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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

プロタゴラス

 じつに久しぶりな光文社古典新訳文庫。パラパラとページをめくっていたつもりが、あまりの読みやすさに一気に読み終えてしまった。

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)

 

プラトン(中澤務訳)『プロタゴラス あるソフィストとの対話』光文社古典新訳文庫、2010年。


 エラスムス『痴愚神礼讃』をきっかけに、古代ギリシャ・ローマに対する興味が再燃していたところだったので、こんな新訳が発売されていたのは嬉しい驚きだった。プラトンはまだ学生だったころに中公クラシックス版の『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ゴルギアス』を読んだだけだったので、これからもっと読んでいきたいと思っている。上掲の三作品もこの『プロタゴラス』も、プラトンの著作のなかでは初期作品に分類されるものらしいので、「イデア論」なるものが展開されたとされる中期以降の『饗宴』や『国家』も、機を見て手に取ってみたい。いや、さきに『ソクラテスの弁明』を読み返そうか。

 この『プロタゴラス』は、まだ三十台半ばで血気盛んなソクラテスが、プロタゴラスという老ソフィストに議論をふっかける、というものだ。友人に会ったソクラテスが、その直前に繰り広げられたプロタゴラスとの議論の内容を語る、という体裁を採っていて、話はさながら物語のように繰り広げられる。不思議な作品である。ソクラテスの代名詞のようになっている、老人の姿はここにはない。あるのは、ときには謙虚に、ときには生意気であることを自覚しながら、老ソフィストたるプロタゴラスに立ち向かっていく、若者の姿なのである。

 話題の中心となるのは「徳(アレテー)とは人に教えられるものなのか」ということ、そこから遡って、そもそも「徳」とはなにか、という点にまで掘り下げられる。プロタゴラスが自分でも名乗っている肩書き「ソフィスト」とは、人にそれを教えることで生計を立てている者たちなのだ。「徳」については、あらかじめ「訳者まえがき」で簡潔に説明されている。

「徳(アレテー)とは、たんに現代の日本語でイメージされがちな道徳的高尚さ(人徳)を意味するだけではない。それは元来、ものが持つ固有の優れた性質を意味し、たとえば馬なら速く走る能力、ナイフならするどい切れ味というふうに、人間以外のものもそれぞれの徳を持っている。人間の徳も、たんに道徳的な性格だけでなく、勇敢さや優れた知力など、さまざまな能力を含み込むものであった」(「訳者まえがき」より、10ページ。なお「徳」の語が単独で使われている場合には必ず「アレテー」とルビが振られていたが、最初の一回を除いて省略した)

 先回りしてしまうと、『プロタゴラス』はすっきりしない作品だ。どうしてこうもすっきりしないのかは、この、話題の中心となっている概念それ自体が、日本語に単純に置き換えることのできないものだからなのかもしれない。わざわざ訳者が「まえがき」を用意して、これを伝えようとしているのには、大きな意味があるのだ。

ソクラテス、いまのきみは、わがままな子どものようだ。だって、すべての人々が各自の力の及ぶ範囲で徳(アレテー)の先生であるというのに、自分には誰もそんなふうにはみえないと言い張るのだからね。しかしそれは、〔われわれの母語である〕ギリシャ語の先生は誰なのかと探しても、ひとりも見つからないのと同じことなのだ。わたしが思うに、職人の息子たちに専門技術を教えるのは誰なのかと探す場合でも、同じことがいえる。もちろん、そうした技術は自分の父親から学ぶものだね。しかしそれは、父親や父親の友人の同業者たちの力の及ぶ範囲での話だよ。さらにそれ以上のことを、職人の息子たちに教えてくれるのは誰なのかと探しても、ソクラテス、彼らの先生を見つけるのは容易ではないとわたしは思うのだよ。(もちろん、素人が相手なら、先生は容易に見つかるだろうがね。)徳(アレテー)であろうが他の何であろうが、これが実情だ。だから、人を徳(アレテー)へと導くことにおいて、われわれより少しでも優れている人がいるなら、それで満足すべきなのだよ」(80~81ページ)

 「徳」を教えることを生業としているプロタゴラスに対して、ソクラテスは、それは教えられる類のものではない、と言う。そして、「徳」とはそもそもなんなのか、という問題に際して、その骨子として「知恵」「節度」「勇気」「正義」「敬虔」が挙げられる。プロタゴラスは「これら五つのものはすべて徳の部分ではあるが、それぞれに独自のものが対応していて、互いに連関性はない」と主張し、対するソクラテスは「それぞれが互いに密接な関係を持っていて、徳とはつまるところ一つのものである」と思っている。やがて議論が進み、最終的にはソクラテスが「徳とは知識のことである」という結論を、プロタゴラスにも(しぶしぶ)納得させることになるのだが、ここでおかしなことが起こってしまう。つまり、ソクラテスの主張のとおり、「徳=知識」となるならば、「徳」は教えることができるものとなってしまうのだ。ソクラテスは「おかしな答えになってしまったから、議論をもう一度初めからやりなおそう」と持ちかけ、プロタゴラスはそれを拒否する。こうして対話は終わってしまうのである。

 人文書を読んでいると「アポリア」という単語を頻繁に目にする。「行きづまり」を意味するこの言葉は、どうやらプラトン作品の顕著な特徴らしく、本作品もその好例とされているそうだ。日本人が書いた人文書を読んでいて「アポリア」という言葉を目にすると、わざわざわかりにくい横文字を使うな、と思ってしまうのだが、ソクラテスが議論を「アポリア」に持ち込もうとする姿勢は面白い。『ソクラテスの弁明』で語られていた、彼が対話を試みることになったきっかけを読むと、ソクラテスがなんのために議論を行き詰まらせるのか、その一端を伺うことができる。

「あるときソクラテスの友人がデルフォイ神殿を訪れ、「ソクラテスよりも知恵のある者がいるか?」という伺いをたてました。巫女の答えは、「誰もいない」というものでした。自分には知恵がないと思っていたソクラテスは、この神託に困惑します。そこで彼は、自分より知恵のある人を探しました。しかし彼は、賢者と評判の人たちも、善美をめぐる大切な事柄については明確な知恵を持っていないことを発見します。しかも、彼らは、じっさいには知恵がないにもかかわらず、自分には知恵があると思い込んでいたのです。ソクラテスは、神託の真意を悟ります。ソクラテスが持っている知恵とは、知恵がないことの自覚だったのです。ソクラテスは考えました。人間はこの自覚にもとづいて、高慢な思い込みから逃れ、謙虚に本当の知恵を探し求めなければならないのだと」(「解説」より、213ページ)

 つまり、ソクラテスが議論をする目的には、論敵に自身の無知を悟らせるということも含まれているのだ。それはプラトンがこれらの対話を伝えた理由でもある。読者は「行きづまり」とそれに至った過程を突きつけられることで、自分で答えを探す必要に迫られる。過程はそのまま、援用されるべきその方法論として提示されているのだろう。

プラトンにとって、哲学とは、紙の上に書かれた既成の理論や学説のことではなく、問題を批判的に考察して真理を探究していく知的営みそのものでした。ものを考えるということは、自分自身を相手に行なう対話なのであり、自分自身を批判的な吟味にかける営みなのです。哲学の書物は、読者のこうした批判的思考をうながすものでなければなりません。ですから、プラトンの作品では、正解が解説されるのではなく、正解を求めて試行錯誤する思考の過程が描かれることになります。ソクラテスが対話相手と繰り広げる議論を追いながら、読者もその探究に巻き込まれ、みずからの批判的思考を鍛え上げていく――プラトンの対話篇は、そのように読むべきものだと思います」(「解説」より、210ページ)

 現代の日本では、なんでもかんでも即効性とわかりやすい答えが求められるけれど、思索とはそういうものではないのだ。哲学書というのはこんなふうに、読者の思索を促すものであるべきなのだろう。文学についても同じことで、「あらすじ」を読んで小説がわかるのだったら、小説を読む理由などどこにもない。「あらすじ」以上のことが書かれていない小説は、小説とは呼ぶことができないとさえ思う。

 ある詩歌について論じるように言われたソクラテスの答えは痛快である。彼はその詩の解釈を、プロタゴラスが沈黙するまで開陳してから、こう告げる。

「じっさいわたしには、詩歌について議論するというのは、低俗で卑しい人たちの催す酒宴にとてもよく似ているように思えるのです。そういう人たちは、教養がないものですから、酒盛りをするときに、自分の声と自分の言葉を使って、自分たちだけの交わりを楽しむことができません。そこで彼らは、笛吹き女に高い料金を支払い、笛の音という第三者の声のためにたくさんのお金を費やすのです。そして、その声を使って互いの交わりをするわけです。しかし、立派なよい人たちで、十分な教養を持つ人たちが酒宴を催す場合、そこには笛吹き女も、舞い女も、琴弾き女も見出すことはできません。彼らは、そんなくだらない子どもじみたものなどなくても、自分たちの声を使って、十分に自分たちだけの交わりを楽しむことができるのであり、たとえたくさんの酒を飲んでいても、秩序正しく順番に話をしたり、聞いたりするのです」(148~149ページ)

 詩は文学である。文学に解釈を与えようとする試みには、断固として反対しなければならない。それは「あらすじ」を読み、それで小説を読んだことにしようとするのと同じことなのだ。文学は特定の解釈しかできないものではない。いつも好んで引用するアルベルト・マングェルの『図書館』の言葉をまたしても引くと、「キプリングの『少年キム』のあとに読む『ドン・キホーテ』と『ハックルベリー・フィン』のあとに読む『ドン・キホーテ』は別の本」なのだ。読者の気分や年齢などに応じて変わっていくものだから、文学は面白いのだ。画一的な答えなどどこにもない。詩に解釈を与えようとすることは、その広大な価値を無理に矮小化することにほかならない。

「だいいち、わたしたちは、詩人たちが述べていることについて、彼らに質問することができません。たくさんの人が話のなかで詩人を引用すれば、ある人たちは詩人の考えはこうだと主張し、またある人たちはいやこうだと主張して、決着をつけようのない事柄を論じるはめにおちいるでしょう。優れた人たちであれば、そんな会合にはさよならをします。そして、自分たちだけで、自分たちのものだけを使って互いに交わり、自分たちの言葉だけで互いにやり取りして、お互いを試すのです」(150ページ)

 ソクラテスの姿勢は一貫している。正直、詩の解釈を長々と開陳しはじめたときには、彼が壮大な矛盾に陥っているとさえ考えてしまった。たとえば、『プロタゴラス』という本はこれこれこういうことを論じた本である、などと解釈を与えてしまっていたら、ソクラテスプラトンも、いったいなにをやっていたのか、ということになってしまっただろう。彼は詩歌の解釈ということには、断固反対しなければならなかったのだ。解釈が終わって、ソクラテスが上述の言葉を吐いたときには、すっきりした。

 それからもうひとつ、面白いと思ったこと。

「それでは、どんな人が悪い医者になるのだろうか? まず、医者でなければならないのは当然だが、それに加えて、よい医者でなければならない。なぜなら、そのような医者であれば、悪い医者にもなれるだろうから。これに対して、われわれのような医術の素人がしくじりをしても、われわれは決して医者になることなどないし、また大工になることも、他の何になることもない。そして、しくじりをしても医者になることなどないのだから、その人が悪い医者になることもないのはあきらかだ」(140ページ)

 この箇所を読んで、ジョルジョ・アガンベンメルヴィルの『バートルビー』について書いた論文(「バートルビー 偶然性について」)を思い出した。つまり「潜勢力の哲学」だ。記憶違いでなければ、アガンベンはこれをアリストテレス哲学からの借用と言っていた気がするのだが、二人の師弟関係を思えば、同じことをプラトンが書いていたとしてもなんの不思議もないだろう。興味が広がる。

 また、プロタゴラスが語った人間たちの起源の挿話も面白かった。プロメテウスはギリシャ神話のなかでもかなり言及頻度の高い神ではあるが、このエピソードを読んだのは初めてだった。

「エピメテウスはそれほど賢くはなかったので、知らないうちに、理性を持たない〔人間以外の〕生き物たちのために、能力を使い果たしていた。だから人間の種族が、身支度の整わないまま、彼のもとに残されることになったのである。彼はどうしてよいかわからず、途方に暮れた。途方に暮れている彼のところに、プロメテウスが分配の点検にやって来た。そして、人間以外の動物たちはあらゆる点でうまくいっているのに、人間だけは裸で、履物も寝具もなく、武装もしていないことに気づいた。だが、すでに定められた日は近づいていた。その日になれば、人間も、大地のなかから太陽の光のもとに出て行かねばならないのだ。
 プロメテウスは、人間が身を守るための手立てを見つけようとしたが、どうしても見つからず、困り果ててしまった。そこで彼はしかたなく、ヘパイストスとアテナのもとから、技術を使う知恵を、火といっしょに盗み出したのだ。(というのも、火がなければ、だれもこの知恵を身につけたり、使ったりすることができないからだ。)こうして、彼はそれを人間に贈ったのである」(62ページ)

 ちなみに手もとにある高津春繁による『ギリシア・ローマ神話辞典』のプロメテウスの項では、彼とエピメテウスは別の語られ方をしている。すなわち、

「彼は神神と人間とが犠牲獣の分けまえをきめようとした時、一方は骨を脂肪で包み、一方は肉と内臓とを皮で包み、ゼウスに選ばせたところ、神はだまされて前者を選んだ。かくして人間は一番良い部分を得ることとなり、ゼウスはプロメーテウスに対して怨みを抱くにいたった。つぎにゼウスが人間に火を与えなくなり、人間が困っている時、プロメーテウスはゼウスに秘しておういきょう(巨回香)草の茎の中にヘーパイストスの鍛冶場(あるいは太陽神)の火を盗んで隠し、持ち帰って人間に与えた。そこでゼウスはパンドーラーをヘーパイストスに作らせて、送った。エピメーテウス《あとで考える男》はプロメーテウス《さきに考える男》の忠告を忘れ、彼女の美しさに引かれて、妻とし、ここに人間のあらゆる災禍が生じた」(高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店、1960年、224ページ)

 神話になにが正しいもないのだが、こういう違ったエピソードが知られるのは楽しい。

 古典新訳文庫に入った最初の一冊が、この『プロタゴラス』であったということに意味を感じる。この気安さでプラトンが読めるのなら、どんどん増やしていって欲しいものだ。今後に期待。

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)

 


<読みたくなった本>
プラトンソクラテスの弁明ほか』

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

 

プラトン『饗宴』

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

プラトン『国家』

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)