Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ユルスナールの靴

 ろくに連絡も寄越さない息子の様子をうかがうのと、年末のバカンス気分を少しでも堪能しようというつもりで、パリまで駆けつけてくれた母が、帰りの飛行機のなかで読もうと思ってるの、といいながら差しだしてみせた一冊。もう読んだ? と聞かれ、読んでない、と即座にこたえた私は、母の抵抗をふりきって、この本を奪いとったのだった。

ユルスナールの靴 (河出文庫)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

 

須賀敦子ユルスナールの靴』河出文庫、1998年。


 日本語に飢えていたのだ、と思う。これほど長いあいだ日本語で書かれた文章を読まないということは、日本にいた当時の私の読書量を思うと信じられないことだし、唯一スーツケースにまぎれこませた日本語で書かれた小説がプルーストの翻訳のみだったというのは、どう考えても良い選択だったとは思えない。

「きっちりと足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」(9ページ)

 本をすらすらと読みたいな、と思ったときに、プルーストしか手もとにないというのは、既にわかりはじめてきているこの作家の味わい方を念頭においたうえでも、あまり良い環境とは言えない。そんななか突如として舞い込んできた日本語の本、それがこの須賀敦子の著作だった。

「彼女たちがそっと片手で長い修道服のすそを持ちあげると、漆黒の靴下をつけた細い足首をきっちり包んだ靴が、スカートの下で黒曜石の光を放っていて、私はいきなり西洋を見てしまった気持になった。あの靴が一生はけるなら、結婚なんてしないで、シスターになってもいい。そう思うほど、私は彼女たちの靴にあこがれ、こころを惹かれた」(14ページ)

「ヨーロッパの人たちの「正常な足」への執念はひとかたならず、ミラノの中心街には子供靴だけを売る靴店があったし、あるとき友人に、いい靴屋を知らないかとたずねると、彼女はちょっとはずかしそうに、困った顔をしてこう答えたのだ。靴屋ってねえ。わたしは小さいときからいつもおなじところで誂えるものだから。彼女の家族は、ミラノの近郊に代々のひろい領地をもつ、裕福な貴族だった。シムノンのミステリーでも、列車から転落した若い女の死体の、手入れのゆきとどいた、すんなりときれいな足から、メグレ刑事が、これは特別註文の靴しかはいたことのない足だ、きっといい家の娘にちがいない、と判断する話を読んだことがある」(25ページ)

 それまで須賀敦子という名前が私に喚起するのは、自分がまだ読んだことのないいくつかのイタリア文学の翻訳者、ということだけだったのだが、小説ともエッセイとも、それともタイトルにもその名があがっているマルグリット・ユルスナールという作家の伝記なのかもつかない、この不思議な本を手にして、彼女がイタリアに渡るまえにはフランスに滞在していたこと、自分が卒業した大学でかつて教鞭を執っていた人物であったことなどを、はじめて知った。

「近世になって国家の概念が大陸とそこに暮らす人々の心をずたずたにひきさいてしまうまでのヨーロッパは、ことばや、川の流れや森の広がりなどによって、今日よりはもっと(政治的でないという意味で)、自然な分かれ方をした土地だった。どこの国の人間というよりは、どの地方のことばを話すかのほうが、たいせつだったにちがいない」(39ページ)

「灰色の雲にとざされた風景の中を、雨が横なぐりに吹きつけて、波がしらの白さが、牙をむいて飛びかかってくる獰猛な野獣に見えた。わざわざじぶんが海を見たくてここまで来たというのに、いまは一刻もはやくこの海岸を離れたかった。海浜にならぶ、どれも七、八階はある威圧的な建物は、泥炭のような色の外面にもかかわらず名のあるホテルやカジノで、夏、この海辺は、贅沢な海水浴客でにぎわうのだという。だが、どの窓も、何十年もそのままだったかのように、固く閉ざされていた。パリに帰ったところで、すぐにはなにも変らないことぐらい、わかりきっていた」(50ページ)

 この読書体験が比類なく心地よかったのは、エッセイのように書かれた読者に肩肘をはらせることのない軽妙な文体に依るところが、かなり大きい。世界観への没入を要求する小説でもなく、悩ましい意見を逐一噛みくだくことを要求する人文書でもない。そうではなく、気が向いたときにページを開き、斜め読みすることさえ許してくれる安易さ、軽さが、本当にありがたかった。

「四十日の旅が終りを迎えようとしている。その安堵感と、あとに来るものへの不安とが、籠のなかで紡がれるのを待つ麻束のようにこころで縺れあっていた。じぶんはいったい、なにをしにパリに行くのだろう。勉強だけなら、東京でもっと準備できることがあったのではなかったか。人にも訊ねられ、じぶん自身のなかでも飽きるほどくりかえし問いつづけながら、納得できるほどの答えには行きあたらないまま、私は、親の了解をもぎとるようにして、とるものもとりあえず船に乗ったのだった」(86ページ)

「もうパリまで来てしまったのだから、勇気をだして、ふつうの女になるのをあきらめなさい」(109ページ)

 彼女がはじめてヨーロッパへ、つまりフランスへと渡ったのは現在の私と同じ二十四歳のときのことで、そのことになんだか親近感を持ってしまう。とはいえ、戦後まもないころの渡欧という行為が現在のそれと同じであったはずもなく、彼女は四十日間ものあいだ船に揺られることで、ようやくこの地にまでたどりつくことができたのだった。飛行機に揺らされる十一時間という時間を「長すぎる」と嘆く気がまるでなくなってしまうとともに、いまでは採れそうもないそんな経路を、少しだけ羨ましくも思った。

「本来は墓標に刻まれる文句だという表題(『恭しい追憶』Souvenirs pieux)をもつこの本は、ついに完成されることのなかった作者の自伝的三部作の最初の一冊なのだが、彼女はこれを、母フェルナンドの死から書きおこし、ついで母の家系をたどるという独創的な手法を用いている。しかも、構成のあたらしさに比べて、語りはあくまでも古典的に抑えられている。フェルナンドのお産を中心に語られる冒頭の章では、「すべての人が、それぞれの明確な役目をもっていた」遠い時間のなかで、産婦の夫や医師、召使たちが、ひっそりと、あるいは慌ただしく行き来する寝室のありさまが、陰影のある奥行きの深い筆致で描かれていて、読者は、一瞬、レンブラントフェルメールの絵のなかに自分が深くはまりこんでしまったような、ふしぎな錯覚に捉えられるだろう」(33ページ)

「それにしても、亜麻草の畑が「海や空のように青く」染まっていたと形容したとき、ユルスナールは、自分が生涯に出会った中の、どの空を、どの海を心に描いていたのだろうか。父といっしょに、若いころ愛し、めぐり歩いた、イタリアやスペインや南フランスやギリシアの、太陽にきらめく地中海の青だったのか。それとも、幼い日、父やいとこたちと夏をすごした、オスタンドに近い海辺の、どこか暗さの残る北国の空と海の青さだったのか」(45ページ)

 この本のタイトルの美しさには息を呑む。ユルスナールの靴。これではなんのことだかわからない。マルグリット・ユルスナールに関する本なのか、それとも彼女が履いていた靴なのか、はたまた靴そのものに関するエッセイなのか。そのすべての可能性があてはまってしまうことに気がついたのは、冒頭の文章を読んで、この著者が本当に靴の話からはじめたことからだった。

1920年から30年にかけてのパリには、「失われた世代」やピカソをはじめフランスの前衛画家たちの「親分的」存在だったガートルード・スタインや、これも富裕なアメリカの女性で、美しいレズビアン詩人としても名を馳せていたナタリー・バーニーがいた。また、22年に、ジョイスの『ユリシーズ』を出版したシェイクスピア・アンド・カンパニーをシルヴィア・ビーチがとりしきっていた。だが、ユルスナールの伝記の当時の部分には、どこにも彼らの名は出ていない。たぶん、外国人のあつまるカフェとはまったくちがったたまり場が、彼女たちにはあったのだろう。それに、スタインが、1874年生まれ、ナタリー・バーニーが76年生まれということを考えても、まだ二十代で無名のユルスナールが、彼女たちに近づく可能性は、ほとんどなかったとも考えられる。そして、もうひとつ、彼女がいわゆる「文体の」モダニズムには背を向けていたことが考えられる。そして、それは、彼女がパリにとって「地方人」であったこととも関係づけられはしないか。彼女は、崇拝者をしたがえて彼女の宮廷に君臨していたように私には思える」(70ページ)

「『火』が出版されたのが1936年、そしてイェール大学に提出する博士論文を執筆中だったグレースがマルグリットに出会ったのは、37年の2月だった。エトワル広場に近いワグラム通りの、マルグリットの定宿だったホテルに泊まりあわせたグレースが、私の部屋の窓から見える小鳥を見にいらっしゃいませんかと階下のカフェで誘ったことから、ふたりの友情は始まり深まっていったと、サヴィニョーは書いている。ふたりは、おない年の三十四歳だった」(114ページ)」

 ここでしつこいくらいにくりかえしている1920年代のパリの文学風景の豊潤さ、そこにはユルスナールも加わっていた。だがヘミングウェイ『移動祝祭日』に書かれている面々やシュルレアリストたち、そこから派生していくレーモン・クノーやミシェル・レリス、ジョルジュ・バタイユといった面々が、モンマルトルやリヴ・ゴーシュ、つまりオデオンやサン=ジェルマン・デ・プレを中心に活動していたのに対し、彼女はなんとワグラム通りにいたそうだ。ここで過剰に反応してしまうのは、二ヶ月間にすぎないこととはいえ私が住んでいたのが、まさしくこのメトロ三番線の駅、その名もワグラムだったからだ。彼女が定宿としていたそのホテルが現存しているのかどうかまではわからないが、二番線のテルヌからワグラムへと続く、パリのなかでもとびきり生活臭に溢れた、観光客などまるで寄りつかないこの地区のことを思って、思わず空を仰いだ。

「地球のあちこちで多くの人たちが苛酷で理不尽な戦争に巻き込まれようとしていた1930年代の終りに、ユルスナールは、やがて彼女にとって生涯の伴侶となるグレース・フリックの、おそらくはやさしく執拗だった誘いを受け入れて船に乗る。食糧も乏しくなりはじめたパリで生きのびるための具体的な手だてはなかったし、戦争はまもなく終ると新聞は書きたてていたから、ものの半年ぐらいならと高をくくって彼女はアメリカに渡った。出発する彼女を引きとめてくれる人がいなかったのとおなじように、こんどはグレースだけが彼女を待ってくれているアメリカに行くのだった。だが戦争は終らず、それどころか日々拡大するばかりだった。それでもまだ、マルグリットは、やがてはじぶんがその土地に永住するなど、考えてもみないことだった」(127~128ページ)

「40年、ニューヨークに滞在していたユルスナールは、友人で著名なポーランド生まれの人類学者、マリノウスキーのアパートメントでラジオを聞いていてパリ陥落を知った。「ひとつの世界が終わったように思え、ふたりで泣いた」」(128ページ)

 ユルスナールは家を持たずに、いつも世界各地を転々としている。彼女の意志ではないケースも多いとはいえ、それらの越境の経験が小説に活かされていることは疑いようがない。中心から隔絶されて生きる人びとの作品が比肩するもののない特異性を抱いていることは、アゴタ・クリストフミラン・クンデラの名を挙げるだけで十分に説明できるだろう。とはいえそれはもちろん、現代にかぎったことではないのだ。

「自己をたえず言語で表現しようとすることがそのまま生きる証左でもある作家にとって、自国語を話す機会もなく、またこれを聞くことができない空間に生きることが、二重の孤独を意味するのは容易に理解できる。アメリカに移住して、アメリカ好みの『ロリータ』を英語で書いたロシア人のウラディミル・ナボコフポーランドに生まれ、『闇の奥』や『ロード・ジム』で陰影のある孤独な運命を描いたジョゼフ・コンラッド。そして『阿呆のギンペル』『ルブリンの魔法使い』の作者で、ユダヤポーランド人のアイザック・バシェヴィス・シンガー。彼らそれぞれが違ったふうに、このおなじ孤独を味わったことは、その作品に滲み出ている」(132ページ)

 須賀敦子ユルスナールの足跡をたどる。『ハドリアヌス帝の回想』を読んではローマやアテネへと飛び、『黒の過程』を読んでは彼女の出身地であるオランダ・フランドル地方へと思いを馳せる。それらの記述のすばらしさは、まだ読んだことのないそれらの本を読みたいと思わせるのはもちろんのこと、特定の解釈を押しつけるような姿勢などまるで見せないまま、自由に散逸・脱線していく、軽妙な語り口にある。小説の紹介をしていたかと思えば、気がついたら彼女のイタリアの友人たちの思い出を語りはじめていて、そこにどんな関係性があるのかをいぶかった途端にユルスナールが戻ってきて、それらの記述が次第次第に絡まりあっていく。安心して身を委ねられるという点をのぞいて、ジェットコースターのようなもので、その風景の移り変わりには目まいさえ覚える。

「ゆるやかな斜面をおおうオリーヴの林を、私はテセイオンに向って登った。オリーヴにまじって、樫や、ときには月桂樹がひそやかな薫りをあたりにまきちらしていた。幹にとまった茶色い小型の蝉がぎいぎい鳴いていて、私は、幼いころ、赤松の林ですごした長い幸福な時間を思い出した。歩くたびにスニーカーの下で小さくきしむ土も、ふるさとの山とおなじ白さだった。この白っぽい土のうえを、アエスキュロスやソフォクレスアリストファネスが、じぶんたちの芝居のことを人と話しながら、あるいはピンダロスが叙情詩のあたらしい韻律について思案をめぐらしながら歩いたのかと考えるのは、こめかみがつんと痛くなるほどスリリングだった。でも、ソクラテスプラトンも、ラファエッロの「アテネの学園」にある重々しいふぜいではなくて、オリーヴの枝を吹きぬける風みたいにここにあらわれ、風のように教えていたのではなかったか」(164ページ)

「神殿をとりまくようにして、柔らかい葉をつけた灌木が、一定の間隔を保って植えられてあった。なんの木だろう、と立ちどまって目を凝らすと、うすぐらい茂みのなかに、赤みのある堅そうな緑の柘榴が、ゆるい弧をえがいた柄の先にさがっていた。六、七〇センチほどの低い茂みにしては、不釣合いなほど大きな実だった。そのうえ、どの株にも実があるのではなかった。ある茂みは神殿に愛され、あるものは実を結ばないまま朽ちるのかもしれなかった。柘榴になりたい。とつぜん、そんな考えがうかんで、私を驚かせた。こまかい葉をつけた茂みのひとつになって、私も白い神殿の丘に残りたかった」(172~173ページ)

 須賀敦子の文章を読んでいて、すごいな、と思ってしまうのは、読者をはっとさせるようなことを、じつになんでもないように書いてしまうところだ。たとえば友人たちの焦点の定まらない会話、小説のようにはいかない脱線だらけのその言葉を追いながら、あるとき急に、詩的ともいえるような文句が、本人さえその性格を意識しないままに発せられる。それを大仰に見せることもなく、雑音に紛れこませたまま、さらりと掬いあげてしまう。おそるべき包容力を抱えたスプーンを、彼女は持っているのだ。

「真夏のローマによくある、ひんやりと湿気をふくんだ空気が昼間の太陽にほてった肌にこころよい夜だった。木枠に蔦をからませてあずまやのようにしつらえたテラスで、冷えた白ワインのグラスをかたむけながら、彼らは、はてしなくつづく会話を愉しんでいた。話題は、あいもかわらず埒のあかない政権争い、その年の文学賞の予想、映画の話、旅行、そしてトリノやミラノ、ナポリなどにちらばった共通の友人やいとこたちの近況から、それぞれの土地のうわさに脱線し、また政治にもどった。だが、その夜、私はうわの空だった。たったいま、思いがけなく見てしまったテラスの下の暗い風景に気もそぞろだったからだ」(180~181ページ)

「きみに話してなかったかなあ。私たちの熱気にはいっこう乗ってこない低い声のまま、リーノがこたえた。この家が気にいったのは、まさにこの眺めのためだったけれど、いったん慣れてしまうと、わざわざテラスに出て眺めることもないんだな」(184ページ)

 ユルスナールが書いた本はどれもこれも読みたくなってしまうのだが、私が特に関心をそそられたのは『ピラネージの黒い脳髄』と『黒い過程』の二冊だ。

「あの夜、リーノの家のテラスから見たヴィラ・アルバーニが、十八世紀のイタリアが生んだ奇才、ジョヴァン・バッティスタ・ピラネージによるエッチング、≪ローマの景観≫シリーズにあるのを私がぐうぜんみつけたのは、それから何年かあとのことだった。ある日、ユルスナールの作品『ピラネージの黒い脳髄』の日本語版のページを繰っていて、その図版に出会ったとき、フィロメーナたちとすごした涼しいローマの夜の肌ざわりといっしょに、奥ゆきの知れない洞穴のような怪しさを発散するようなあの<廃墟>の印象がよみがえり、記憶が図版のうえを蝙蝠のようにハタハタとさまよった」(186ページ)

「幻視者ピラネージが「ヴィラ・アルバーニ」をふくむ銅版画シリーズ≪ローマの景観≫に、奇怪な「虫けらども」を配したとき、――ヴィラ・アルバーニも、トレヴィの泉も、作者が彼の<同時代の、あたらしい>ローマ風景として描写していることに、最初、私は気づいていなかった――もしかしたら、彼は、だれの目にもその時点で壮麗と映っていた建物やモニュメントを、ひとり<廃墟>の側から見ていたのではなかったか。画面にうごめく「鬼火」のような人物群は、まがうことなく人類の現実を示してもいたし、さらに私たちが犯した罪の記録であるようにもみえた」(190ページ)

 版画家ピラネージの描いた≪景観≫、そしてそれを最初に教えてくれた夫との記憶を引きあいに出しながら、記述はユルスナールのほうへ、そして彼女自身のほうへと向かっていく。ユルスナールの言葉を受けて澁澤龍彦が書いた『胡桃の中の世界』から採った引用文にも心をひかれる。彼がそこで言おうとすることは、やはりサドとの関連性なのだが。

「石だけでもじゅうぶん圧倒されるのに、この並はずれた内部空間は、もっといろいろな不可解さをやどしている。どこからか降りてきて、またそれがなにを意味するかはよくわからないまま、もういちど高みにむかって上昇する階段、ほとんど必然性のない場所につくられた、長さも形もばらばらな石の欄干、これらが描く直線と、ときには複数の滑車から垂れさがった索条や厚ぼったいアーチの曲線が異様な交錯をくりかえす。その執拗さはほとんど目まいをおぼえるほどで、それにさらされることはむしろ、意味ありげに絵のなかに置かれた責め具そのものよりも、よほどおそろしい拷問ではないかと思われるのだった」(196ページ)

「古典主義をさえ遵守することはもうできなくて、混乱し反復をくりかえすこの時代の風潮に読みとれる、絶望に似た悲しみが、確実に彼の時代を映したものであり、同時に、世紀末に疲れた現代のそれに、あまりにも似ていたからだ」(197ページ)

 もう一冊の『黒い過程』のほうは、もっとずっと個人的な関心から読んでみたいと思った。これは十六世紀の錬金術師の生涯を描いた作品で、最近この時代のことが気になって仕方がないのだ。このブームはもともとはヴォルテールに起因していて、ルソーやヴォルテールといった光の世紀の哲学者たちの登場を思想的に準備したデカルト、そのデカルトに多大なる影響をあたえたエラスムスに対する関心が、その根底にある。十六世紀という時代が近代的なあらゆるものを準備した、歴史上もっとも偉大なる転換点であったのではないか、という気がしてならないのだ。

「こんな人たちの苦悩を経て、現代科学は生まれたのだ。ホールの暗闇で私は肩をこわばらせていた。それなのに、私たちは無知に明け暮れ、まるですべてを自分たちが発明したような顔をして、新幹線なんかに乗ったり、やれコンピュータだ宇宙だといばっている。なんというまぬけだろう」(218ページ)

「ブルーノの個性、あるいは信条がどうであったにせよ、見ていて「吐きたくなる」と彼がいったほどのおそろしい火あぶりの刑は、施政者側にとっては<見せしめ>がおもな目的であったのは確実だ。後年、地動説を主張する論文『天体についての対話』を発表して異端審問を受けたとき、六十歳をすぎて健康のすぐれなかったガリレオ・ガリレイの脳裡を、ちょうど三十二年前、自説を曲げるよりは死をえらんだジョルダーノ・ブルーノの凄絶な最期がよぎりはしなかったか。ローマに行って元気な商人たちの売り声がとびかうカンポ・デイ・フィオーリの露店市場を通りかかるたびに、十八世紀のおわりに火刑台あとに建てられたジョルダーノ・ブルーノの銅像を見上げ、私の想像は果てしなくひろがる」(219~220ページ)

 十六世紀に「異端」という言葉とともにくりひろげられたさまざまな思想統制は、ジョージ・オーウェルが描くような世界よりも、さらに陰惨なものに思える。ジョルダーノ・ブルーノという名前が私にとって特別なものであるのは、大学を出るときに書いた卒業論文、その主軸としたある書物の著者が、実名を隠して「G. Bruno」と名乗っていたことにもある。その本は十九世紀末、第三共和政下フランスの、手のこんだ思想統制の波にさらされることを宿命づけられてもいた。

「1510年に生まれたとされるゼノンは、老レオナルドが流謫の地アンボワーズで息をひきとったとき、九歳だったことになる。また、わたしがゼノンと肩をならべさせ、ときには論敵ともしたパラケルススが死んだとき、ゼノンは三十一歳、コペルニクスが没したときは、三十三歳だったはずだ。(……)〔さらに〕ゼノンが死んだのは、ガリレイが生まれた五年後であり、カンパネッラが生まれた翌年である。ゼノンが自死をとげたとき、三十一年後に火刑に処せられるはずのジョルダーノ・ブルーノは、ほぼ二十一歳だったことになる」(ユルスナールの「覚え書」からの引用、230ページ)

 十六世紀のヨーロッパにはエラスムスやトマス・モア、ジョルダーノ・ブルーノはもちろんのこと、コペルニクスガリレオ・ガリレイ、さらにはルターやカルヴァンラブレーパラケルススまでいたのだ。どうしてこの時代の重要性に、いままで気がつかなかったのだろうか、と逆にいぶかってしまう。

「求道がないところに異端がないのは当然かもしれないが、精神の働きのないところにも異端は育ちえないという事実を、私たちはあまりにもなおざりにしてきたのではなかったか。異端は、管理者が生産するものではなくて、精神の労働者が生みだすものだから」(224ページ)

 中心から隔絶された女ユルスナールが書いた、異端の物語。それを紹介する、もう一人の越境者、須賀敦子。サイードやセリーヌをわざわざ引く必要さえ感じられない。異端者たちが連なるこの構図に、胸のときめきを隠せない。

「廊下も階段下のスペースまでが、当然のこととはいえ、ユルスナールのものであったらしい本で埋まっていた。でも、もう、ちょっと指をはさんだり、ページを繰ったりされることのなくなった本たちは、とっくに死んでいるのが、私には痛いほどわかった。本は、それを蒐めた人間のいのちの長さだけ、生きるのだから」(241ページ)

「ことばで生きるものにとって、それによって生かされていることばが、身のまわりに聞こえないところで死ぬのが、なによりも淋しいのではないかと、考えたことがある。彼女がどんなときもそれから離れることをしなかったフランス語でこの世から旅立つために、そして作家として生涯を終えるために、マルグリットは編集者ヤニックを待っていたのかもしれない」(251~252ページ)

 マルグリット・ユルスナールは自身の終焉の地として、北米メイン州の小さな島、マウント・デザート島を選んだ。「荒れはてた山」という、そのおそろしい名前に惹かれるままに、須賀敦子はここでユルスナールの生家をおとずれる。生前に出会うこともなかったこの二人の女性の寂しげな交歓には、涙さえ浮かんできた。

「作風への感嘆が、さらに、彼女の生きた軌跡へと私をさそった。人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたのは、たしかに後者により近いものであったが、才能はもとより、当然とはいえ、人生の選択においても多くの点で異なってはいても、ひとつひとつの作品を読みすすむにつれて、ひとりの女性が、世の流れにさからって生き、そのことを通して文章を熟成させていく過程が、かつてなく私を惹きつけた」(256ページ)

 結局、この本が小説なのかエッセイなのか伝記なのかはわからなかった。でもそんな安易な命名すら拒む、その軽やかさと包容力は、残るページが少なくなるにつれて、それを繰ることをもったいなく感じさせるほどのものだった。母がなにを思ってこの本を鞄に忍びこませていたのかはわからないが、思わぬところで出会ったこの作家が、自分のなかですでに特別なものとなっていることに気がつく。さまざまなことに対する関心を果てしなく広げてくれる、すばらしい本だった。

 最後に、こんな文章を見つけたのでここで挙げておく。この感覚、すごくよくわかる。

「イタリアにわざわざやってきたのに、なにもフランスの作家について時間をついやすことはない、という乱暴な考えに、私はそのころとりつかれていて、ユルスナールと聞いたところで、その名は空中に浮遊するゴミほどにも、私を動かさなかった」(236ページ)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

 


<読みたくなった本:ユルスナールの著作>
Mémoires d'Hadrien『ハドリアヌス帝の回想』

ハドリアヌス帝の回想

ハドリアヌス帝の回想

 

L'Œuvre au noir『黒の過程』

黒の過程

黒の過程

 

『ピラネージの黒い脳髄』

ピラネージの黒い脳髄 (白水社アートコレクション)

ピラネージの黒い脳髄 (白水社アートコレクション)

 


<読みたくなった本:須賀敦子の著作・訳書>
須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

 

須賀敦子『ミラノ 霧の風景』

ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)
 

ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の対話』

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 


<読みたくなった本:言及のあった作品>
ジッド『狭き門』
「『狭き門』を私にといって彼女がもってきてくれたのは、それからまもなくのことだったから、私はもういちど、呆気にとられた。カトリックの人たちは、読んではいけないことになっている本を、あなたは読んだの、というと、うん、と彼女はちょっと口をとがらせて、首をこっくりした。まだ洗礼受けたんじゃないし、それにK先生にたずねたら、ほんとうにいい本なら、古典っていわれる本なら、教会がなんといおうと、読んだほうが勝ちに決まってるって。私はいよいよ、わけがわからなかった」(61ページ)

狭き門 (新潮文庫)

狭き門 (新潮文庫)

 

バニョレージョのボナヴェントゥーラ『神にいたる魂の旅程』
「まず、たましいが神の愛のあたたかさに酔い痴れ、身も心も弾むにまかせて前進する第一段階、そしてふたたび、まばゆい神との結合に至って、忘我の恍惚に身をひたすのが第三段階である。しかし、このふたつのあいだには、神を求めるたましいが手さぐりの状態でしか歩けない第二段階が横たわっていて、歓喜への没入はその漆黒の闇を通り抜けたものだけに許される。ボナヴェントゥーラの説く闇は、私を恐れさせ、また焦がれさせた。将来を決めかね、川藻のように揺れつづけているじぶんのことがこんなに重荷なのは、すでにその闇に置かれているからのようでもあり、そこに至るまでの道で、ただ、道草をくっているだけのようにも思えた」(124ページ)

Itinerarium Mentis in Deum (Journey of the Soul to God) (Works of St. Bonaventure)

Itinerarium Mentis in Deum (Journey of the Soul to God) (Works of St. Bonaventure)

 

フロベールの書簡集
「神々はもはや無く、キリストは未だ出現せず、人間がひとりで立っていた、またとない時間が、キケロからマルクス・アウレリウスまで、存在した」(フロベールの書簡集からの引用、135ページ)

Corr Flaubert (Folio (Gallimard))

Corr Flaubert (Folio (Gallimard))

 


<観たくなった絵>
十七世紀オランダ・フランドル派の「死んだ子供の肖像」
「カタログはさいわい、かなりな空間を「死んだ子供の肖像」の解説に割いていた。説明によると、死児の肖像をこのようなかたちで残すのは、当時、なにほどかの資産のある家庭ではめずらしくない慣わしで、数は多くないけれど、類似の作品がいくつか現存しているという。十七世紀の幼児の死亡率といえば目を覆う数であったにちがいないから、生活の楽でない画家たちにとっては、ありがたい収入源であったかもしれない」(206ページ)

デューラーメランコリア
「デュラー。いかにも北方の画家らしい彼の作品を私が意識するようになったのは大学生のころで、磔刑図のひとつを複製で見たときである。克明に処刑の酷さをつたえるキリストの肢体が、私にはひたすらうとましいだけだった。そのあと、この画家について系統だてて調べることはなく、ふたたび彼の画集をひらいたのは、ユルスナールが「メランコリア」を賞讃するのを読んでのことだった」(211ページ)

レンブラントによる一連の「自画像」
「壁にかかった、小さな肖像画のまえで、私は困惑しきっていた。オスタンドから足をのばしたベルギーのどこかの町の美術館だったのか、それとも、パリで開催されたなにか特別の展覧会だったのか。あるいは、よく日曜にふたりで出かけたルーヴルの朝のことだったか。太陽の恩恵を讃えることしか知らなかった私にむかって、友人はまるで重大な秘密を洩らすみたいに声をひそめていった。レンブラントは天才だって、いわれている。この作品はすばらしいだろう。そういって、彼は、顔の一部にだけ、ふしぎな光があたっているその小さな自画像を指さした。作品そのものよりも、天才という表現に私がどう反応するかを、彼が期待をこめて待っているのを感じたとき、気持が萎えた。どうしてこの人は、天才というようなことよりも、画家がこれほど光を惜しんでえがいたかについて説明してくれないのか。もうつぎの展示室にむかって、音もさせずに歩き出した彼を目で見送りながら、私ははじめてのレンブラントから離れられなかった。
 あんな暗闇みたいな絵。つぎの部屋で追いついた彼にむかって、われしらず口をついて出たことばに私は驚いていた。重たくて、とても私には受けとめられないわ。こんなに暗くては、天使が降りてくる場所がないでしょう。天才かどうかは、私にとってどっちだっていいの。いまは、もっと明るいものを見たいのよ」(74~75ページ)