Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

本当はちがうんだ日記

 岸本佐知子『気になる部分』と同様、読書に疲れたときに読んでいた一冊。先日『短歌の友人』を読んで以来ずっと気になっていた、穂村弘のエッセイ集。

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

 

穂村弘『本当はちがうんだ日記』集英社文庫、2008年。


 エッセイという形式の自由度の高さには驚くばかりだ。世の中にはじつにたくさんのエッセイストがいて、それぞれがまったくちがう文章を書いている。モンテーニュだって吉田兼好だってエッセイストなのだろうし、哲学に分類されるヴォルテールの著作の一部やアランの『幸福論』なんかも、かなりエッセイ色が濃いものだろう。フランス語の「Essais」が原義的には「試み」を意味すると知ってはいても、エッセイがなんなのかを定義することはできない。立てつづけに二冊のエッセイ集を読んで、そんなことを考えた。

 二冊とも抱腹絶倒まちがいなし、電車のなかではぜったいに読めないような代物なのだが、岸本佐知子の笑いはその描かれる対象の微小さ、だれも言語化したことのなかった細部に焦点を当てたことから生じていた。では、『短歌の友人』のなかで細部の重要性を何度も繰り返していた穂村弘はどうかというと、すこしちがう。このひとの場合は、対象はなんでもいい。細かくても大きくても構いはしないのだ。それを描く筆致に笑いがあるのだから。

「私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故なのだろう。果実の薫りとキャラメルの味わいの飲み物が、地獄の汁に感じられるのは何故か。それは、おそらく、私自身がまだエスプレッソに釣り合うほどの素敵レベルに達していないからだ。私の素敵レベルは低い。容姿が平凡な上に、自意識が強すぎて身のこなしがぎくしゃくしている。声も変らしい。すぐ近くで喋っているのに、なんだか遠くから聞こえてくるみたい、とよく云われる。無意味な忍法のようだ」(「エスプレッソ」より、13ページ)

「屋台のおでん屋さんなどに対する憧れはあるのだが、どう注文して、お金を払えばいいのか解らないので椅子に座れない。一緒に歩いている女性が、「わあ、いい感じ。こういうところで食べてみたい」などと云いだすことがあるが、「じゃあ、入ろう」と云えずに、怒ったような顔になってしまう。本当は私も屋台で食べてみたい。でもファミリーレストランの方が安心なのだ。結局、むにゃむにゃ云いながら女性をココスに連れていってしまう」(「夜の散歩者」より、120ページ)

 まったく衒いがないのだ。というか、衒いのなさもここまでいくとほとんど自己嫌悪である。女友達に「うじうじしててかわいい」とか言われていることまで(46ページ)、すんなりと書けてしまうことのすごさ。

「家に帰って服を着替えようとすると、コートや上着やズボンのポケットから小銭が出てくる。左右のポケット、胸ポケット、内ポケット、尻ポケットからもちゃらちゃらと、それから空っぽの小銭入れがころんと現れる。なんなんだこれは、と思う。小銭入れが何の役にも立っていない。レジでお釣りを受け取るときに、その場で落ち着いて収納することができずに、ポケットのなかにばっと放り込んでしまうからこうなるのだ。それは男らしい乱暴さというわけではない。きちんとしまうのが面倒臭いわけでもない。なんというか、私はその間の手順というか時間の流れに耐えられないのだ」(「現実圧」より、16ページ)

「私は十年間通ったスポーツジムでとうとうひとりも友達を作れなかった。ダンベルを挙げたり下げたりするだけで、誰ともひと言も口を利かない私は「修行僧」と呼ばれていた。ちがうんだ。修行じゃないんだ。世のなかにはフィンランドに友達がいて鮭の燻製を贈られたりするひともいるという。いったいどんな感じなんだろう。眩しい眩しい鮭の燻製」(「友達への道」より、114ページ)

 思っていてもふつうは書かないようなことを、穂村弘はなんのためらいもなく告白している。それがおかしい。しかも、『短歌の友人』に見られた論理性は、日常生活でも失われていない。だが、その論理自体がおかしい。

「時間管理についての啓発本では、必ず「優先順位」の重要性が説かれている。時間を無駄にしないためには物事に優先順位をつけて、それがより高いものから手をつけることが大切です。わかっている。私は時間管理本を五十冊読んだ男だ。だが、気がつくと私の優先順位は完全に狂っている」(「優先順位」より、37ページ)

「学生時代に英文学科の劣等生だった私は、外国人の女性とつき合いたいと思っていた。男女交際をするなかで、自然に外国語も学べて得だからである。それなら私はマッサージ師とつき合いたい、と云った肩こりな女子学生がいたが、それは邪念というものだろう。何故なら外国人は自然に外国語を話すが、マッサージ師は自然にマッサージをするわけではないからである」(「世界の二重利用」より、41ページ)

 とにかく変な人なのだ。自分の異常さを意識していないことが、なおさらおかしい。笑いをとるために「自分はこんなに変なんだよ」というような書き方をしているのではなく、いろいろと前提がおかしいのである。それから、ほんとうに常にうじうじしている。

「それがどんなジャンルの事項であれ、例えば、六十七勝七十三敗からの一敗は何ということもない出来事だ。そこからさらに三連敗してもなんとか耐えられるだろう。だが、0勝0敗からの一敗は怖ろしい。三連敗などしようものなら、自分はこのまま生涯一勝もできずに終わるのではないか、という恐怖に囚われてしまう。その予感が私を動けなくする」(「つるつるの絶壁」より、35ページ)

「私は今年四十一歳になるのだが、結婚したことがなく、子供を持ったことがなく、家を買ったことがない。その理由はこわいからである。何故こわいのか、それらはいずれも「なかった」ことにするのが困難な項目だからだ。
 実際に試してみて、もしもうまくいかなかったらどうしよう、と思うのだ。結婚したあとでもっと好きなひとができたら、どうするのか。家を買ったあとでローンが払えなくなったり奥さんとうまくいかなかったら、どうするのか。子供を作ったあとで可愛いと思えなかったら、どうするのか。
 ちなみにこわい順番を並べると、子供を持つ>家を買う>結婚する、となる。これはつまりリセットの困難さの順である。結婚はまだいい。お互いの合意があれば離婚というかたちで解消できる。だが家は一旦買ってしまったら、簡単には売ったりできなさそうだ。さらに子供に至ってはリセット不可能だ。いったんこの世に生まれてしまったら「なかった」ことにはできない。子供を裸にして全身を隈なく調べても、どこにもリセットボタンはついていない。いちばんこわい」(「リセットマン」より、49~50ページ)

 どう考えてもその選択はないだろう、というようなことも、平気でやっている。

「以前、女友達が風邪で寝込んだことがあった。私はお見舞いにいこうと思ってコンビニエンス・ストアに寄った。だが、寝込んでいる女性に何をもっていけばいいのかまったく思い浮かばない。困った私は「ペヤングソースやきそば」と「焼そばU.F.O.」をレジにもっていった。
 「これ、お見舞い」といってそれらを袋から出したとき、彼女は一瞬、悲しそうな目をした。
 「ありがとう。でも、ごめんなさい、私、今ちょっとそれ食べられないわ」
 「え、そう?」
 「よかったらほむらさん召し上がって」
 「う、うん、じゃあ」
 「今、お湯を沸かすわね」
 彼女はふらふらしながら台所に立った。
 私は彼女がつくってくれた「ペヤングソースやきそば」と「焼そばU.F.O.」を、ふたつとも食べて帰ってきた。
 あとから考えてみると、私はそのとき、とてもソースやきそばが食べたかったのだ」(「俺についてこい」より、54~55ページ)

 文章がとてもうまいのだ。言葉の取捨選択も絶妙だし、少ない言葉で多くのことを伝える術を熟知しているように思える。歌人だから、なのだろうか。オノマトペもずるい。

「もう退職してしまったが、会社の先輩にコーノさんというひとがいた。
 コーノさんは、みんなに怖れられていた。
 冬になると、会社にスキー手袋をしてくるからだ。
 コーノさんはコートを持っていないのか、どんなに寒い日でもスーツだけで出勤してくる。だが、何故か巨大なスキー手袋をはめているのだ。
 スーツに青いスキー手袋。
 両手が大きく膨らんだその姿は、みるものに恐怖を感じさせた。
 何かの拍子に、その手をぽんぽんとうち鳴らすことがあり、同じ課の女性たちはびくっとしたものだ。
 コーノさんのお昼ごはんも異様だった。
 自分の机の上で、ツナ缶を開けて、そのなかにマヨネーズをむりむりと絞り込み、ぐるぐるかき混ぜて食パンの上に載せる。それをはぐはぐはぐはぐと食べる。
 初めてその光景を目にした者は、みてはいけないものをみてしまった気持ちになるのだった。
 スキー手袋は軽くて暖かい。それはその通りだ。
 ツナサンドはおいしい。それもその通りだ。
 だが、コーノさんの場合、それらの使いどころというか、アプローチの仕方が、微妙に、しかし、決定的に狂っているのである。
 コーノさんは女子社員の間で「ツナ夫」と呼ばれていた」(「ツナ夫」より、66~67ページ)

 言葉に付着する、微妙なニュアンスにも敏感だ。

「SFとかミステリとか、ひとつのジャンルに特化したひとは、やはり怖いと思う。「SF者」とか「ミステリ者」とか云う言葉があった筈だ。初めてその言葉を知ったとき、何かを命懸けで背負っているようなニュアンスを感じてびびった。
 「詩人」とか「歌人」なども一見、似たような人種分類に思えるが、実際は、詩を作る人、歌を詠む人ということだから意味合いが違う。「SF者」「ミステリ者」の場合は、むしろキリスト者とか忍者とかに近いと思う」(「読書家ランキング」より、148ページ)

「若者たちは「カラーテレビ」という言葉を知っているだろうか、とふと思う。彼らにとってのテレビは「カラー」に決まっているからだ。或いは、「チャンネルを回す」の「チャンネル」や「回す」はどうか。
 今も「チャンネル」という言葉はあるが、それは、なんと云うか、放送の回線のことだと思う。「チャンネルを回す」の「チャンネル」はそうではなくて、丸い把手状のモノのことだ。私たちはそれを実際に手でガチャガチャと「回して」いた。「チャンネル争い」とは互いの主張のぶつかり合いといった抽象次元の話ではなく、「チャンネル」をガチャガチャと回しては、回し返されて、またまた回し返すという肉体の戦いなのだった。
 今から三十数年前、私の家に従兄弟たちが遊びにきた夜のこと、争いが白熱して「チャンネル」が「もげて」しまったことがあった。はっとして画面をみると、ドイツ語講座。私たちはショックで泣いた。未来永劫教育テレビしかみられないと思ったのだ。バチだ。みんなで仲良くしなかったからバチがあたったんだ。
 そのとき、私の父が「チャンネル」をぐいっと「はめて」くれた。「チャンネル」は再びガチャガチャと回るようになった。お父さんって凄い、と私は思った」(「テレビ」より、184~185ページ)

 それから、印象的な「張り紙」のエピソードがいくつもあった。なぜかどちらも古本屋。

「少し前の古本屋さんには、ひとめみた瞬間に、おっ、頑固親爺ですね? と云いたくなるようなタイプが多かった。そういう店に、例えばガールフレンドと一緒に入るのは大変プレッシャーがかかるのだった。
 女連れで本が選べるか、ふざけるな、ちゃらちゃらすんな、喋るな、本が腐る、という気配がむんむんなのである。男女関係と古本は排他の関係にあると固く信じているのだ。その証拠に、私は「カップルお断り」の張り紙のある古本屋を何軒もみた。あのう、夫婦もだめですか、と訊いている客もみた」(「カップルお断り」より、136ページ)

「一枚でも怖ろしい張り紙はある。それをみたのは深夜の古本屋だった。無表情な初老の男性がひとりでやっている店の、殺風景な店内に、唯一の張り紙として「それ」はあった。曰く「女子中学生は立読自由」。
 もしも私が女子中学生で、立ち読みをしながら、ふと目を上げたとき、顔の前にその張り紙があったら凍りつくだろう。「立読厳禁」や「万引きは警察に通報します」ならぜんぜん怖くないのだが」(「あたまたち」より、30ページ)

 古本を買うときの論理も、すこし共感できる。これもふつうだったら書かないようなことだ。

「一冊ずつ買っている分にはまだいいのだが、ほぼ同じ理由で買い集めた大量の富士見ロマン文庫やサンリオSF文庫が手放せなくて困っている。自分の本棚を眺めながら、決して読まないものがここにこんなにあるのは何故だろう、と不思議に思う。いや、勿論、買ったからそこにあるのだ。しかも、私はそれらの殆どを古本屋で定価以上の、ときには一冊六千円などという値段で買っている。しかもしかも、どうやらそれが定価以上だったからこそ買ってしまったふしがある。「読まないとわかっている本が定価以上の値段だったから買ってしまう」などということが何故起きるのか。もはや超自然現象である」(「ロマン文庫の皮剥き」より、156~157ページ)

 結局、書き方自体におもしろみがあるので、いつまでも読んでいたいと思えるのだ。なにを書かせても笑えるので、飽きることがない。

「落ち着いた雰囲気のカフェで珈琲を飲みながら、買ったばかりの古本を開いて、幸せだなあと思っていた。そのとき、少し離れた席で赤ん坊が泣き出した。怒っているような泣き声だ。
 周囲の大人たちが色々とあやしているようだが、全く泣きやむ気配がない。私は、うるさいな、と思って苛々しながら聞いていたのだが、そのうちになんとなく、負けた、という気分になった。感じのいい音楽が流れ、珈琲の匂いが漂っているこの快適な空間で、あんなに不満そうに泣き続けるなんて凄い。
 赤ん坊にしてみれば、お腹が減ったとか、うんちを漏らしたとか、何か事情があるのだろう。だが、そのような原因が全くない可能性もある。産まれる前に比べて、単に「この世」の全てが気に入らないのかもしれない」(「「この世」の大穴」より、180ページ)

 笑った文章をいちいち挙げていたらきりがないので、ぜひ手にとってみてもらいたい。ほかのエッセイ集も読んでみたいと思った。

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)