Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

もう一人のメンデルスゾーン

 友人がフランスに遊びに来るというので、土産として持って来て欲しいとお願いした一冊。探すのが大変な本をお願いしてしまったかもしれない、と思いもしたのだが、彼も書店員なので難なく見つけてくれたようだ。

山下剛『もう一人のメンデルスゾーン ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯』未知谷、2006年。


 もしも誰かが「一番好きな作曲家はだれか」と尋ねてきたら、今の私は迷うことなくフェーリクス・メンデルスゾーン(1809-1847)と答えるだろう。J・S・バッハやベートーヴェンをないがしろにするつもりは毛頭なく、一昔前にはショパンドビュッシーラフマニノフといった作曲家たちに熱を上げていた時期もあったのだが、現在もっとも私の琴線を掻き鳴らしているのは間違いなくメンデルスゾーンだ。

 メンデルスゾーンの魅力は底が知れない。「神童」という言葉を使うときにきまって取り沙汰されるのはモーツァルトだが、メンデルスゾーンもまったく引けをとらないどころか、曲の完成度という点においてはモーツァルトをも凌駕していると思う。シェイクスピアに材を採った序曲『真夏の夜の夢』を書いたとき、彼がまだ十七歳でしかなかったことは印象的だ。また、十二歳から十四歳にかけてのあいだに生みだされた十三の交響曲も、そのおそるべき力の確固たる証明と言えるだろう。

 そういった事情でこの大作曲家の生涯を調べてみたいと思っていたのだが、ここフランスでもなかなかめぼしい書籍が見つからない。日本語書籍でも絶版になってしまっているものがほとんどで、もうドイツ語を覚えるしかないか、と思っていた矢先に、この本の存在を知ったのだ。

 刊行元は「他の出版社がやらないことをやる」という雄々しいとさえ呼べる姿勢を決して崩そうとしない信頼のブランド、未知谷。有名なフェーリクスでさえその伝記を手に入れるのが難しくなりつつあるなかで、なんと未知谷はその姉ファニー(1805-1847)に焦点を当てた伝記を刊行していた。まったくもって、読者を不安に駆り立てるほどの勇猛さである。ぐずぐずと日本に帰る日を待つこともできず、先述の友人に慌てて調達してもらった。

 フェーリクスに自身の分身とも言える姉がいたことは周知のことで、彼の創作活動がこの姉ファニーの支えあってのことだというのは、よく知られていることだ。そしてこの本は男性中心主義がいまだ深く根を下ろしていた19世紀前半のドイツで、類い稀な才能を持った一人の女性が、女として求められる役割とその常軌を逸した芸術感覚の狭間で揺れ動くさまを、おそらく日本で初めて本格的に描いた評伝である。

 メンデルスゾーン一家は裕福な銀行家の、ユダヤ系の家系だった。祖父モーゼスは著名な哲学者で、その息子アーブラハムとレーアの間にファニーとフェーリクス、そして妹のレベッカと弟のパウルが生まれている。「かつて私はある父親の息子だったが、今ではある息子の父親である」(62ページ)というアーブラハムの言葉は、自身の家系に対する誇り、とりわけ息子フェーリクスに対する親としての喜びを見てとることができる。この言葉がとても好きだ。潤沢な資金も手伝ってか、彼らの受けている教育は素晴らしく水準が高いもので、母レーアに関しても以下のようなエピソードが伝えられている。

「彼女は流行の教養ならどれも身につけていました。彼女は表情豊かに優雅にピアノを弾き歌いましたが、それもめったにないことで、友人のためだけにするのでした。彼女はスケッチもみごとな腕前でした。彼女はフランス語、英語、イタリア語を読んで話し、そして――こっそりと――ホメロスを原語で読みました。こっそりとです。他の人なら自分の能力をどんなにひけらかしたことでしょう」(ザーロモン家の友人の手紙のうちレーアを描写した箇所、21~22ページ)

 だが厳格な父アーブラハムはフェーリクスに対してさえも、音楽家として生計を立てることを簡単には許しはしなかった。当時は音楽家がまともな職業とは考えられていなかったのである。類い稀な才能を発揮する二人の子どもたちのうち、男のフェーリクスにとってさえそのような状況だったので、女であるファニーにとって、道はまったく開かれていなかった。象徴的なのはフェーリクスのゲーテ訪問である。1821年、十二歳のフェーリクスはツェルターの紹介を得てゲーテのもとに赴くが、ファニーはベルリンに留まらざるを得なかった。

ゲーテのところへ行ったら、目と耳を全開にするんですよ。そう忠告しておくわ。それからあなたが帰ってきてゲーテが言ったことを一言残らず話してくれなかったら、私たちの間柄もこれっきりだと思いなさい。どうか忘れずにゲーテの家をスケッチするのよ。私も楽しめるから。それが実物そっくりに上手に描けたら、それを私の音楽の記念帳にきれいに写してくれなければだめよ。〔……〕あなたはゲーテがどんな楽器を持っているか書いていないわね。ゲーテの部屋の様子をしっかり目に焼きつけてきなさい。あなたはそれを私に正確に説明するんですよ。〔……〕私はあなたの留守中はずっとおそらくアカデミーには行かないでしょう。だって、私が大丈夫だって言っても、お医者様がまだ家でじっとしていなさいって言うんですもの。上階のお友達たちは、私もこっそりいっしょに旅に出たと思っていることでしょう。ファニー〔ファニー・カスパー。おそらく医者カスパーの妻〕がそれどころか先日ここに来て、様子を窺って私がまちがいなくいることを確かめていったほどです。さようなら(アデュー)、私のハムレットちゃん。私が十六になる時に、私のことを思い出してよ。もう一つ、心の中で私の回復を祈ってワインを一口飲まなくてはだめよ。くれぐれもお願いよ。〔……〕さようなら(アデュー)、あなたは私の右手であり、それに私のかけがえのないものだということ、だからあなたがいないと音楽がどうしても流れようとしないということを忘れないでください。あなたのほんとうに忠実な、ほんとうに咳の止まらないファニーより」(1821年10月29日付け、ゲーテのもとへ向かうフェーリクスへの手紙、48~49ページ)

 ファニーは当時まだ十六歳だったが、その文章からは知性が滲み出ていて、大変好感が持てる。手紙のなかで言及のある体調不良については、フェーリクスが家からいなくなった途端に発したもので、この姉弟の強い絆を感じさせるものだ。以下のような記述もあった。

「現時点まで、私はフェーリクスから全幅の信頼を受けてきた。私はフェーリクスの才能が一歩一歩進歩するのを見てきたし、自らいわばフェーリクスの教育に寄与してきた。フェーリクスには私以外に音楽の助言者はおらず、事実またフェーリクスは自分の考えをあらかじめ私の吟味に供しないで、紙に書きつけることなど決してない。それで私は、一個の音符が書き留められる前に、たとえばフェーリクスのオペラをすべて暗記して知っていたほどだ」(1822年のファニーの日記、54ページ)

 そもそも十三歳の少年が既にオペラを創作していること自体が異常なのだが、フェーリクスが自身の能力を常に高みに引き上げることができたのは、その高次元の芸術を理解してくれる姉がいたからに違いない。音楽における二人の関係は、生涯にわたってつづく。後にファニー自身が言っているとおり、他人の評価というものは芸術家の創作活動における原動力となりうるのだ。

ライプツィヒ通り三番地の家には有名人や名士たちが大勢出入りするようになる。そして四人の子どもたちは勉強や遊びを通して豊かな教養を身につけ、人間性をみがいていった。モーゼスの孫だったメンデルスゾーン・バルトルディ家の子どもたちには、レッシングの著作がよく読まれ、ゲーテの『ファウスト』や『若きヴェルターの悩み』は特別な存在だった。また、子どもたちはシラーの作品にも無関心ではいられなかった。だが、彼らが最も熱狂したのはジャン・パウルシェイクスピアだった。シェイクスピアの作品はA・W・シュレーゲル=ティーク訳で親しみ、メンデルスゾーン家の子どもたちは悲劇や喜劇、とりわけ『真夏の夜の夢』に夢中になった」(61ページ)

 シラーに「無関心ではいられなかった」というのはベートーヴェンと無縁のことではないのかもしれない。ベートーヴェン交響曲第九番「合唱付き」の第四楽章は、シラーの詩に材を採っている。ただ、1824年の第九番の初演が失敗に終わったこと、そしてその楽譜出版が1826年であることなどを考慮すると、考えすぎかもしれない。ゲーテはもちろんのこと、ここで『真夏の夜の夢』が登場していることも見逃せない。

「レーアは生まれたばかりの娘ファニーの指を見て、「まるでバッハのフーガを弾くために生まれてきたようだ」と言っている。そしてファニーは弟のフェーリクス以上にJ・S・バッハに傾倒しており、それはほとんど崇拝と言っていいほどだった。ファニーは1829年まで使っていた作曲ノートに唯一J・S・バッハの肖像画を貼っていた。フェーリクスは、姉を聖トーマス教会の合唱指揮者J・S・バッハになぞらえ、尊敬とからかいを込めて「黒い眉のカントール」と呼んだりしている。そのファニーは、1818年13歳の時、父親アーブラハムへの誕生日プレゼントとして、J・S・バッハの『平均律クラヴィーア曲集第一部 二十四の前奏曲とフーガ』をすべて暗譜で弾きこなし、メンデルスゾーン一家に賛否両論が起こった」(78~79ページ)

 J・S・バッハとメンデルスゾーン家の関係について最初に思い出されるのは、フェーリクスによる1829年の『マタイ受難曲』復活上演である。これは当時早くも忘れられつつあった大バッハの価値を人びとに知らしめた点で「音楽史上の偉業」とさえ呼ばれている出来事で、フェーリクスはこれを周囲の反対を押し切って成功させたのだった。しかし、反対した人びとの気持ちもわからなくもない。手もとにあるオイゲン・ヨッフム指揮・コンセルトヘボウ管弦楽団による録音では、これはCD三枚組、演奏時間が三時間を超える超大作で、まさかこれとまったく同じように演奏したわけではないだろうが、原作に可能な限り忠実であることを目指したフェーリクスによる上演が、三時間を下回ることは決してなかっただろう。しかも聴衆を退屈させるどころか熱狂させたというのだから、フェーリクスの指揮がどれほど優れたものであったのかがうかがえ、それを聴く手段がないことが心底悔やまれる。

 それにしても『平均律クラヴィーア曲集』の第一巻をすべて暗譜で弾くというのは、尋常じゃないというレベルを通り越して気狂いじみている。「二十四の前奏曲とフーガ」というのは、前奏曲とフーガがそれぞれ二十四曲ずつ入っているのだから、合わせれば四十八曲、手もとにある超速弾きで知られるグレン・グールドのCDですら二時間を超える。その二時間のあいだ「プレゼント」を受けとめつづけたアーブラハムの心境を思うと、「賛否両論が起こった」くらいで済んだのが奇跡のように感じられるというものだ。常軌を逸したエピソードには事欠かず、1829年の結婚式においても、ファニーは伝説を残している。

「式も間近に迫った9月28日、当日に演奏されるオルガン曲が二曲ともまだ出来ていなかったので、ファニーは自らプレリュードの作曲にあたった。ファニーは結婚式前日に友人のグレルによる演奏で自作のオルガン曲を初めて聴き、その響きに満足している。八時には家族が集まり、結婚前夜のお祝いをした。その席でヴィルヘルム・ヘンゼルが、教会からの退場の際に演奏されるパレストレッラがないので、これも自ら作曲してはどうかとファニーに提案した。ファニーは夜の九時から作曲に取りかかり、午前零時半にそれを仕上げた」(95ページ)

 だがファニーはこれほどの才気に恵まれていながら、ただ女であるという理由だけで活動を控えざるをえなかった。そのジレンマが明確に表れているのが以下の手紙である。

「〔……〕デュッセルドルフ以降に書いた二曲のピアノ曲をあなたのために同封します。それらを私の知らない若いお友達に差し上げてもいいものかどうか、判断していただきたいのです。私はそれを全部あなたにお任せしますが、次のことだけは言わずに済ますことはできません。つまり、ロンドンに私のささやかなものを聴いてくださる人たちがいたら、どんなにうれしいでしょう。こちらにはそんな人たちがまったくいないのですもの。こちらで何かを書き取ってくれたり、一つだけでも聴きたいと言ってくださる方は、年に一人いるかいないかです。特に、このところ、そしてレベッカがもう歌いたくないと言うようになってから、私の歌曲はまったく演奏されず、人に知られることもなくなってしまいました。そして他人の判断、他人の好意がまったく目の前にないと、そのようなこと〔作曲〕に喜びを感じていても最後にはそれに関する判断を誤ってしまうものです。フェーリクスなら私のために聴衆の代わりを務めることなど簡単なことでしょうけれど、私たちがいっしょにいることはごく少ないので、彼も私をほんの少ししか元気づけることができません。それで私は私の音楽とともにかなり孤独を託っているのです。そのこと〔作曲〕に対する私自身とヘンゼルの喜びも私をしかし心安く寝入らせてはくれません。そして外からの刺激がまったくないのに活動をやめずにいるということを、私は自分自身に対して才能の一つの証だと解釈します。さてこんなつまらない話はこれくらいにしましょう」(1836年7月15日付け、ロンドンにいるクリンゲマンへの手紙、123~124ページ)

 ここに書かれている「外からの刺激がまったくないのに活動をやめずにいるということを、私は自分自身に対して才能の一つの証だと解釈します」という言葉は、彼女がどんなに理知的な女性であったかを教えてくれる。芸術に対する彼女の姿勢は大変厳格で、その態度が衒学趣味や権威主義に左右されることは決してない。愛する夫のヴィルヘルムの意見でさえも、自身の審美眼にそぐわないものであれば徹底的にはねつけている。素晴らしいの一言に尽きる。

「私ははっきりと言っておかなければならないが、ヴィルヘルムの意見は違っている。そして彼はこの絵を私よりははるかに高く評価している。だが私は大家というものをうまく受け入れることができない。たとえヴィルヘルムの言う大家であろうと。私は自分のこの目で見たいのだ」(1840年5月3日付け、ファニーの日記より、149ページ)

カトリックの芸術にもある種の親和性を感じていたため評価が甘くなっているヴィルヘルムとは異なり、ファニーのものの捉え方には容赦がない。他人の意見に左右されず、ものごとを自分の目で見、自分の感覚で理解しようという主体的な姿勢はファニーに一貫している」(149ページ)

 そんなファニーに心酔する者が多くいたことは、まったく不思議なことではない。その代表格として扱われているのが、シャルル・グノー(1818-1893)である。このフランスの作曲家は、ゲーテの『イタリア紀行』を片手に彼の地を旅行中だったファニー夫妻とローマで知り合うのだが、宗教的といって良いほどにファニーに惚れ込んでいる。グノーは彼女からドイツ音楽の薫陶を受け、特に大バッハの虜となっていく。ファニーがグノーに及ぼしたの影響のことを、著者は特に力を込めて繰り返している。

「グノーが後に発表し、有名になった歌曲『アヴェ・マリア』はJ・S・バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の一曲目に旋律を乗せたものだが、これもファニーとの出会いがなければ生まれることのなかった作品であろう。一説には、これはファニー自身が作曲したものだとも言われている。事の真偽は今後の研究に待たなければならない。また、後のフランス音楽における歌曲や宗教曲、さらに『ファウスト』を始めとする劇音楽の隆盛にも、ファニーからの直接間接の影響を指摘できそうに思う。今後は独仏の音楽交流において、ファニーが果たした役割が詳しく検討される必要があるだろう」(154~155ページ)

「グノーはこの後ライプツィヒのフェーリクスを訪れて、四日間を過ごす。音楽史ではこの四日間の出来事ばかりが大きく取り上げられ、ファニーからの影響は不当に過小評価されているようである。しかし、ローマ滞在時にファニーと知り合うことがなく、ゲーテの『ファウスト』の存在も知らされなかったら、グノーがドイツ語を習得することもなかっただろうし、歌劇『ファウスト』が生まれることもなかっただろう」(175~176ページ)

 こんな滑稽なエピソードもあったので、忘れず紹介しておきたい。

「J・S・バッハはファニーの仲間たちにとっても特別なものとなっていた。5月16日から17日にかけて月明かりの中、深夜の散歩を敢行したファニーとその仲間たちは、J・S・バッハの協奏曲を大声で歌いながら、ローマの町をまるで「酔っ払った学生たち」のように練り歩いた。ファニーは翌日になってこの蛮行を後悔する始末だった」(155ページ)

 やがてファニーは友人たちの強い薦めを受けて、自作の出版をはじめる。だが、ここでもやはり芸術活動をする女性に対する世間の冷たい態度が邪魔立てし、特に最愛の弟フェーリクスでさえも、ずいぶんと長いあいだ彼女の出版に賛成できなかったことが明らかにされている。しかし、フェーリクスも最終的には折れ、以下のような手紙を姉に宛てて出している。

「僕の最も親愛なフェンヒェル、今日になってやっと、旅に出る直前に、カラスの兄弟のように恩知らずの弟である僕も、お姉さんの手紙に感謝し、僕たちの仕事仲間になるというお姉さんの決意に同業者として同意する気持ちになりました。ここに、フェンヒェル、お姉さんに祝福を捧げます。そしてお姉さんが、他の人たちにとてもたくさんの喜びと楽しみをもたらすことに、満足と喜びを感じますように。そしてお姉さんが作曲家としての喜びだけを知り、作家の惨めさなど決して知ることがありませんように。それから聴衆がお姉さんに薔薇だけを投げ、砂などを投げつけることがありませんように。それから批評家の言葉がお姉さんに決して厳しすぎたり苛酷すぎて見えることがありませんように。――そもそも僕は、それについてはまったく何の疑いも考えられないと思います。それでは僕はなぜはじめにそれをお姉さんのために望むのでしょう。それはただもう同業組合に基づいてそうしているのです。それに僕もこの手紙でなされているように僕の祝福をつけ加えておきたいと思ったからなのです。テーブル指物職人フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ」(1846年8月12日付け、ファニーに宛てたフェーリクスの手紙、188ページ)

 出版活動が本格的にはじまったことから、著者も紙幅を割いて彼女の多くの歌曲について言及している。音楽によってもたらされる感動を文字にするというのはおそろしく難しいことだ。しかも聴いたことのない楽曲の説明となっては、ほとんど知らない外国語を読んでいるような気持ちにさえなる。なんとかして彼女の作品が収められたCDを探さなければ、と思った。ただ幸いなことに、ファニーの作品は歌曲が中心となっているので、当然ながら詩が伴っている。さまざまなドイツ詩人たちの作品が並べられている様子を見ると、まだまだ読みたい本がたくさんあることに、気持ちが高ぶった。

「歌曲は作曲家にとってきわめて私的で、内面を表出するのに最も適したジャンルの一つである。そのため、詩の選択にはファニーの関心や感情が当然ながら色濃く投影されている。取り上げられた詩は多岐にわたる。1820年代にはヘルティ、フォス、ティーク、クロップシュトク、1830年代以降は同世代のハイネ、アイヒェンドルフ、レーナウが好んで取り上げられている。また、ゲーテは1820年代初期(十代半ば)から一貫してファニーの愛好する詩人であり続けた」(196~197ページ)

 だが、1846年に本格的な楽譜出版をはじめたファニーは、1847年に突如、脳卒中の発作で亡くなってしまった。享年四十一歳。ようやく公の活動が期待されるようになった時に、彼女は死んでしまったのである。あまりにも早すぎる死に、周囲は茫然となった。彼女の机の上には、アイヒェンドルフの詩に基づく歌曲『山の喜び』が残されており、その最後の二行が、そのまま彼女の墓碑銘となった。

「思いと歌は
 天上へと届く」(206ページ)

 フェーリクスは双生児同然だった姉の死に耐えることができなかった。報を受けた途端に卒倒し、ベルリンでの彼女の葬儀にも駆けつけることができなくなった。ファニーが亡くなったのは1847年5月14日のことで、彼はその報を5月17日に受け取り、意識を取り戻してからも憔悴しきった状態は変わることがなく、完全に打ちのめされてしまっていた。

「フェーリクスはスイスの美しい自然をスケッチしたりして心の平静を取り戻そうとした。そして気力を振り絞るようにして九月に『弦楽四重奏曲ヘ短調 作品80』を完成させる。これは姉に捧げたレクイエムともいうべき曲で、特にその第一楽章は鬼気迫る暗いエネルギーを秘め、ファニーの死がフェーリクスにとっていかに大きな衝撃だったかを如実に物語っている」(209~210ページ)

 この『弦楽四重奏曲ヘ短調 作品80』というのはおそろしい作品で、八作品が残されているフェーリクスによる弦楽四重奏曲のなかでも、異彩を放っている。耳を傾ける者すべてを圧倒的な悲愴感のなかに追いやるメロディーは、とてもじゃないが平静に聴いていられる代物ではない。フェーリクスは九月にこれを完成させ、その二ヶ月後の11月4日に、ファニーと同じ脳卒中の発作に襲われ、この世を去った。享年三十八歳。ファニーの死から、わずか半年後のことだった。

 フェーリクスの作品はその後あの忌むべきワグナーによって否定され(『音楽におけるユダヤ性』!)、ナチスによる政権掌握なども関与して長いあいだ正当に扱われることがなくなってしまった。復権がはじまったのはつい最近のことで、2009年にはフェーリクスがカペルマイスターを務めたライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団、その現在の常任指揮者リッカルド・シャイーによる『メンデルスゾーン・ディスカヴァリーズ』(普通は1847年版が使用される交響曲第三番「スコットランド」の1842年ロンドン版など、数多くの初演作品を収録したもの)といったCDも発売されている。こういった流れとともに、ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの楽曲までもが身近なものとなれば、こんなに楽しいことはないだろう。

 最後まで読んで奥付を確認したところ、この本が既に増刷されていることを知った。いったいどんな需要があるのか想像もつかないが、こういう良書が売れているのは嬉しい。私のようにフェーリクスを偏愛している人には是非とも手にとってもらいたい。当時の時代背景や一族にまつわる人びとの肉声、そしてこれまで知る術のなかったファニーの姿など、興味を掻き立てる内容が次々に押し寄せてくる素晴らしい一冊だった。まずはファニーの楽曲を収めたCDを探そうと思う。

追記(2014年11月5日):以下が言及したリッカルド・シャイーのCD。


<読みたくなった本>
ゲーテの詩集
→歌曲というジャンルが作品全体の三分の二を占めるというファニーにとって、最も重要な詩人はゲーテだった。出典の記述はないのだが、こんな詩が紹介されていて、心をくすぐる。
「世界がどんなに魅力的でも、私たちは
 狭いところに向かう、そこだけが私たちを幸せにしてくれる。」(167ページ)

ゲーテ詩集 (新潮文庫)

ゲーテ詩集 (新潮文庫)

 

ゲーテ『イタリア紀行』
→「運命の書物の私の頁に記されていたとおり、私は1839年10月12日午後、ドイツ時間の二時に、ブレンタ川から潟(ラグーナ)に乗り入れながら、初めてヴェネツィアを遠望し、そしてそのすぐ後にこの不思議な島の町、このビーバーの共和国に第一歩を印し、見物することになりました」(1839年10月13日付け、家族に宛てた手紙、140ページ)

イタリア紀行 上 (岩波文庫 赤 405-9)

イタリア紀行 上 (岩波文庫 赤 405-9)

 
イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

 
イタリア紀行 下 (岩波文庫 赤 406-1)

イタリア紀行 下 (岩波文庫 赤 406-1)

 

レッシング『賢者ナータン』
→上述したとおり、モチーフとなっているのはファニーとフェーリクスの祖父にして著名な哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーン

賢人ナータン (岩波文庫 赤 404-2)

賢人ナータン (岩波文庫 赤 404-2)

 

ハンス・クリストフ・ヴォルプス(尾山真弓訳)『<大作曲家>メンデルスゾーン音楽之友社、1999年。
ハーバート・クッファーバーグ(横溝亮一訳)『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』東京創元社、1985年。
→「まえがき」にて紹介されていた「現在日本語で読めるまともな評伝」の二冊(2ページ)。

メンデルスゾーン (大作曲家)

メンデルスゾーン (大作曲家)

 
メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人

メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人