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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

饗宴

 まだ前期作品群もぜんぜん読めていないというのに、関心が高じすぎて手に取ってしまった、プラトンの中期作品群を代表する一作『饗宴』。とはいえ、プラトンの平易な言葉づかいは前期作品のそれと変わることはなく、予備知識を蓄える必要などまったくないことが、よくわかった。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

プラトン(久保勉訳)『饗宴』岩波文庫、1952年、1965年改版。


 そうは言っても、正直、思っていたよりもずっと時間を要する一冊だった。すでにここでも取りあげた数篇は、どれもあっという間に読めてしまうものだったので、今回もそのつもりで手を伸ばしたのだ。甘かった。その甘さとは、プラトンに対するというよりも、岩波文庫に対する甘さである。岩波文庫版の『饗宴』は、なんと1952年の版から変わっていないのだ。1965年の改版で新仮名遣いに改められたとはいえ、文章はとてもとても古い。とは言っても、ただ古いだけの翻訳ならほかにもいくらでも読んできたし、古いものには古いものの良さがあることも知っている。問題は、この訳者がどこまでも原文どおりに訳そうとするという、その姿勢にある。

 つまり、この訳者は原文の句読点を、訳文においても忠実に再現しようとしているのだ。もちろん原文の語順も、日本語として読みやすくするために置き換えたりなどしない。すると文章はこんなふうになってしまう。

「列席の諸君のうちには誰もたくさん葡萄酒を飲みたいという人が無いらしいから、酩酊について僕が真実ありのままをいっても大して不快を感じさせるようなことも恐らくあるまい。というのは、僕思うに、これだけのことは医術の上から僕に明らかになっている、酩酊が人間に有害なことは」(53ページ)

 しかも、まだある。これだけでもかなり驚くべきことだというのに、なんとこの厳密さは、コロン(:)とセミコロン(;)にまで適用されているのだ。縦書きの日本語の文章に、これらの記号は存在しない。そこで訳者はこれを表現するために「黒い句点」と「白い読点」という、新たなふたつの記号まで作りあげているのだ。そこまでするか、と驚くばかりの、原文絶対主義である。残念ながらこれらをここで表現することはできないので、引用文中にそれらの記号があった場合には、本来の姿(「:」「;」)で記した。かなり面白い試みであることは間違いないので、興味がある方にはぜひ、じっさいにこの版を手に取ってみてもらいたい。

 なんだか、なにひとつ褒めるようなことを書いていない気がするのだが、もうひとつ。この本には、本編よりも先に、訳者による40ページもの「序説」が付いている。その内容が、なんとこれから読もうとしている作品の要約も含んでいるのだ。正直、先に置く理由がまったくわからない。本編を読み終えてから開いたほうが断然いいだろう。ちなみに、その「序説」はこんな文章からはじまる。

「一般にギリシャ人の天才の著しい特色は、それがきわめて多方面だということである。この点においては世界史上彼らに比肩し得るものが無い。特に芸術の領域において彼らは最も驚嘆すべきものを遺したが、なかんずくその文学的作品は永久に燦然たる光を放っている」(「序説」より、5ページ)

 現代の学問の分類がアリストテレスに依っていることは周知のことだが、アリストテレス以前の学問はいちいち分類などされていなかった。専門に特化していくばかりの現代の学問領域の狭さは、見直されるべきだろう。たとえば歴史学の教授が、専門とする範囲の時代・国の、当時主流となっていた哲学を知らない、といったとんでもないことさえ、日常茶飯事となっているように思える。

 その文脈から考えると、この訳者の姿勢はすばらしいものだ。膨大な訳注を見ると、それがよくわかる。この人はただ古代ギリシア語から翻訳するというだけではなく、ドイツ語、フランス語、そして英語のありとあらゆる訳書・研究書を読み漁ることで、これらの訳注を用意しているのである。英語のできないフランス文学者や、フランス語のできない英文学者がいくらでもいるような現代にあっては、驚くばかりだ。訳者の面目躍如のためにも、これを無視することなどできない。ただ、それらの訳注も、自分のような一般読者にとっては不要なものがほとんどなのだけれど。

 さて、ようやく『饗宴』である。これは過去に繰り広げられた饗宴(シュンポシオン)を、後年になってアポロドロスが友人に伝える、という構成を採っている。しかも語り手であるアポロドロスもその場に居合わせたわけではなく、アリストデモスから話を聞いたということになっているので、プラトンがいつになく話に客観性を持たせようとしているのがわかる。というのも、この作品は全体を三部に大別することが可能で、その三つ目がソクラテス礼讃に当てられているのだ。先回りして書いてしまうと、そこでは『プロタゴラス』などにも登場していたアルキビアデスが、自身の恋人たるソクラテスを褒めちぎっている。正直ちょっとしらける部分もあるのだが、ソクラテスの酒の強さや戦場での果敢さなど、本人の口に任せていては到底出てきそうもないことが話題となっていて、面白い。

「あなたから話を聴くとき、または第三者の口から貴方の話をきかされるとき(たといそれがどんなに拙劣な話し手でも、また聴き手が女だろうと、男だろうとまたは少年だろうと)、われわれはひとしく驚倒し、心を奪われてしまうのです」(135ページ)

 饗宴というのは、ものすごく平たく言ってしまえば、古代ギリシア流儀の飲み会のようなもので、今回のこの饗宴は、悲劇詩人アガトンが競演(おそらくコンクールのようなもの)で勝利したことを祝って催されたものだ。アガトン、ファイドロス(パイドロス)、パゥサニヤス、エリュキシマコス、さらにはあのアリストファネスなど、参加者は大勢いて、そこにソクラテスが加わっている。そしてエリュキシマコスとファイドロスの提案によって、それぞれが順々にエロス(愛の神)を讃美しようということになるのだ。

 さきほどこの作品は三部に大別できると書いたが、その内訳は「ソクラテス以外の話者による演説」と「ソクラテスの演説」、それから途中から飛び入り参加するアルキビアデスによる「ソクラテス礼讃」である。これまでわたしが読んできたプラトンのほかの対話篇とはぜんぜん趣が異なり、全体は会話の応酬として進むのではなく、ほとんどゴルギアス(弁論家)の領分と言ってもいいほどの長さで、ひとりずつが順々に演説を開陳していくのだ。「ソクラテス以外の話者による演説」は、プラトンを読んでいる気がしない。

 そもそも話題をエロスと規定させたのは、「詩人のだれもこの神を讃える頌歌をつくっていない」というファイドロスの意見であった。そこでファイドロスから席の順番どおりに、エロス(愛)讃美が行われていく。その内容は玉石混淆で、興味深いことばかり語る話者もいれば、ほんとうにただ褒めてるだけ、という人もいる。

「今かりに何等かの方途によってただ愛者とその愛する少年とのみから成る都市または軍隊が出現したとする、そのとき彼があらゆる陋劣から遠ざかりかつ互いに名誉を競うこと以上に自分の都市を立派に統治する途はあり得ないであろう。またもしこのような人達が相携えて戦ったとしたら、たといその数はいかに少くとも、必勝を期し得よう、――全世界を敵としても、と私はいいたい。実際愛者なる男にとっては、その持場を離れたり、または武器を投げ出したりするところを愛する少年に見られることは、疑いもなく他の何人に見られるよりも遙かに堪え難いことであろう;また彼はそれよりもむしろ幾度でも死ぬことを願うであろう。ましてや愛する少年を見捨てて逃れたり、あるいはその危地に陥るのを見てこれを救い出そうともしなかったりするほど――エロス自らの与える霊感によって勇気づけられ、その結果生来の最勇者にも比肩し得るようにならぬほど、それほどの臆病者は、一人も無いのである」(57~58ページ)

 ファイドロスの次の話者、パゥサニヤスは、エロスを唯一の神として無条件に讃美するファイドロスの姿勢をよしとせず、エロスという神には二つの種類があることを告げる。これがけっこう面白い。

「万人向きのアフロディテに属するエロスは真に万人向きのものであり、偶然のまにまに発動する:しかもこの種の愛に凡俗者流は惹きつけられるのである。ところがこの種の人の愛はまず第一に、少年に対すると同様に、婦人にも向けられる、次には恋に落ちた場合に、彼らは魂より以上に肉体を愛し、最後には、でき得るかぎり愚昧なる者を愛する、それはただ目的の達成をのみ眼中に置いて、その仕方が立派かどうかを意に介しないからである。だからこそこの種の人は、何事でも、それが善であろうと、その反対であろうと無差別に、ただ偶然のまにまに行うようになるのである。それはこのエロスが、もう一人の女神よりも遙かに年少で、かつすでにその生れの上からも女性と男性とにあずかる女神から出ているからである。しかるに他のエロスは天の娘(ウラニヤ)から出た者であるが、この女神は第一には、女性にあずからず、ただ男性のみにあずかり(これすなわち少年に対する愛である)、次には年長で、放縦に流れることがない。それだからこそこのエロスに鼓舞された者は男性に向うのであるが、それは彼らが生来強き者と理性に富める者とを愛好するからである」(62~63ページ)

 少年に対する愛のほうが高い位置に置かれているのは、当時の風潮。ソクラテスも美男子アルキビアデスを恋人として扱っているし、成人した男と少年が愛しあうのはかなり一般的なことだったのだろう。なかなか想像しづらいけれど。

「悪しき者とは魂よりもさらに多く肉体を愛するかの卑俗なる愛者をいう:しかもその愛するのは永続する対象ではないから、彼自らもまた永続するはずがない。なぜならばその愛した肉体が花時を過ぎるや否や、あらゆる言葉と約束とを踏みにじって彼は急いで飛び去ってしまうからである。これに反して気高き性格を愛する者は生涯を通じて変ることがない、それは永続するものと融合しているからである」(67ページ)

「徳のために好意を示すことはいかなる場合にも美しい。これがすなわち天上の女神に属するエロスで、また自らも天上界の者(ウラニオス)であり、かつ国家にとっても、個人にとって多大の価値を有するものなのである、このエロスは、愛する者にも愛さるる者にも、徳を進めるために真剣に自分自身を顧慮することを余儀なくするからである。しかるに他種のエロスはすべてこれとは異れる万人向きの女神(パンデモス)に属する」(70ページ)

 つづくエリュキシマコスの演説には、こんな一節があった。

「一切の犠牲や卜占術(マンテイケー)の支配する領域に属するもののごときもまた――それはすなわち神々と人間と、相互間の交通であるが――エロスの監護と治癒以外なんらのことに関するものでもないのである。なぜといえば、一切の不敬虔が発生するを常とするのは、人が端雅なるエロスの意に従わず、またあらゆる行動において彼を尊びかつ重んずることをもせずに、生前または死後の両親に対する態度においても、神々に対する態度においても、他方のエロスを尊重する場合であるからである。それ故に卜占術に負わされた務めは両種の愛を監視しまた治癒することである。さらにまた、卜占術は神々と人間との友愛関係の創造者である、それは神法と敬虔とに関するかぎり、人間社会における愛現象に通暁するが故である」(75ページ)

 この「卜占術(マンテイケー)」なる語に付された訳注がとても興味深い。

ギリシャには宗教生活の全領域に対する呼称が欠けていたために、かつ卜占術が実際的には古代宗教の最重要素を形成していたために、ここでは卜占術の定義が宗教全体を代表しているのである」(「訳者注」より、165ページ)

 卜占術が宗教全体を代表するというのは、キリスト教登場以前の時代においては、ほとんどどんな場合にも通用することだったのではないだろうか。そういえばモンテーニュも、「古代の人々は、公私において、たいていのことを手がける場合に、占いに頼っていたのであったが、それらすべてを、われわれの宗教は廃止したのである」と語っていたではないか(モンテーニュ宮下志朗訳)『エセー1』白水社、2005年、79ページ)。エピクロス哲学の徒であったルキアノス「偽予言者アレクサンドロス」を書いた理由も、なんとなく納得できる。

 エリュキシマコスのあとにくるのは、あのアリストファネスである。なにが驚きって、この喜劇作家がプラトンの作品に登場し、しかも、とても面白い話をしていることだ。アリストファネスは喜劇『雲』のなかでソクラテスを嘲笑した張本人、それによって世間に悪しきソクラテス像を提示し、ゆくゆくはこの哲学者に死刑判決を下すことになった裁判を、間接的に準備したと目されても仕方がないような人物なのである。ソクラテスの弟子であるプラトンが、その作中でこの喜劇作家を魅力的な人物として描くということは、普通だったら考えられないことだ。ところがプラトンはこのアリストファネスに、ほかのどの人物よりも面白い演説をさせているのだ。

「まず第一に諸君が知って置かねばならぬことは、人間の本性(原形)とその経歴である。実際原始時代におけるわれわれの本性は、現在と同様なものではなく、まったく違っていた。第一に、人間の性には三種あった、すなわち現在のごとくただ男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合せるものが、在ったのである:そうしてその名称は今なお残っているが、それ自身はすでに消滅してしまった。すなわち当時男女(おめ)といって、形態から見ても名称から見ても男女の両性を結合した一つの性があったのである。けれども今はただその名称が罵詈の言葉として残っているに過ぎん」(78ページ)

 ここからがさらに面白い。なんだかヒエロニムス・ボスの「快楽の園」でも眺めているような気分になる。

「次に当時各人の姿は全然球状を呈して、背と脇腹とがその周囲にあった。それから四本の手とそれと同数の脚と、また円い頸の上にはまったく同じ形の顔を二つ持っていた:そうして背中合せの二つの顔にただ一つの頭顱、それに耳が四つと、隠し所が二つ、そうしてその他はすべてこれに準じて想像し得る通りである。人は現在のように直立して、しかも欲するがままに前後いずれの方向へでも歩いた。が、それのみならず一たび急いで駆けようとする場合、ちょうど飜筋斗(とんぼがえり)する者が両脚を逆立てながら輪を描いて行くように、彼らはその当時具えていた八つの手足に支えられて輪を描きながら迅速に転って前進したものである」(78ページ)

 やがてこの原初的人間は神によって切り裂かれ、男と女というふたつの性に明確に分けられるようになる。そしてもともとの属性に応じて、男を求める男もあれば女を求める女もあり、男を求める女もあれば女を求める男もあるというふうになるのだ。こういう楽しい話をアリストファネスに語らせるあたり、プラトンは底が知れない。

 最後の話者はアガトンである。この五人目の話者によって「ソクラテス以外の話者による演説」は終了する。

「この神は巧妙なる詩人である:他をもまた詩人にするほどである:まことに何人といえども、一たびエロスが触れさえすれば、「たといかつてはムーサ神に無縁であった者も」きっと詩人になるのである」(92ページ)

 そしてとうとうソクラテスの登場である。彼もまた演説をおこなうのだが、その方式はこれまでの人びとのような文字どおりの演説ではなく、やはり対話なのだ。ソクラテスは過去に外国の女ディオティマと繰り広げた議論を引き合いに出し、彼女から教わったことをひとつひとつ展開していく。

「誰でも智慧ある者はもはや智慧を愛求することをしないでしょう。しかし、他方、無知者もまた智慧を愛求することもなければ、また智者になりたいと願うこともないものです。というのは、無知がはなはだ厄介なものであるゆえんはこういう点にあるからです、すなわち自ら美しくも善くもまた聡明でもないくせに、それで自ら充分だと満足していること、ちょうどその事に:ですから自ら欠乏を感じていない者は、自らその欠乏を感じていないものを欲求するはずもありません」(109~110ページ)

 ディオティマの言葉という体裁を採ってはいても、ソクラテスの議論がどんどん本質的なこと、つまり真理に向かっていくのは、いつものとおりだ。人はなぜ愛を求めるのか、それは不死なるものへの憧れとして語られていく。

「いったいなぜ生殖を目指すのでしょうか。それは、滅ぶべき者のあずかり得るかぎり、生殖が一種の永劫なるもの、不滅なるものだからです。ところが不死は必然に善きものと共に欲求されなければならぬ、もし私達のすでに容認して来た通り、愛の目指すところが善きものの永久の所有であるとすれば。この考察から必然に出て来る結論は、愛の目的が不死ということにもあるということであります」(117ページ)

「不朽の勲功と同様の赫々たる名声とのためには人はすべてどんな事でも敢行する、しかも優れた人ほどいっそうそうである、と。それは彼らが不死を愛求するからなのです」(121ページ)

 恋の相手により美しい者を選ぼうとすることも、自分の分身たる子孫をより美しい者として残したいという欲求にほかならない。そしてその相手に求められる美しさというのは、外面的なものよりも内面的なもののほうが価値が高い。姿のうえでのみの美は、唯一無二のものではないのだから。そしてそれを悟った者は、「愛の奥義」に通ずる糸口をつかんだことになる。その「愛の奥義」とは、以下のようなものである。

「地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになること」(126ページ)

 訳注によれば、なんとこれが俗に言う「イデア論」だというのだ。もちろん「美における」という括弧付きのものではあるけれど。なんだ、簡単じゃないか! と一瞬思ってしまったものの、これが考えれば考えるほどわからなくなってくる。下手なことを書くとすぐに後悔することになりそうなので、解釈のためにはまず『国家』を読みたいと思った。『饗宴』ではほんのさわり程度しか語られていないので、わかったようなことを書くべきではないだろう。より深い理解への糸口は、きっとあの本のなかにある。

 先述したとおり、このあとアルキビアデスが乱入してきて、話題は「ソクラテス礼讃」へと移る。これだけの内容がたったの100ページほどの作品に収められているというのも驚きだ。中期作品をもっともっと読んでみたくなった。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 


<読みたくなった本>
プラトン『国家』
イデア論の書。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

プラトンパイドン
→訳者によると『饗宴』と好対照を成しているらしい。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

プラトン『パイドロス』
→『饗宴』の登場人物のひとり。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

ヘルダーリン『ヒューペリオン』
→ディオティマが登場する。

ヒュペーリオン ギリシアの隠者 (ちくま文庫)

ヒュペーリオン ギリシアの隠者 (ちくま文庫)

 

ヘシオドス『神統記』

神統記 (岩波文庫 赤 107-1)

神統記 (岩波文庫 赤 107-1)

 

エウリピデス『アルケスティス』

ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)

 
ギリシア悲劇〈4〉/エウリピデス〈下〉 (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈4〉/エウリピデス〈下〉 (ちくま文庫)

 

アリストファネス『雲』

雲 (岩波文庫)

雲 (岩波文庫)

 

クセノフォン『饗宴』

ソクラテスの弁明・饗宴

ソクラテスの弁明・饗宴