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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

眠れる美女

 友人がさまざまな文学作品の書き出しをコレクションしていて、それを見せてもらったとき、ひときわ輝いていた一冊。

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

川端康成眠れる美女新潮文庫、1967年。


 読み終えたのはじつはかなり前なのだが、いま見てもほんとうに息を呑む、続きを読まずにはいられなくなる書き出しである。川端康成の書き出し、と言えば「雪国」のものが有名だが、本書に収められた三篇を読んでみて、この作家の書き出しに対する意識の高さ、というか熱意を、まざまざと見せつけられた気がした。というわけで、こんな邪推も浮かんだ。「雪国」の書き出しを有名にした国文学者たちは、じつはみんな揃って「眠れる美女」のほうを気に入っていたのだが、でも、これは教科書に載せるにはちょっと問題があるからなあ云々、と議論し合い、結果的に「雪国」のほうを手放しに賞讃することにし、この作品に関しては沈黙を守ることにした、のではないか(そんな会議がほんとうにあったなら、すみっこでひっそり聞いていたいとさえ思う)。以下が、その書き出し。

「たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した」(「眠れる美女」より、9ページ)

 そもそも、書き出しに気をつかわない作家などいそうもないから、意識の高さがどうこう、という言い方はおかしいのだろう。奇を衒ったことを書きたがる作家もいれば、かぎりなく詩的な一行をそこに置こうとする作家もいる。川端康成の場合は、目的が一貫している分、わかりやすいのだ。彼の書き出しは、読者たちを物語のなかへ引きずりこむための、最短距離を狙って書かれたものなのである。江國香織の言葉を借りれば、それは「鮮やかな手口の誘拐」だ。本書に収められたほかの二篇も、鮮やか。

「「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた」(「片腕」より、119ページ)

「滝子と蔦子とが蚊帳一つのなかに寝床を並べながら、二人とも、自分達の殺されるのも知らずに眠っていた」(「散りぬるを」より、153ページ)

 とはいえもちろん、ノーベル文学賞は書き出しだけで取れるものでもないだろう(具体的になにをしたら取れるのかがわからないというところが、この賞の魅力である)。誘拐されるがままに連れてこられた空間で、われわれは執拗きわまりない肉体描写と向き合うことになる。しつこい。もう、とことんしつこい。

「娘は右の手首をかけぶとんから出していて、左手はふとんのなかで斜めにのばしているようだったが、その右の手を親指だけが半分ほど頬の下にかくれる形で、寝顔にそうて枕の上におき、指先きは眠りのやわらかさで、こころもち内にまがり、しかし指のつけ根に愛らしいくぼみのあるのがわからなくなるほどにはまげていなかった。温い血の赤みが手の甲から指先きへゆくにつれて濃くなっていた。なめらかそうな白い手だった」(「眠れる美女」より、16ページ)

「娘は両腕を出して、右腕を枕において、その手の甲の上に右の頬をのせた。指だけが江口に見える、のせ方だった。まつ毛の下に小指があって、人差指が脣の下から出ているほどに、指は少しずつひらいていた。親指はあごの下にかくれていた。やや下向きの脣の紅と四つの長い爪の紅とが枕の白いおおいのひとところに集まった。娘の左腕も肘から曲げて、手の甲はほとんど江口の目の下にあった。ゆたかな頬のふくらみのわりに手の指は細い長さで、そのような脚の伸びまで思わせた。老人はあしのうらで娘の脚をさぐってみた。娘の左手の指も少しひらいて楽におかれていた。その娘の手の甲に江口老人は片頬をのせた。娘はその重みに肩まで動かせたが、手を引き抜く力はなかった」(「眠れる美女」より、44ページ)

 ちなみに表題作の「眠れる美女」の舞台は、「すでに男ではなくなった老人たちのための逸楽の館」である。そこでは若い女が一糸まとわぬ姿で眠らせられていて、老人たちは金を払って彼女らと一晩を共にするのだ。

「江口は枕に片肘突いて娘の手をながめながら、「まるで生きているようだ。」とつぶやいた。生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。なにもわからなく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈められているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているのではないが、もう男でなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない」(「眠れる美女」より、17ページ)

「若い女の無心な寝顔ほど美しいものはないと、江口老人はこの家で思うのだった。それはこの世のしあわせななぐさめであろうか。どんな美人でも寝顔の年はかくせない。美人でなくても若い寝顔はいい。あるいはこの家では、寝顔のきれいな娘をえらんでいるのかもしれなかった」(「眠れる美女」より、70ページ)

 この作品は2005年にドイツで映画化もされている。どんな作品になっているのだろう、と思ってインターネットで調べてみたら、いくつかのサイトで「このサイトはポルノなのでアクセスできません」と、現在住んでいる国の厳格きわまる規制にはねつけられた。おれは芸術について調べているんだ! と叫んでみたところで、見られないものは見られない。

「娘はこちらを向いてくれて寝ていた。こころもち頭を前に出して胸をひいているので、ういういしく長めな首のあごのかげにあるかないかの筋が出来ていた。長い髪は枕のうしろまでひろがっていた。きれいに合わせた娘の脣から江口老人は目をそらせて、娘のまつ毛と眉をながめながら、きむすめであろうと信じると疑わなかった。江口の老眼には、娘のまつ毛も眉もひとすじひとすじは見えない近さにあった。うぶ毛も老眼には見えない娘の肌はやわらかく光っていた」(「眠れる美女」より、36ページ)

「江口老人は坐って、娘の長い爪をいじっていた。爪ってこんなにかたいものか。これが健やかに若い爪なのか。爪の下の血の色が生き生きとしている」(「眠れる美女」より、101ページ)

 主人公の江口老人は昏睡状態にある美女たちと向き合い、じつにいろいろなことを試す。やりたい放題。自分はほかの老人たちとはちがう、と何度も主張しているのだが、その行動は「眠れる美女の館」の正しい楽しみ方であるような気がしてならない。

「江口は娘をはげしくなぐってみるか、ひねってみるかとも考えたが、じりじりと抱きよせた。娘はさからいもしなかったし、声も立てなかった。娘の胸は息苦しいはずだった。娘のあまい息が老人の顔にかかった。そして息のみだれてくるのは老人の方だった」(「眠れる美女」より、49ページ)

「江口は娘の指の組み合わせを解くと、親指をのぞく四本の指を一本ずつのばしてながめた。細く長い指を口に入れてかみたいようになった。小指に歯がたがついて血がにじんでいたら、この娘は明日めざめてからどう思うだろうか。江口は娘の腕を胴の方にのばさせた。そして乳かさが大きくふくらんで色も濃い、娘の豊かな乳房を見た。やや垂れぎみなのを持ちあげてみた。電気毛布であたたまった娘のからだほどではなく、それはなまぬるかった。江口老人は二つのあいだのくぼみに額をおしつけようとしたが、顔を近づけただけで、娘の匂いにためらった」(「眠れる美女」より、58ページ)

 現代文学におけるひとつの神話を題材にした『独身者の機械』の著者、ミッシェル・カルージュがこの作品のことを知っていたら、なんと言っただろう。愛のない快楽。いや、じつは快楽すらない。あの文芸評論に挙げられた作品群に並べるには欠けている要素がいくつもあるが、根っこの部分には通じるものがあるような気がする。

「眠らせられた娘のまくらもとにハンカチをおいておけば、紅がついているし、自分の口紅ははげているし、目をさました時には、やはり接吻を盗まれたと思うだろうか。もちろんこの家では、接吻ぐらいは客の自由にちがいない。禁制ではあるまい。どれほどの老いぼれも接吻は出来る。ただ娘が決して避けはしないし、決して知りはしないだけのことだ。眠った脣は冷めたくて、水っぽいかもしれぬ。愛していた女の死屍の脣の方が情感の戦慄をつたえないか。江口はここへ来る老人どものみじめな老いを思うと、なおそんな欲望は起きない」(「眠れる美女」より、103ページ)

 江口老人は眠れる美女の一挙手一投足を観察しながら、じつにさまざまなことを思い出す。この作品全体が、女の肉体の細密画的な描写とそれによって喚起される記憶から成り立っている、と言っても言いすぎではないほど。なかでも奈良の「散り椿」に関する描写はとくに美しく、いつか自分の目で見てみたいと思った。

「椿は花が首からぽとりと落ちて縁起が悪いともされているが、椿寺のは樹齢が四百年という一本の大木から五色の花が咲きまじり、その八重の花は一輪がいちどきに落ちないで、花びらを散らすから散り椿とも名づけられているらしかった」(「眠れる美女」より、53ページ)

 この、肉体によって記憶が喚起される、というのは、つぎの作品「片腕」においても同様である。その基礎にあるのはやはり執拗な描写。とことんしつこい。

「袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった」(「片腕」より、122ページ)

「私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない」(「片腕」より、128~129ページ)

 とはいえもちろん、しつこい、というのは悪いことではない。ロラン・バルト『明るい部屋』を引くまでもなく、美しさというのは細部に宿るものなのだ。「眠れる美女」も「片腕」も、無駄がなく完成度の高い短篇とは口が裂けても呼べない代物だが、ストーリーを度外視して淡々と描写を読んでみると、本筋とぜんぜん関係のないところに驚くほど美しい一文がひっそりと隠れている。無駄なものほど美しいものはないのだ。芸術とは無駄なものである。無駄でなければそれは芸術ではない。

「雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の燈が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った」(「片腕」より、123ページ)

「部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった」(「片腕」より、126ページ)

「失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった」(「片腕」より、140ページ)

 最後の短篇「散りぬるを」は、ほかの二篇とはすこし毛色がちがう。これはじつに現代的な、作家を主人公とすることで小説を書くこと自体をテーマにしたような小説である。巻末に収められた三島由紀夫の「解説」によると、これは「前二篇の解説的な役割をも果している」らしい(「解説」より、218ページ)。

「狂気の犯罪は正気の犯罪よりも遥かに悪であるという考え方の方が、曇らぬ目である。こんな気持が、当時の私には強かった。勿論、狂気と正気とのけじめは明らかでないという意見を押し進めると、狂気もなければ正気もないというところに落ちつく。この世のすべてのものごとは、ことごとく必然であって、またことごとく偶然であるというのと似ている。結局、必然と偶然とは同じであるということにならぬと、この問題はかたがつかない。しかしそんなところまで考えていては、裁判など出来るものであるまいから、山辺三郎が無期懲役になったって、私は異論をとなえようとは思わない。裁判官の務めは、そこらあたりで終っているのだろう。
 けれども、その終ったところあたりから、小説家の務めは始まるのではないだろうか」(「散りぬるを」より、154ページ)

「われわれの文学の意味ありげなこと、したりげなことは、すべて感傷の遊びかもしれない。山辺三郎の場合でも、その殺人の動機に、裁判官は多少精神異常的な偶然しか認めなかったようであるが、私の小説ならば、ともかくも彼の心理を、理由のない殺人にまで追い込んで行くことも、さまで困難なわざではないだろう。しかし、私がそれを書いてみたところで、私のもっともめかした記述よりも、三郎自身のもっともめかさない供述の方が、どれだけもっともらしいかしれないのである」(「散りぬるを」より、155ページ)

 ごらんのとおり、山辺三郎という男はこれといった理由もなく二人の女を殺してしまったのだ。「理由のない殺人」という言葉、それから「もっともめかさない供述の方がもっともらしい」という一文から、カミュ『異邦人』、とりわけその後半部を思い出さずにはいられない。これを書いたとき、川端康成カミュを読んでいたのだろうか。

「私が彼の自白に敬意を払うのは、私の作家的懐疑や怯懦によるのではなく、滝子と蔦子とへの私の愛着のせいなのだろうと思う。彼は彼女等を殺す理由がなにもなく、彼女等は彼に殺される理由がなにもなかったのだから、私はこの殺人を、彼の生涯になんの連絡もないもの、彼の生活になんの関係もないもの、つまり、この一つの行為だけが、ぽかりと宙空に浮んだもの、いわば、根も葉もない花だけの花、物のない光だけの光、そんな風に思いたがっているのではないかしら。これも彼女等を美化する一つの方法にはちがいないけれど、彼女等を手にかけた山辺三郎への私の嫉妬の結果にもちがいないだろう」(「散りぬるを」より、157~158ページ)

「意識鮮明の嚇かしのくだりの陳述と、意識溷濁の殺しのくだりの陳述と、どちらが私の心を惹くか。いうまでもなく、殺しのくだりの方が小説家には無限の豊富な世界であろう。三郎が自ら手にかけた滝子の死骸の傍に、二時間も寝こんでおったなどの奇怪もある。しかし私ははじめからそのような誘惑にはつかまるまいとつとめて来た。常識から見れば、滝子の胸を刺してからの三郎は、もはや三郎ではない。自分を失った彼をあやつったものはなにか。それこそまことの彼自身であるという見方は、むしろあまりに真実過ぎて、神の目ならぬわれらには反って真実の仮面の道化芝居となる恐れがある。だから私のこの小説は、殺しのくだりでは滝子と蔦子とに心を寄せ、嚇かしのくだりでは三郎に思いを近づけたのであった」(「散りぬるを」より、205~206ページ)

 殺されてしまった滝子は作家になることを夢みていた文学少女で、すでに作家の語り手とは近しい関係にあった。回想された二人の会話がおもしろい。この本を手に取る直前に、倉橋由美子の評論を読んでいたので、なおさら。

「「女流作家? ――女の作家なんて一人もいやしない。」
 「えらい人はでしょう?」
 「えらいもえらくないも、てんでそんなもの一人もいやしない、女の作家というものはないんですよ。作家があるだけなんです。」
 「ほんとうにそうですわ。」
 「ちがいますよ。あんたなんかもね、女流作家になりたいなら、文学なんぞあきらめちゃって、お嫁入りするんですね。文学なんかは、もっと人生でひどいめにあってから、はじめたがいいですよ。文学にだまされるよりも、男にだまされた方が、よっぽど女流作家ですよ。今のあんたはいかにも女流作家だ。女の作家にはちがいないです。しかしあんたが活字になるような小説が書け出したら、あんたはもう女の作家じゃありゃしない。男の作家の真似をするだけですよ。女でなくなりますよ。女でない、ろくでもない女になりますよ。文学には、女のすることなんかないんですよ。」」(「散りぬるを」より、183~184ページ)

「悪い文学は美しい感情で作られるということがあるが――あんたから預かった小説を四つ続けざまにさっき読んだんですよ、皆文学にもなにもなってやしない。人を没我的に愛して、相手からさんざん踏みつけられて、その同じことを幾度くりかえしても、やはりおめでたく愛している、自分がそんな女だという広告文ですよ、どの作もね。男をいい気につけあがらせる恋文みたいなもんですよ」(「散りぬるを」より、185ページ)

 この「悪い文学は美しい感情で作られる」というのは、太宰の言葉だろう。『晩年』に収められた「道化の華」に、「美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る」とある(太宰治『晩年』新潮文庫、150ページ)。太宰を読んだ記憶というのはいつまでもついてまわって、なにかをきっかけにひょっこり顔を出してくる。そのたびに読みたくてたまらなくなる。

「「しかし、過去ってものは、いったい失われたり、消え去ったりするものかしら。」
 「ところが、そいつを人工的に保存する工夫を覚え出した時から、人間の不幸がはじまったような気もするな。」」(「散りぬるを」より、164ページ)

「忘れるにまかせるということが、結局最も美しく思い出すということなんだな」(「散りぬるを」より、165ページ)

 川端康成の文章は、フランドル派の絵画のようだ。それも肖像画ではなく、静物画のほう。作中の「眠れる美女」も「片腕」も、命あるものというよりはオブジェとして描かれていて、だからなおさら『独身者の機械』を思い出させるのだ。

文学少女も髪結の梳手も、殺される時には変りがないわね」(「散りぬるを」より、156ページ)

 日本文学のことはほとんどなにも知らないのだけれど、たまに読んでみると、たいていひどく驚かされる。これまでにない感覚、読書体験だった。

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)