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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

物の本質について

 アナトール・フランス『神々は渇く』で、ルキアノス『遊女の対話』で、さらにはモンテーニュ『エセー』でこぞって礼讃していた、古代ローマラテン語黎明期に書かれた、一篇の叙事詩。神保町で発見し、一ヶ月ほどかけてゆっくりと読んだ。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

ルクレーティウス(樋口勝彦訳)『物の本質について』岩波文庫、1961年。


 正直、六冊の本を読んだ気分だ。じつは読み終えたのは数週間も前なのだが、今になっても、なにから書きはじめればいいのかわからない。とにかく、どんな本なのかは説明しよう。ルクレティウスは、ウェルギリウスホラティウスオウィディウスにも影響を与えたローマ時代を代表する詩人であり、その現存する唯一の作品『物の本質について』は、エピクロス哲学の思想を現代に伝える最重要文献である。

「エピクーロスの著書は三百巻にも上ったといわれるが、今ではほとんど散佚しつくした。彼の思想を伝えている、まとまったものといえば、僅かにディオゲネース・ラェルティオスの「諸哲学者伝」中の「エピクーロス伝」と、このルクレーティウスの「物の本質に就いて」だけで、後者の方がはるかに多くの内容を伝えている」(「解説」より、325ページ)

 さきほど「六冊」と書いたが、この一冊はもともと六巻に分かれていたものなのだ。とはいえ、たとえばホメロスの上下巻がもともと二十四巻の書物だったというのと同様、この場合の「巻」は、現代的には「章」と言い直すこともできるだろう。ルクレティウスは各巻の冒頭で、たいていエピクロスを礼讃している。

「恐ろしい形相を示して、上方から人類を威しつつ、天空の所々に首を見せていた重苦しい宗教の下に圧迫されて、人間の生活が、誰れの目にも明らかに、見苦しくも地上を腹ばっていた時に、初めてギリシア人の、死すべき一介の人間(エピクーロス)が、不敵にもこれに反抗して、目を上げた。彼こそは、これに反抗してたった最初の人である。神々のことを語る神話も、電光も、脅迫の雷鳴を以てする天空も、彼をおさえつけるわけにはゆかず、むしろ、かえって彼の精神の烈々たる気魄をますます、かきたてることとなり、その結果、人間として初めて自然の門のかたい「かんぬき」を破りのぞこうと望ませるようになった。従って、彼の精神の活潑な力は、何ものといえども征服せざるものなく、世界の果、火ともえる壁をうちこえて遠く前進し、想像と思索とによって、あらゆる無限の世界をふみ歩いた」(1. 62-79より、12~13ページ)

「かくも大いなる暗黒の中から、かくも燦然たる光明をかかげ得て、生命の喜びを明らかにしてくれたる、おお、ギリシアの民の名誉〔なるエピクールス〕よ、私はあなたの跡を追おうとする者である。そして、あなたの残した足跡の上に、私の足跡を今印しようとする者である。私があなたを模倣しようと念ずる所以のものは、あなたと競おうと思うが故ではなく、むしろただあなたを愛するが故に外ならない。いかで燕が白鳥と競おうか? 又いかで小羊が四肢を慄わし、力強い馬の勢に向って競争し得ようか? 父よ、あなたは真理の発見者であり、父らしい教えを我々に授けて下さる。卓抜せる人よ、あなたの書物(カルタ)から、例えば蜜蜂が花咲く小径に甘きを悉くすするように、我々も亦これと同じく、あなたの黄金の言葉を、恒久的生命を、常に得るに価いする黄金の言葉を、吸い取る者である」(3. 1-30より、113ページ)

 ちなみに第五巻の冒頭では、エピクロスヘラクレスよりも偉大であるといういささか無茶な比較までしている。

「ヘルクレースの功業がこれに匹敵すると考えたら、君は真の理性からおよそ遠く離れる者と云うべきだ。即ち、あの獅子ネメアにおける大きく開いた口が、又恐ろしいアルカディアの野猪が、我々に今どれほどの害を加えられようか。又、クレータ島の牛が、又レルナの毒気たる、毒蛇の群に囲まれたヒュードラに何ができようか。三つの体軀を有するゲーリュオーンの三つの胸の力に何ができるか。又、スチュンパーロス(の通れない沼地)に住む(銅の翼を持った怪鳥共)が、又ビストラの地やイスマラ山の近くで、トラーキア人のディオメーデースの、鼻から火を吹く馬が、我々にどれほどの禍をなし得ようか。我々の誰も行ったことのない、又異邦人も敢えて行く勇気の出ない大西洋の岸、厳しい海に近く、水の精ヘスペリデース達の輝く黄金の林檎を守って、樹の幹に巻きついている眼の鋭い、恐しいあの体軀巨大な蛇とても、何の危害を働き得ようか。その他この種の〔ヘルクレースの手に掛って〕亡された怪物共が、たとえもし征伐されなかったとして、生きていたところで、何の禍が行えようか。何もできないに違いない。今なお大地は森林に、大いなる山嶽に、深い林に、かくも多数の野獣に満ちあふれ、不安な恐怖に充ちてはいるが、かような場所を避ける力を我々は大概持っている」(5. 22-42より、212ページ)

 さて、詩人なのに哲学? と、訝る向きもあるかもしれないが、そういう人はヘッセの「どんな民族もどんな時代も、彼らの教訓や知識の財宝をもっぱら詩の形で記録してきた」という言葉を思い出そう(『ヘッセの読書術』より、19ページ)。しかも、まだまだ驚くにはあたらないのだ。ルクレティウスは「物理学の父」とも呼ばれている人物なのである。つまり、現代の学問分類に無理に当てはめようとすれば、これは自然科学の本なのだ。以下、無意味であるとは知りつつも、私見により、ざっくりと各巻に表題を与えてみる。

第一巻:万物の根源としての原子について。
第二巻:原子の性質について。
第三巻:精神・魂の性質について。それから死について。
第四巻:映像について。
第五巻:天体の法則、自然や人間、社会の起源について。
第六巻:自然現象(雷、雨、地震など)の解釈について。

 さきほどルクレティウスヘラクレスを否定していることを紹介したとおり、自然の法則を解き明かすということは、ギリシアからたくさんの神話を継承していたローマにとっては、神意を否定するということにほかならなかった。これは自然科学を説いた最初期の書物であり、歴史的に初めて叫ばれた「ノン」なのである。いや、正確にはエピクロスがその前にいて、さらに彼に影響を与えたデモクリトスなどまで遡れるのかもしれないが、現存している最初の「ノン」はこれだ、と言えるだろう。

「君のような人でさえ、やがていつか、占卜師どものすご文句におびやかされて、私から逃げ去ろうとつとめるようにならないとも限らない。実に、彼ら占卜師たちは、幾らでも多くの夢を、たちどころに捏造する術を心得ているからだ――生活の道をくつがえしうるような、また君の運命を、恐怖で動揺させうるような夢を。しかも、それは無理もない。なぜならば、人々がもし、心労にも或る一定の限界があるものだということをさとったとしたならば、宗教に対しても、また占卜師どもの脅迫に対しても、何とかして反抗することが、できるであろうからだ。しかし、現実のところ、死後の永遠の罰を心配しなければならないので、反抗する道も、力も、全くないのだから」(1. 102-126より、14~15ページ)

「精神の恐怖と暗黒とは、太陽の光明や、ま昼の光線では、一掃できないことは必定であり、自然の姿〔を究明すること〕こそ、また自然の法則こそ、これを取り除いてくれるに違いない。自然の先ず第一の原理は、次の点からわれわれは始めることとしよう。即ち、何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない、という点である。死すべき人間は、地上に、また天空に、幾多の現象の生ずるのを見て、その原因が、如何なる方法を以てしても、うかがい知ることができず、これひとえに神意によって生ずるのだ、と考えてしまうが故に、実はかくの如く、誰れしも皆恐怖にとらわれてしまうのである。従って、無よりは何ものも生じ得ず、ということを一とたび知るに至れば、ひいて忽ちわれわれの追及する問題、即ち、物はそれぞれ如何なる元から造られ得るのかということも、またあらゆる物は神々の働きによることなしに、如何にして生ずるか、という点もいっそう正しく認識するに至るであろう」(1. 146-158より、17ページ)

 また、「君」という呼びかけからも察せられるとおり、これは友人メンミウスに宛てた手紙という体裁を採っている。つまり書簡体形式で、読者に理解してもらうことを第一に書かれているのだ。訳文も平易になるように工夫が凝らされていて、文句がまったくないわけではないのだが、基本的には好感が持てる。この翻訳ではもちろん再現されていないが、訳者によると、原文のラテン語は韻文だそうだ。翻訳があるというだけでも、喜ぶべきだろう。

「以上のことをよく理解し、信じてくれるならば、直ちに自然は自由であり、傲慢なる主人に左右されることなく、自然自身すべて自由勝手な独立行動をとっているものであって、神々とは関係がないということが判ってくるであろう。というのは、平和のうちに静寂なる日々と、平穏なる生活とを送っている神々の、神聖にして安らかなる心にかけて〔私は断言するが〕、宇宙を支配し得る程、無限に巨大なるものが誰れあろうか? 力強い手綱を手にとって、宇宙の深さを制御し得る程の力あるものが誰れあろうか?」(2. 1090-1104、109ページ)

「例えば子供は眼の見えない暗闇の中では、おびえて何でも恐がるように、我々は往々少しも恐るべきいわれのないことに白昼恐れをなしている――それも、子供が暗闇の中で今にも起るかと想像しては恐がるものに較べて、少しも恐るべきいわれのないことに。であるから、心のこの恐怖、即ち暗黒は払拭する必要があるが、太陽の光や白昼の光線によるのではなくして、自然の姿と法則と〔を究めること〕によらなければならない」(3. 59-93より、116~117ページ)

 さあ、内容について語ってみよう。まず、古代ギリシアにおいて、万物の根源をめぐる議論が繰り返されていたことを思い起こしてもらいたい。すなわち、「火(ヘラクレイトス)」「空気(アナクシメネス)」「水(タレス)」「土(ペレキュデス)」などなど、である。万物の根源に「原子」というものを最初に挙げたのはデモクリトスだと言われているが、それを継承・発展させたのがエピクロスで、ルクレティウスはここでその意見をラテン語に訳し、紹介しているのである。

「万物の本質は、事実、それ自体において、二つのものから成りたっているのである。即ち、物質〔原子〕と空虚とであって、この空虚の中に物質が存在し、この空虚を通って物質はいずれの方向へも運動する。物質が独立して存在しているということは、人間に共通な感覚が明示するところである。われわれが先ず第一に、この感覚に信頼をおいて、堅い基礎をきずかなければ、〔目に見えない〕かくれた問題に関しては、理性を以て何らかの解釈を打ちたつべき根拠は、全く得られないであろう。ではさらに、われわれが空虚と称する場処、ないし空隙が、存在しなかったとしたならば、私がしばらく前に述べたように、物質は何処にも位置を占めることが不可能であろうし、また何処においても、いずれの方向に向っても、動くことは全く不可能であろう。このほかに、物質とは全く区別され、空虚とも別個なりとも称し得る、いわば第三質として知られているようなものは、全くない」(1. 418-448より、29~30ページ)

「宇宙は完全に充実してもいなければ、そうかといって、完全に空虚にもなっていない以上、原子と空虚とは交互に分解し合っているのだ、ということは疑いの余地がない」(1. 503-527より、34ページ)

 先に挙げたような他派の意見は、ここで紙幅を割いて、完膚無きまでに否定されている。じっさい、ルクレティウスの理論には、穴がぜんぜんないのだ。この説得力に立ち向かえるわけがない。古代ギリシアからつづいた論争はここで終止符を打たれた、と言っても言い過ぎではないだろう。

「原子は、私が既に説いたように、強固にしてかつ空虚を含有しないものである以上、これは恒久的なものであらねばならない。もし原子にして、恒久的でないとしたならば、万物は今までにことごとく、完全に無に帰してしまったであろうし、現にわれわれが眼前に見るところのものは、ことごとく無から再生して来た、ということになるであろう。ところが、私が先に説いたように、何ものも無からは生じ得ず、かつ一旦生じたものは、無に帰し得ないが故に、万物がそれぞれ最後の瞬間において、還元し得るところの、しかして新しいものを再生せしめる素材となり得るところの、不滅性をそなえた原子がなくてはならない。従って、原子は単一性をそなえて、強固なるものである。もしそうでなかったとしたならば、無限の過去から今まで、永代をへて保存されて来て、物を新たに再生させる力を持ち得る筈がない」(1. 528-550より、34~35ページ)

「間々重要となる点は、同じ原子が如何なる原子と、また如何なる状態で一所に保持されているか、如何なる運動を相互に与え合うか、また受け合うか、ということである。すなわち、同じ原子が天空を、海を、地を、河川を、太陽を、形成していることもあり、同じ原子が穀物を、樹木を、動物を、造ることもあるが、ただし、他の原子との混合の仕方が異なっていて、異なった活動の仕方をしているからである。なお、私のこの詩の中でさえ、多くの言葉に共通な、多くの「あるはべっと(エレメンタ)」を、あちらこちらに見うけるであろう。しかしながら、詩の行も、言葉も、意味の上においても、発音の音声上においても、互いに異なっていることは、君にも認めざるを得まい。「あるはべっと」は順序のみを変えただけでも、これほどの働きをなし得る。まして、諸物の原子なる「あるはべっと」は、これを基としてあらゆる多種多様なる物を生ぜしむるためには、これ以上複雑な着き方が可能である」(1. 803-829より、47ページ)

 わたしは小学校で習う「分数の掛け算」の時点で理系の道を諦めた男だが、ルクレティウスが語っている内容が、高校の化学の授業で教わったものだということくらいは理解できる。つまり、現代人にとっては当たり前のようなことが書かれているのだ。いやいや、これは俄には信じがたいことだろう。忘れてはならないが、これは紀元前一世紀に書かれた、二千年も前の書物なのだ。

「極小があるとしなければ、如何に微小な物質といえども、すべて無限に部分から構成されていることになってしまうであろう。すなわち、物の半分には当然常にその半分があり、かくして分割には全く際限がなくなるであろうからである。そうなれば、物の総和なる極大の宇宙と、物の極小との間には、いったい何の差異があろうか? 全然差異を失ってしまうであろう。何故ならば、宇宙が全く無限であるとすれば、物質の構成されている微小の極なる部分も、また同様に無限だからである」(1. 599-634より、37~38ページ)

「自然は宇宙を維持するのに、宇宙に宇宙自身の限界をもうけ得ないようにしている。すなわち、自然は原子を空虚によって限らしめ、しかして一方空虚を原子によって限らしめ、かくの如く交互の錯列によって、宇宙を無限ならしめているからである。もしそうでなく、一方が他方を限らないとしたら、この両者のうちの一方が、依然単独で、無限にひろがって行くであろう。(ところが、私が先に説いたところであるが、空間〔=空虚〕は無限にひろがっている。したがって、もし原子の総和〔宇宙の物質部分〕の方が有限であるとしたならば)海も、陸も、かがやく天界も、人類も、神々の神聖なる体も、わずか一瞬時たりとも、存在は不可能となるであろう。何故ならば、莫大なる原子は自身の結合から遊離して、広大なる空間の中へ溶解して行くであろうからである。ないしは、遊離した原子が集合することが不可能となるからには、原子が結合して、何ものかを構成することにならないからである」(1. 1008-1051より、55~56ページ)

 地球が丸いことさえ予想だにされなかった時代に、彼は宇宙の無限について語っているのである。もちろん、ラテン語の「spatium」が、英語の「space」やフランス語の「espace」同様、「空間」と「宇宙」の両方を意味する多義的な言葉であることは疑いようもないのだけれども。須賀敦子『ユルスナールの靴』で書いていたことを思い出した。すなわち、「こんな人たちの苦悩を経て、現代科学は生まれたのだ。それなのに、私たちは無知に明け暮れ、まるですべてを自分たちが発明したような顔をして、新幹線なんかに乗ったり、やれコンピュータだ宇宙だといばっている。なんというまぬけだろう」。

 第二巻に入ると、原子そのものの性質が語られるようになる。

「物の総和は常に更新され、死す可き生物は、それぞれ相互に変り合って行く。一方には、人口の増加する民族があれば、他方には、減少して行く民族もある。そして、短い時の間に世代は変り、あたかも〔炬火継走の〕走者のように、生命という炬火を受け渡してはいるのである」(2. 62-79、65ページ)

「太陽の光線が暗い家の中へさし込む時、観察してみたまえ。多くの微細な物質が種々な具合に、〔謂わば〕空間〔の如き空中〕を、光線を浴びて、騒然としているのを見るであろう。あたかも永遠の闘争にでもあるかのように、一瞬の休止もなく、群をなして戦い、格闘し、競り合い、頻繁に出会ったり、別れたりして飛んでいるのが見えるであろう。これによって、物の原子が宏大なる空間の中で、間断なく飛び廻っている様が想像できる。正にこのように、些細なことが大きな問題の例証を、知識への糸口を、与えて呉れることがあり得るものである」(2. 114-141より、67ページ)

 読んでいるとすぐに気がつくことだが、ルクレティウスは同じことを何度も繰り返し、強調する癖がある。「であるから、繰り返し、繰り返し、私は言うが」というのが、口癖になっているほどだ。そして第一巻でさりげなく放たれた一言が、第二巻では新たなる根拠とともに反復される。

「物は一見死滅するかのように見えても、実は完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作り直すのであって、如何なる物でも、他のものの死によって補われることのない限り、生れ出ることは許されない」(1. 215-264より、22ページ)

「死は物を亡ぼすと云っても、素材の原子を砕きつくすには至ることなく、ただ原子の結合を飛散せしめるに過ぎず、それより又他の原子とを結合せしめるのである。そして、その結果万物はこのようにしてその形態を変じ、その色を変え、感覚を受け、又一瞬にしてこれを放棄するということになる。従って、同じ原子が如何なる原子と、如何なる配合状態に結合されるか、如何なる運動を相互に与え合い、且つ受け合うかが重要だということが判るであろう」(2. 991-1022より、105ページ)

 第三巻の主題は、魂(アニマ)だ。ソクラテスなども好んで用いた「エスカトロジーのミュートス(死後における魂の運命の物語)」などは、ここでは影も形もない。ルクレティウスは、あくまでも唯物論的な地平から、魂というものを捉えているのだ。

「此の性質〔魂(アニマ)〕はあらゆる身体の中に保持されていて、自身肉体の、守護者であり且つ肉体の生存の素でもあり、共通の根によって互いに執着し合い、破壊することなくしては引き離し難いものであると思われる。例えば香料の塊から、その香料の性質を破壊することなくしては、香気を取り去ることは不可能であるように、これと同様に全体を分解させることなくしては、肉体全体から精神も魂(アニマ)も取り出すことは不可能である。かくの如くに原子はそもそもの始めから相互に織り込まれて、与えられた生命を共有しているので、肉体にしても精神にしても、いずれも他の一方の助力なくしては夫々単独に感覚する能力がないことは明らかで、ただ共同の運動によってこの両者の間から感覚が起って、我々の肉体中に作用するようになる」(3. 323-349より、127ページ)

「魂は誕生するものであり、死の法則にも左右されるものであると考えなければならない。何故ならば、魂(アニマ)がもし仮りに外部から這入って来るものであるとしたならば、かくまでも密接に我々の肉体と連結している筈はあり得ないと考えなければならないし、又事実かくも密接に結合している以上、魂が無疵のまま無事に体外へ出て行くことも、又全筋肉、骨、及び手足から解け放れて行くことも不可能であると思われるからである」(3. 679-712より、141ページ)

 ここから導き出される、死というものの性質は痛快だ。いつものことながら、説得力がありすぎる。これほど強固な論理に対して、いったいだれが反論できるというのだろう?

「精神の本質は死すべきものである、と理解するに至れば、死は我々にとって取るに足りないことであり、一向問題ではなくなって来る。そして、四方八方からポェニー人〔カルターゴー軍〕が攻め寄せて来て、世を挙げて戦争の恐るべき騒擾に打ちのめされ、縮み上り、高い天空の下にうち慄えていようとも、人間が陸か海かいずれの支配下に陥る運命にあるのかと思い惑おうとも、そういう過去のことは一切この我々が悲しく感じた経験を持っているのではないように、結合して現在我々というこの一体をなしている此の肉体と魂(アニマ)とが分離を起して、我々という者がもう存在していなくなる未来においても、たとえ大地が海と混じ、海が天空と混じ合おうとも、我々にとっては――も早や存在していない我々にとっては――全く何も起り得る筈はないし、我々の感覚を動かし得る筈もないであろうことは明らかである。又、もし今仮りに精神の本質も、魂の力も、我々の肉体から切り離されてしまった後でも感覚するのだとしたところで、我々というものは、肉体と魂との結合、密着によって一体をなしてこそ始めて存在しているものである以上、〔遊離した魂が独自で感覚しようが〕この我々にとっては何の関係もないことである。又もし、時が我々の死後、我々の素材を掻き集めて、今現に配置されてある通りに再び元に戻して、も一度生命の光明を我々に与えてくれたとしても、我々の記憶が一旦破砕されてしまった以上は、こんなことは我々にとって何の意味もないことである。又、過去にかつて存在していた我々からは現在の此の我々に関係のあるものは何も〔残っていることは〕なく、又その過去の我々からは何の苦悶も残っていて現在我々を悩ますこともない」(3. 830-869より、146~147ページ)

「我々が取るに足りないことだと考えているよりも、更に取るに足りないことがあるとすれば、死は正にそれである」(3. 894-930より、150ページ)

 合理的であることが詩心を奪い去ってしまうわけではないというのは、驚くべき発見だった。即物的な詩人、という奇妙な言葉が許されるとすれば、まさにルクレティウスこそ、それに相応しいと言えるだろう。

「世に伝えられて、冥府(アケロン)に在ると云われていることは、すべて此の我々の世に在ることなのだ。物語りに伝えられているような、タンタルスが悲惨にも、空中にぶら下っている巨大な岩を恐れて、空な恐怖に戦いているなどということはありはしない。むしろ、此の人生において、神々を恐れる理由のない恐怖が、死すべき人間どもを圧迫しているのであって、人々は誰れに当るかも知れない偶然の落下を恐れているに過ぎない。ティチュオスが冥府に横たわっているのを鳥が襲って、その巨大な胸から何か食いち切ろう、永久に捜しているなどということのあり得ないのは確かだ。その巨大なる体軀を拡げれば如何に広大であろうと、手足を伸ばせば九ユーゲラ〔面積単位〕はおろか、全世界をおおうほどであろうとも、永遠にティチュオスも苦痛を忍び得る筈もなし、自分の体から〔鳥共に〕いつまでも餌を与えて行き得るものではない。とはいえ、〔この世にも〕我々のティチュオスが現にいるのだ。愛欲に捕われて横たわっているところを鳥がつつき荒している――つまり、不安な恐怖が食いちぎっているか、又はその他別な欲のために、憂いが傷つけ荒しているのだ」(3. 978-994より、153ページ)

「たとえ君の好きなだけの多くの世代を生き抜いて完うすることが、よしんば出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているであろう。そして、今日一日で生命を終った人でも、幾月も幾年も多くの歳月を経て死んだ人よりも、短い時を過したとは云えないであろう」(3. 1076-1094より、158ページ)

 第四巻では、「映像」というやや定義のわかりにくい概念と、精神とが語られている。

「精神自体が緊張して留意するもの以外は、精神が見落してしまうということは、何ら異とすべきではない。次に、我々が想像するのは、大部分微細なる証左から想像するのであって、我々は我々自身を錯覚に陥らしめたり、自ら自身を瞞いたりするものである」(4. 777-817より、191ページ)

 だが、この巻でとりわけ興味深いのは、いささか唐突に現れる愛についての議論だろう。エピクロス哲学が「快楽主義の哲学」と呼ばれている理由が、これを読むとよくわかる。

「これが我々の愛(ウェヌス)である。これから愛(アモル)の名称〔即ちクピードー、欲望の意〕が生じている。これを基として、愛の甘いあの滴が心の中に注ぎ込まれ、それに続いて冷い心痛が起って来る。例えば、愛する相手がいなくても、その映像が眼前にあり、その人の嬉しい名前が耳に聞えたりする。然しながら、この映像は避くべきであり、愛を育むものは遠ざけ、心を他に転じ、集った液体はどんな肉体にでも注入し、とどめ置くことをせず、ひとたび一人の愛にまき込まれても、憂いや頑な苦痛を保持しないようにすべきである。何故ならば、初めの傷を新しい刺戟を加えてまぎらし、傷の新しい内に、移り気な愛で気まぐれな振舞いをして治療し、心の動きを他に転じ得ないならば、傷は活発となり、育むことによって痼疾化し、日毎に狂気はつのり、苦悩は悪化するばかりだからである」(4. 1058-1072より、200~201ページ)

「首尾よくいった極めて幸運な恋にさえ此のような禍が見うけられるが、不幸な、不成功の恋愛には、眼を閉じていても見えるくらい、禍は無数にある。従って、前もって用心し、私が説いたような方法を用いて、つり込まれないよう警戒するに起したことはない。というのは、恋愛の罠にかかるのを避けることは、かかって後罠から抜け出るのよりは、又愛の絆を断ち切るのにくらべれば、さして困難なことではないからである。然し、引っかかって、巻き込まれてしまった後でも、危険を避けることはできる。但し、君が君自身を妨げない〔愚図々々しない〕限り、又君が好きになり、得たいと思う女の持っている先ず精神上の欠陥、乃至は肉体の欠点を見のがさない限りは――である。即ち、色欲に盲目になると、それを見のがすものであり、女が実際は持っていない美点を、持っているもののように思い込んでしまうからである。であるから、多くの点で歪んだ醜い女が可愛らしいと思われたり、最も誉あるものと遇されたりしているのは、我々の見受けるところである。そして、甲は乙を笑い、乙が見苦しい恋に捕われているからとて、愛の神(ウェヌス)に気に入られるようにしたらどうだと罵りながら、哀れにも自分の方の極めて大きな失態は省みようとはしない者が間々ある」(4. 1141-1170より、204ページ)

 つまり、叶わぬ恋に身をやつすくらいなら、溜まったものを他の相手に発散させてもらえ、と言っているのである。オウィディウスは『恋愛指南』を書いて、ローマの風紀を乱したかどで流刑に処されたというが、ルクレティウスがなぜ無事で済んだのか、さっぱり理解できない。

「ところが、然し、今容貌は如何に立派であろうとも、女の肉体全身から愛の力が発散されていようとも、女は他に幾らでもあることは確かだ。この女一人がいなかったとしても、我々はこれまで生きて来られたことは事実だ。この女のする事は、醜い女がすることとすべてに変りがないことは確かだ」(4. 1171-1191より、205ページ)

「愛を生ぜしめるものは習慣だからである。例えば、如何に軽くとも頻繁な打撃を反復して受けるものは、永い間には負けて、倒れ易くなるものである。石の上に落ちる水滴でさえ、永い間には石に穴をうがつのを見るではないか」(4. 1278-1287より、210ページ)

 第五巻では気をとりなおして(?)、これまでの議論を踏まえつつ、さまざまなものの起源が語られている。

「仮りに我々〔人間〕が造り出されなかったとしても、それが我々にとって一体何の禍であろうか? 即ち、一旦生れ出て来たものは、甘い快楽が引き止めている限り、生命に止りたがるに違いないからである。ところが、生命への愛着を味ったことのない者、即ち生命を有する者の仲間に加ったことのない者は、生れ出なかったと云うことは何の痛痒も感じないわけではないか」(5. 165-194より、218ページ)

「ところで、仮りにもし私が物の原子の何であるかを知らないとしたところで、天空の運行そのものから見て、私は敢えてこう断言する、又その他多くの事実から推して、敢えてこう解釈する、即ち、世界は断じて神々の力によって我々の為に造られたものではない、と。世界には、実に多くの欠陥が具わっているではないか」(5. 195-217より、219ページ)

 もちろん、ルクレティウスにかかれば、神話的な要素はいっさい消え失せる。これは神話に拠らない世界の起源を説いた、現存する最古の書なのではあるまいか。

「大地にも天空にも全然誕生の起源がなかったとしたならば、又これらが永遠の〔昔からあった〕ものだとしたならば、何故テーバィ人達の戦いやトローイアの滅亡の前にも他の詩人達がほかの事をも歌っていないのだろうか? 一体何処へ、人々の幾多の業績がそれほど頻繁に消え失せてしまったのか? 何処にも、栄誉を永遠に伝える記念碑に折り込まれて花を咲かしていないのは何故であろうか? 然し、私の思うところでは、宇宙は新しく、世界は未だ若く、生れ出たのがさほど古くはないからである。だからこそ、今に至るも未だに或る種の学芸は進歩をたどり、今になお発展を見ているのだ」(5. 324-350より、224ページ)

 最初にも書いたことだが、神意を否定することなくして、科学は生じ得なかったのだ。たとえばクローン人間を作ろうとすることは、現代では倫理に反することとして禁じられているが、ルクレティウスが試みたのは、これに近いことだったのではないか、とさえ思う。

「このような現象を神々の仕業に帰し、のみならず、痛烈な怒りをも神々に持たしめたとは、おお、人類は不幸なるかな! 何たる大きな苦しみを彼らは自らの身に考え出したことだろう! 何たる深い傷を我々の身に、何たる涙を我々の後裔に造り出したことだろう! 又、頭を包んで頻りに参詣し、石〔の像〕に面することも、あらゆる祭壇に近づくことも、地上に平伏して神々の社殿の前に掌を拡げることも、四足獣の血を多量に祭壇に注ぐことも、誓言〔願がけ〕に誓言を重ねることも、決して敬虔の念ではない。敬虔の念とは、むしろ精神を平静にして万事を眺めることのできる態度に外ならない。頭上の宏大な宇宙の天界に、又輝く星をちりばめた上空(アエテル)に眼を向ける時、又太陽や月の進路が心に浮ぶ時、他の心配に既に圧倒されている心に又別な憂いが目ざめて頭を持ちあげ始め、種々な運行を以て輝く星群を廻転させるほどの巨大な力は、ともすれば神々の力ではあるまいかと云う気を起す。何故ならば、解釈の方法がないと云うことは、心を不安に陥れるもので、宇宙には果して生誕があったものかどうか、又それと同時に、宇宙の壁が間断ない運動の此のような労苦に耐え得る限度があるかどうか、それとも、神意によって恒久の生命を与えられて、永遠なるものとして、巨大な時の流れに乗って辷りながら、時の強力な力を無視できるものなのかどうか、を決しかねるからである」(5. 1194-1216より、258ページ)

 また、世界の起源から社会の発生までを語る筆致は、かつてない疾走感を帯びている。生まれたての社会と比したときに生じる、ルクレティウスが生きたローマに対する嫌悪感は、そのまま現代にも通用するものだろう。

「〔戦場で〕何千という多数の兵士が軍章の指揮下に、唯だ一日にして斃されるようなことはなかったし、海の荒れ狂う波が船や人間を岩に打ち上げるようなことも見られなかった。その頃は、時に海が波を高めて荒れ狂うことがあったところで、又おとなしく空な威嚇を収めたところで、一向何の意味もなく、無駄な、何にもならないことであって、波を笑わせて、おだやかな海の狡猾な誘惑が瞞そうと誘っても、誰もこれに引っかかる者はなかった。無暴な航海の術は当時未だ知られていなかったからである。その当時は又、食料の欠乏が疲れ行く体を死なしめていたのだが、現今では此の反対で、有り余る豊かな食物が〔人間を〕殺している。その頃の人間は時として自分の身に毒を飲む粗忽な者もあったが、現今では人は巧みに他人に毒を盛っている」(5. 988-1010より、250ページ)

「人類は絶えず徒らに又無駄に齷齪し、空疎なる心労に生命を費しているが、明らかにその理由は所有するということには如何なる限度があるかを知らず、又真の快楽は如何なる程度まで増大し得るかの範囲に全く無智であるが為である。そして此の無智こそ、徐々に生命を深い海の中へ持ち出し、戦いの大波を底から掻き立てて来たところのものである」(5. 1416-1435より、267ページ)

 これもまた、すでに語られてきたことである。先にも見たとおり、同じことが新たなる根拠とともに繰り返されている。

「財宝も、高貴な生れも、又名家の誉れも、われわれの肉体にとってすら何の益にもならない以上、われわれの精神にとってもまた利するところは全くなしと断ぜざるをえない」(2. 37-61より、63ページ)

「誰でも真の理性を以て人生の生活方針を定めようとするならば、乏しさに甘んじて、心を平静に生活することこそ人間にとって此の上もない莫大な富なのである。乏しいと云うことには欠乏がないからである」(5. 1105-1135より、254~255ページ)

 第六巻は自然現象の解釈、つまりいっそう実践的な神意の否定だ。ここに書かれていることの多くは、自然科学史を学ぶつもりで読むべきなのだろう。ヘクトパスカルがどうこうと意味もわからずに言っているわたしのような無学者は、早々に打ちのめされてしまう。だが、印象的な文章はもちろんあった。

「人々は、この宏大なる宇宙も或る終局の時、即ち崩壊は免れないということを信ずることを恐れている」(6. 557-576より、290ページ)

「より大きな河を以前見たことのない者には、どんな河でも一番大きな河に見えるものであり、樹にしても、人にしても巨大に見えようし、あらゆる種類のものでも、誰でも一番大きいと思って見たものはすべて、これ巨大なものと想像するものであるが、然し、天も地も海も一とまとめにしたすべてでも全宇宙の総和に較ぶれば無に等しいものである」(6. 647-679より、294ページ)

 以上、全六巻のうち、琴線に触れた文章を紹介してみた。が、こんなにも読み終えた気がしない本もそうそうない。しばらくは手の届く位置に置いておくことになりそうだ。

 昔の岩波文庫の多分に漏れず、字が小さい。それに、先日読んだテオフラストスのように、校訂注を別にして、巻末に回してほしかったとも思う。翻訳があるだけで満足すべき、と自分に言い聞かせつつも、不満があるのは否めない。と、ここまで書いてみて、なんとたった今知った。この本は2006年に近代文芸社から新訳が出ているのだ! 塚谷肇訳『万物の根源/世界の起源を求めて』である。なんだよ! 再読するときは、訳者を変えてみてもおもしろいかもしれない。とはいえ、この本の訳文そのものが悪いとはまったく思っていないので、興味のある方はどちらも視野に入れてほしい。何度も読み返したくなる本、というか、読み返さざるを得ないような印象を与える一冊だった。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 


<読みたくなった本>
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

 
ギリシア哲学者列伝〈中〉 (岩波文庫)

ギリシア哲学者列伝〈中〉 (岩波文庫)

 
ギリシア哲学者列伝〈下〉 (岩波文庫)

ギリシア哲学者列伝〈下〉 (岩波文庫)

 

エピクロス『教説と手紙』

エピクロス 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 

アナトール・フランスエピクロスの園

エピクロスの園 (岩波文庫)

エピクロスの園 (岩波文庫)

 

エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」

ギリシア悲劇〈4〉/エウリピデス〈下〉 (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈4〉/エウリピデス〈下〉 (ちくま文庫)

 

アイスキュロスアガメムノン

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

 

カミュ『シーシュポスの神話』

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

スワンテ・アーレニウス『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』

宇宙の始まり―史的に見たる科学的宇宙観の変遷

宇宙の始まり―史的に見たる科学的宇宙観の変遷

 

トゥキディデス『戦史』

戦史 (中公クラシックス)

戦史 (中公クラシックス)

 

ホラティウス『詩論』

詩学 (岩波文庫)

詩学 (岩波文庫)