所は新宿で、それから栃木の祖母の家で何篇か読み、最後の一篇を読み終えたのはパリだった。今月の頭にフランスに来てからというもの、自分の語学力の乏しさに日夜驚かされるばかりで、日本語の本を読む時間が全く作れなかったのだ。日本を発つ前に読み終えるつもりだったのが、結局丸々一ヶ月も連れ回してしまった。

聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)

聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)

 

ウィリアム・トレヴァー(栩木伸明訳)『聖母の贈り物』国書刊行会、2007年。


短篇の名手として知られるアイルランド作家トレヴァーの、日本で最初の短篇選集である。名手という前評判に違わず、驚かされない短篇など一つもなかった。例のごとく星の数で三段階評価をつけてみたものの、結果を見るとその必要があったかどうか判らない。例えばマルセル・エイメのようにストーリーの奇抜さで引っ張っていくタイプの短篇とはまるで異なり、ストーリーの起伏はほとんどなくても至るところに光る一文がちりばめられているのだ。


以下、タイトルを列挙。
★★☆「トリッジ」
★★☆「こわれた家庭」
★★★「イエスタデイの恋人たち」
★★☆「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」
★★☆「アイルランド便り」
★★★「エルサレムに死す」
★★☆「マティルダイングランド」三部作
★★★「丘を耕す独り身の男たち」
★★★「聖母の贈り物」
★★☆「雨上がり」

比喩にいちいち気が利いていて、読んでいて飽きるようなことは決してない。例えば「芸術作品みたいな冷酷さ」(「トリッジ」より、31ページ)だの、「ガラスとコンクリートがぶざまに手足をのばしたような醜悪な建物」(「こわれた家庭」より、44ページ)だの。以下の一文を読んだときには空を仰いでしまった。

「嘆きの万華鏡の内部で真っ赤な血が爆発したかのように、彼女の意識の内側をまぶしくて激しいさまざまな色が駆けめぐった」(「雨上がり」より、392ページ)

特に気に入ったのは、まず「イエスタデイの恋人たち」。発作的に起こる事件としての恋愛と、マンネリ化しているがゆえに一見永続的に見える家族的な恋愛に挟まれて、一人の男が苦悩している。結局のところ、女に勝てる男などいやしないのではないか。トレヴァーが登場人物を描くときに保つ中立的な立ち位置からは、男が滑稽にしか見えない。しかもその男に共感させられてしまうのだから、為す術がない。

「グリーンズ薬局でときどき買い物をするうちにノーマンは、この女は誘いに乗りやすいタイプだという結論に達していた。彼はさらに想像をたくましくして、近所の太鼓手亭で一緒に一杯やるチャンスさえつかめば、店を出た後、道端で抱き合う展開へもつれこませるのだって難しくないだろうと夢想していた」(「イエスタデイの恋人たち」より、70ページ)

中立的な立ち位置、というのはトレヴァーを語る上で重要な要素である。トレヴァーの書く三人称は単なる文法的な形式ではなく、主観を交えないという意味での三人称でもあるのだ。小説家が人物を創作しているのだからそんなことはあり得るはずもないのだが、作家がある特定の登場人物と著者自身を重ねているという確信はどこにも見出せないのである。必要以上に主観的に物事が語られることはなく、例えば語り手のことでさえ、隅から隅までは教えてもらえないのである。そこは読者が想像を働かせるべき領域なのだ。

「僕は学生の頃は純真でしたからね。でも、純真や無垢なんてものはいつしか消え失せてしまうものです」(「トリッジ」より、31ページ)

その理解の食い違いを描くのがトレヴァーである。「トリッジ」も「こわれた家庭」も「エルサレムに死す」も、そしてとりわけ「マティルダイングランド」三部作も、理解の食い違い、すれ違いが悲劇を生んでいる。わかりにくい例を挙げれば、ミラン・クンデラの短篇「だれも笑おうとしない」のようだ。主人公の意図が理解されずに、気がつけば周りから味方がいなくなっている。あるいは、思いつきで始めたことが徹底的に間違っていて、それに気がついたときには関係が修復不可能になっている。

「だが、わたしは何も言わずに黙っていた。そして、あの男にからむお祈りをしたことを告白するかわりに、また木曜日だわ、とだけ言った」(「マティルダイングランド」より、270ページ)

「わたしは低い声で、あなたは間違えたのよ、と言い返した。そして、あなたを憎んでいるわけではないわ、と反論したが、そのことばが自分の口から出たとき、早くも自分は真実を語っていないと自覚した」(「マティルダイングランド」より、320ページ)

この「マティルダイングランド」は三部作で、書籍全体の四分の一を占める大部のものだ。訳者が「あとがき」に書いている通り、三篇読み終える頃には長編小説を読み終えた感覚に陥っている。背景として扱われているのは極めてアイルランド的な、カトリックプロテスタントの歴史的な繁栄と零落である。その意味で、ジョイスの『若い藝術家の肖像』の第一章、どの宗派の政党に投票するかで家族の内部に一悶着起こるエピソードを思い出した。このあたりの歴史を詳しく知っていれば、もっと違った読み方もできるのだろう。「アイルランド便り」も同様である。

「ミスター・オウグルヴィーという人物がいつもお茶の時間にやってくる。そしてしばしばエミリーと連れだって、修道院の廃墟まで散策に出る。エミリーは修道院の絵を何枚か描いたが、そこに描かれていたのは廃墟ではなく、栄えていた往時の姿であった」(「アイルランド便り」より、176ページ)

「過去はもう滅び去ったのかも知れませんね。さもなければ、今滅びつつあるのは未来ということになってしまいますから」(「アイルランド便り」より、181ページ)

これは主体がころころ変わりながら展開される技巧的な物語で、地の文とある登場人物の日記が交錯して、人びとの関心の在処がまるでばらばらな様子を見事に描いている。しかも、その日記は隅から隅まで盗み読みされていて、それを読んだ人物が議論までふっかけてくる。そんなことが起きたとき、果たしてどんな反応ができるだろうか。

「父さんが描く家族の未来像の中に、僕の居場所はなかった。学校の成績は悪かったし、修理工場でできる役回りもなかった。兄さんや姉さんたちと一緒に食堂兼居間のテーブルに向かって代数やアイルランド語の文法の勉強をしてみたり、「西風に寄せる歌」の暗唱をやってみたり、字が上手になるようにペン習字手本をなぞってみたりもしたのだが、どれもまるでだめだった。「のろまです」というのがカヘイ修道士先生の評価だった。「あの子は死にかけたカタツムリみたいにのろまです」」(「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」より、109~110ページ)

「僕は、自分がこの家族からのけ者になっているのを祝いたいと思った。この家と修理工場から、オコンネルの銅像と何軒かの店と二十九軒のパブがあるこの町から、自分はのけ者になっている。僕はそれがうれしかった。僕は自分の想像力がつくりあげた世界で満ち足りている」(「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」より、125ページ)

最近読み終えたばかりだからか、「丘を耕す独り身の男たち」と「聖母の贈り物」の二篇は特に印象が強く残っている。どちらもひどく地味な生活を送っている男が主人公なのだが、彼らの質素な生活がどれほど英雄的な振る舞いの上に成り立っているものなのかを描いた物語である。取るに足らない人間などおらず、何も語らない人々にも語られるべき物語があるのだ。街行く人々を見る目ががらりと変わる。

「世間には恨みをすぐ内向させる人間もいるが、ポーリーはそういう人物ではなかったから、農場へ戻るからといって世界の終わりだと悲観したわけではない。彼にとっての世界の終わりは、マーの店の奥のカウンターでパッツィー・ファヌカンから、農場なんてあたし無理よ、と聞かされたときだった」(「丘を耕す独り身の男たち」より、340ページ)

表題作である「聖母の贈り物」はパリのカフェでコーヒーを飲みながら読んでいたのだが、読み終えて泣きそうになってしまって困った。旅の終わりは誰かから告げられるものではなく、むごい謎にさいなまれながらも、人はあてどなく歩き続けるのだ。

「聖母が二度目にあらわれて、「孤独を求めなさい」と指図したのは、彼が修道院に暮らし慣れた十七年目のことだった。このお告げは、フォーラを泣かせたあの朝と同じように、罰を与えられているように感じられた」(「聖母の贈り物」より、357ページ)

「彼はしばしば、岩だらけの孤島に飛来した蝶々を夏の天使だと考えたが、もし、冬の天使もいるとするなら、形もなく目にも見えないその天使たちが、今確かにここへ飛んできている」(「聖母の贈り物」より、370ページ)

プルースト以外の日本語の本は持ち込まないつもりだったが、予定外の一冊がトレヴァーだったことを嬉しく思う。ひょんなことで、一冊の本は宝物になるのだ。何度も読み返したい。

聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)

聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)