Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

Apparition et autres contes de l'étrange

 『Une Vie(邦題:女の一生)』を大学の授業で扱ってから無性に読みたくなったモーパッサンの短篇集。2ユーロで買えるガリマール社のお得なシリーズの一冊。

Apparition Et Autr Cont (Folio 2 Euros)

Apparition Et Autr Cont (Folio 2 Euros)

 

Guy de Maupassant, Apparition et autres contes de l'étrange, Édition Gallimard, Folio n°4784, 2008.


 たったの2ユーロということもあって、100ページと少しの非常に薄い本である。副題の「contes de l'étrange」は直訳すれば「奇妙な短篇」とでもなるもので、耳当たりの良い日本語にすれば「怪奇短篇集」となる。「怪奇小説」という言葉からまず連想されるのはエドガー・アラン・ポーだが、フランス語ではポーの怪奇色は一般に「extraordinaire(常軌を逸した)」と形容されており、日本語で言うときの「幻想」が「fantastique(空想上の、驚異的な)」も「féerique(妖精の、夢幻的な)」も「surréaliste(超現実主義的な)」もないまぜにしていると巌谷國士が指摘していたように、安易な命名をすることはあまり褒められた話ではない(『シュルレアリスムとは何か』)。とはいえかつて福武文庫に『モーパッサン怪奇短篇集』なる一冊があった気がするし、実際に読んでいるときの感覚もポーの「ウィリアム・ウィルソン」や「邪鬼」に近いものがあったので、ここではむしろ安易に「怪奇小説」と呼ぶことにする。

以下、収録作品。括弧内は初出の短篇集タイトル。
★☆☆「Le loup」(Clair de lune)
★☆☆「La légende du Mont-Saint-Michel」(Clair de lune)
★★☆「Magnétisme」(Le Père Milon)
★★☆「Apparition」(Clair de lune)
★★★「Lui ?」(Les Soeurs Rondoli)
★★☆「La morte」(La Main gauche)
★★☆「La nuit」(Clair de lune)
★★★「L'Endormeuse」(La Main gauche)

 ほとんど白に近い灰色の毛並みをした巨大な狼が出てくる「Le loup(狼)」を読んでいたら、無性に『もののけ姫』が観たくなった。「La légende du Mont-Saint-Michel(モン=サン=ミシェルの伝説)」はほとんど何もしていない悪魔が懲らしめられるという勧善懲悪ストーリー。この二作は「おとぎばなし」の要素が強く「étrange」というよりも「féerique」の印象を受けた。事情が変わってくるのは三作目の「Magnétisme」から。

「De même que d'autres commencent par croire, je commence par douter.」(Magnétisme, p.36)
「ちょうど人びとが信じることからはじめるのと同様に、私は疑うことからはじめるのです」

 懐疑主義者の身に起きた「Magnétisme(催眠術)」の記憶が彼自身の口から語られ、彼は超自然的な出来事の存在を否定しきれなくなってしまう。短篇のテーマで終わらせてしまうよりは、むしろ懐疑主義者の思想がねじ曲げられていく過程をもう少し続けて書いて欲しいと思った。というのも、彼の話が終わるとすぐに短篇それ自体も終わってしまい、説明をつけられない彼の姿を眺めたまま、読者はそこから離れなければならなくなってしまうのだ。とはいえそのような心理的な懊悩を中篇あるいは長篇小説のテーマにするというのは、二十世紀以降の発想なのかもしれない。だがここから、超自然的なものを交えたひどく個人的な葛藤をテーマにするものが目立つようになってくる。

 表題作の「Apparition(幽霊)」は妻を亡くして失意のあまり家を飛び出した友人の願いで、彼が旧宅に残してきたものを語り手が取りに行き、そこで女の幽霊に出会うという話。「髪をとかして欲しい」という女の願いを聞き入れた語り手は幽霊の気が済むまで彼女の髪の毛をとかしてやるのだが、その後幽霊が姿を消し、逃げるように自宅に戻った彼は自分の洋服のボタンに長い髪の毛がまとわりついていることに気がつく。この短篇を読み終えた後で再び表紙を眺めると、戦慄する。

「Mon cher ami, tu n'y comprends rien ? Et je le conçois. Tu me crois devenu fou ? Je le suis peut-être un peu, mais non pas pour les raisons que tu supposes.」(Lui ? p.61)
「親愛なる友よ、わからないかい? こんなことを思いついたんだ。気が狂ったとでも? たぶん、少しは。でも君が推測しているような理由からではないよ」

 続く「Lui ?(彼?)」は恐ろしい作品で、文章自体は友人に宛てた書簡の形式をとっている。語り手は自分が結婚することを決意したと友人に伝えているのだが、それは夜中に一人でいられなくなってしまったことに起因している。幽霊も何も信じることの一切なかった彼は、ある晩家に帰ったときに、見知らぬ男が自分の部屋にいるのを見つける。そしてそれが誰であるかを確認しようとした矢先に、その男は消え去ってしまうのだ。その晩よりも後に「彼」が姿を現すことは二度とないのだが、語り手の夜の平穏はすでに取り戻せないものとなっている。

「Oui, mais j'ai beau me raisonner, me roidir, je ne peux plus rester seul chez moi, parce qu'il y est. Je ne le verrai plus, je le sais, il ne se montrera plus, c'est fini cela. Mais il y est tout de même, dans ma pensée. Il demeure invisible, cela n'empêche qu'il y soit. Il est derrière les portes, dans l'armoire fermée, sous le lit, dans tous les coins obscurs, dans toutes les ombres. Si je tourne la porte, si j'ouvre l'armoire, si je baisse ma lumière sous le lit, si j'éclaire les coins, les ombres, il n'y est plus ; mais alors je le sens derrière moi. Je me retourne, certain cependant que je ne le verrai pas, que je ne le verrai plus. Il n'en est pas moins derrière moi, encore.」(Lui? p.72)
「ああ、自分に言い聞かせようともしたし、立ち向かおうとも思ったけれども、もう家に一人ではいられないんだ。なぜって、そこには彼がいるから。もう目にすることはないと、そんなことはわかってる。彼はもう姿を見せないだろうし、もう終わったことなんだ。でも、とにかく彼はそこに、僕の頭の中に存在している。目に見えないからといって、それが彼の存在を妨げるわけじゃないんだ。扉の後ろに、閉じた戸棚のなかに、ベッドの下に、部屋の薄暗い片隅に、すべての影の中に彼はいる。もし僕が扉をあければ、戸棚を開けば、ベッドの下に光をかざせば、片隅を照らせば、影を照らせば、そこにはもう彼はいない。だけど、背後に感じるんだ。振りかえってみても、そこに彼はいないだろうし、彼の姿を認めることは二度とないだろう。それでもやっぱり後ろに感じるんだ。またしても」

 この作品が書かれたのは1883年のことだが、その四年後の1887年、狂人小説『Le Horla(オルラ)』を書いている最中にモーパッサンが発狂したのも、まったく無関係のこととは思えない。一度とりついた狂気から逃げ出せなくなってしまったのは、この短篇の語り手だけではないのだ。E・T・A・ホフマンやシャミッソー、ドストエフスキーらの狂気を描いた心理学者オットー・ランクによる『分身』を思い出した。ミイラ取りがミイラになったのか、それとももともとミイラであったゆえにそれらを書かざるを得なかったのか、人が錯乱していく過程を描く作家の多くは自らの正気も保てていない。

「Maintenant le mort aussi lisait les choses écrites sur son tombeau. Puis il ramassa une pierre dans le chemin, une petite pierre aiguë, et se mit à les gratter avec soin, ces choses. Il les effaça tout à fait, lentement, regardant de ses yeux vides la place où tout à l'heure elles étaient gravées ; et du bout de l'os qui avait été son index, il écrivit en lettres lumineuses comme ces lignes qu'on trace aux murs avec le bout d'une allumette.」(La morte, p.83)
「今や死人も墓標に書かれた文字を読んでいた。やがて道に落ちている石、小さくとがった石を拾うと、彼は入念にその言葉を削りはじめた。時間をかけてそれらをすっかり消してしまうと、つい先ほどまでそれらが彫られていた場所を穴の開いた両目で見つめ、人差し指だった骨の先端で、人びとが壁にリンを含んだマッチで線を引くように、光り輝く字を書いた」

 衝撃を受けた直後には、死者たちが夜な夜な自身の墓碑銘を修正していく模様を描いた、ちょっとばかりコミカルにさえ思える「La morte(死んだ女)」がやってくる。死者たちは自身らの栄光が刻まれた墓碑銘をありのままの、実際のかたちに書き直し、「愛し、愛され、死んだ」と書かれていた語り手の恋人の墓は「恋人に不貞を働くために外出し、雨に濡れた寒さにやられて死んだ」と修正されていた。続く「La nuit(夜)」は夜の散歩を愛する男がパリの街を徘徊し、暗闇に包まれて自分の居場所がわからなくなる恐怖を描いた作品。語り手はシャン=ゼリゼからバスティーユを経由してモンマルトルまで行くという恐ろしい距離を歩いている。マルセル・エイメの短篇「パリ横断」を思い出した。

「Le suicide ! mais c'est la force de ceux qui n'en ont plus, c'est l'espoir de ceux qui ne croient plus, c'est le sublime courage des vaincus! Oui, il y a au moins une porte à cette vie, nous pouvons toujours l'ouvrir et passer de l'autre côté. La nature a eu un mouvement de pitié ; elle ne nous a pas emprisonnés. Merci pour les désespérés !」(L'Endormeuse, p.104)
「自殺! だがそれはもはや力を持たなくなった人たちの力、希望を信じなくなった人たちの希望、敗北者たちの崇高な勇気なのだ! 確かに、少なくともこの人生には一つの扉があり、わたしたちはいつでもそれを開け、その向こう側へ渡ることができる。自然は憐憫の情を持っており、我々を閉じ込めることはしなかったのだ。絶望した者たちよ、礼を言うよ!」

 最後の「L'Endormeuse」は「眠らせるもの」という意味で、増えすぎた自殺のために組織されたある機関、自発的な死を奨励する機関の話である。死にたくなったものはそこへ赴くだけで、素晴らしい香りの殺人ガス「L'Endormeuse」を嗅ぐことができる。真っ先に思い出したのはR・L・スティーヴンスンの『新アラビア夜話』またの名を「自殺クラブ」で、自ら死を望む者たちが集まる場所に、それを望んでいないものが紛れ込むことのスリルはこの作品が既に十全に証明している。ただその組織自体が社会のなかに組み込まれているというところは、たとえばオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『1984年』といった、いわゆるユートピアがらみの文学を思い出させた。

 モーパッサンの書く短篇はチェーホフのそれほど濃密なものではなく、正直当たり外れの多い印象を受けたけれども、「怪奇」というテーマで括ったときに「Lui ?」のようなとんでもない作品が紛れ込んでくるのは非常に面白いと思った。読み終えた今は、福武文庫の『モーパッサン怪奇短篇集』のラインナップが気になって仕方がない。また、このガリマールのシリーズにはこれとは別に、モーパッサンによるユーモア短篇集『Le Verrou et autre contes grivois』もあるようなので、機会があれば手を伸ばしてみたい。狂人小説『Le Horla』も、おそらく近々手に取ることになる。

Apparition Et Autr Cont (Folio 2 Euros)

Apparition Et Autr Cont (Folio 2 Euros)

 


<読みたくなった本>
Guy de Maupassant, Le Horla

La Horla

Le Horla

 

Guy de Maupassant, Le Verrou et autre contes grivois

Verrou Et Autr Contes Gri (Folio 2 Euros)

Verrou Et Autr Contes Gri (Folio 2 Euros)

 

マルセル・エイメ『マルセル・エメ傑作短編集』

マルセル・エメ傑作短編集 (中公文庫)

マルセル・エメ傑作短編集 (中公文庫)

 

E・T・A・ホフマン『ホフマン短篇集』

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

 

ポー『黒猫/モルグ街の殺人』

黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)

黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)

 

R・L・スティーヴンスン『新アラビア夜話』

新アラビア夜話 (光文社古典新訳文庫)

新アラビア夜話 (光文社古典新訳文庫)