ガリレオの生涯
沈黙していた期間、わたしは読書時間のほとんどを科学読み物に費やしていた。「科学読み物」とわたしが呼ぶのは、科学そのものについての最先端の論文などではなく(そんなものは読めない)、それらを平易な内容に噛みくだき、典型的文系であるわたしのような人間にも理解できるように書かれたもののことである。サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』の翻訳で知られる青木薫の一連の訳書などはその典型で、ほかにスティーヴン・ホーキングやリチャード・ドーキンスなども読んだ。これらの書物もいずれ機を見て記事にしたいと思っている。
ところで、わたしが関心を持っているのはじつは科学ではなく、科学者たちの姿勢である。新たな発見には必ず過去の説明への批判が含まれており、批判精神ほどわたしを惹きつけるものはないのだ。科学史上の発見の数々はときおり神意をも否定しており、ルクレティウスの『物の本質について』を見ても明らかなとおり、その傾向は物理学において特に甚だしい。世界のあり方を記述する物理学という学問は、同じことを神意によって語ろうとする宗教と、真っ向から対立することが多いからである。20世紀最大の物理学者、アインシュタインが神を信じられるはずがなかった。最近では無神論者でなければ科学者はつとまらないとさえ考えているのだが、この科学と宗教の対立構造に、歴史上かつてないほど人生を狂わされた人物がいる。それが今回紹介する戯曲の主人公、ガリレオ・ガリレイである。
ベルトルト・ブレヒト(谷川道子訳)『ガリレオの生涯』光文社古典新訳文庫、2013年。
ブレヒトのこの本のことを初めて知ったのは、まだ日本で書店員をやっていたころ、友人たちと企画したフェアがきっかけだった。あまり読まれていない海外文学を特集しようという企画だったのだが、ある友人の選書のなかにこの本が含まれていたのだ。選んだ本にはそれぞれ短い推薦文を書くというルールを設けたのだが、その本を選んだ友人は、推薦文に代えて以下のセリフを引用していた。
「アンドレア (大声で)英雄のいない国は不幸だ!」(215ページ)
「ガリレオ 違うぞ。英雄を必要とする国が不幸なのだよ」(216ページ)
読んでみるまで、これらのセリフが結末にほど近いところで登場するものだとは知る由もなかったのだが、いま思ってみても、これは秀逸な引用だったと思う。ブレヒトという書き手の知性が、直接伝わってくるではないか。この文章をはじめて目にしたときからずっと、この本はいつか読んでみたいと思っていた。
「ガリレオ 何千年もの間「信仰」が鎮座していたところを、いまや「疑い」が占拠しているのさ。世界中が言っているんだ、本に書いてあることでも、自分の目で確かめようって、ね。絶対の権威と思われた真理が肩叩きにあい、一度も疑われなかったことが、疑われ始めている」(17ページ)
「サグレド それじゃあ、月と地球の間に違いはないのかい?
ガリレオ ないようだね。
サグレド ローマで一人の男が火あぶりになってから、まだ十年もたっていないんだぞ。ジョルダーノ・ブルーノ、彼も同じようなことを主張した。
ガリレオ そうだ。そして我々は、それをこの眼で確認している。君の目を望遠鏡にあててみろよ、サグレド。君が見ているのは、天と地には何の区別もないという事実だ。今日は1610年1月10日。人類がその日記に、天国が廃止された、と書く日だ」(52ページ)
じっさいに読んでみると、やはり記憶に留めておきたい一文に溢れている。これこそまさしくわたしが科学者たちに求めていた姿勢であり、宗教を含めあらゆる既存の観念に対する批判精神、疑いである。
「フェデルツォーニ 驚かれるでしょうが、天の殻なんてものも存在しないのです。
哲学者 どんな教科書にだって、天の殻は存在すると書いてありますよ、君。
フェデルツォーニ だったら、新しい教科書をつくらなければ。
哲学者 殿下、我が尊敬すべき同僚と私が論拠としておりますのは、あの神聖なアリストテレスその人の権威に他ならないのであります。
ガリレオ (殆どへりくだって)皆様方、アリストテレスの権威を信じることと、事実を手でつかむということとは、別のことでございます」(88~89ページ)
「ガリレオ 真理とは、時代の子供であって、権威の子供ではありません」(90ページ)
科学者、という言葉は、そのままわたしのお気に入りの呼称、知識人と呼び代えることもできる。そういう意味では、この戯曲のなかのガリレオは、サイードが『知識人とは何か』のなかで挙げていたあの輝かしい三作品の主人公たち、すなわちバザーロフ(ツルゲーネフ『父と子』)、ディーダラス(ジョイス『若い藝術家の肖像』)、そしてフレデリック・モロー(フロベール『感情教育』)と並べても、まったく見劣りしない。
「ガリレオ もし私が沈黙するとしたら、それは疑いなく、じつに低級な理由からだ、いい生活を送り、迫害されないため、とかね」(146ページ)
「ガリレオ 三角形の内角の総和は、教皇庁の要求があっても、変更はできません。天体の運行を、箒の柄にまたがる魔女の飛行のように計算するわけにはいかないのです」(148ページ)
さきに挙げた三冊とこの本の違いは、ガリレオは最初に登場した時点ですでにして知識人であり、物語の進行に合わせて徐々に哲学を培っていく、というわけではないことだ。こういった、すでに成熟した主人公が自身の哲学を曲げることなく物語に翻弄されていく、というのも、またひとつの魅力的な文学的類型であると言えるだろう。すぐに思いつくのはゲーテの『ファウスト』だが、アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』も思い出した。通称「おじいちゃん文学」である。わたしは「おじいちゃん文学」が大好きだ。
「ガリレオ 旅の前の夜に、ごつい手で藁をひと束よけいに驢馬に食わせてやる老婆、船の貯蔵品を買う時に、嵐や凪のことを考える船乗り、雨が降りそうだと思ったら、帽子をかぶる子供、そういう人間のいることが、僕の希望だ。ちゃんと根拠を大事にする人たちだ。そう、僕は、理性が人間に与えるおだやかな力というものを信じている。人間はいつかはそれに抵抗できなくなる」(63ページ)
「ガリレオ マルガリティフェラという牡蠣がどうやって真珠をつくりだすか、ご存じですかな? たとえば砂粒のような耐えがたい異物で致命的な病気になった牡蠣が、その異物を粘膜でくるんでしまうからです。その過程で、ほとんどの牡蠣は死滅してしまう。真珠などくそくらえです。私は健康的な牡蠣のほうが好きだね」(145ページ)
ガリレオの疑いは揺るがないが、もちろん教会はそんな彼を捨て置かない。時代は異端審問がまだ猛威をふるっていた17世紀である。
「ガリレオ 忘れないでくれ、あのコペルニクスが要求したのは、彼の数字を信じろということだったが、僕が要求しているのは、ただ、連中に、自分の目を信じろということだけだ。真理が弱すぎて自分を守れないときには、攻撃に転じなきゃあ。だから僕は、あの連中の首根っこをつかまえて、この望遠鏡を覗かせてやるのさ」(70ページ)
「サグレド さっき君が望遠鏡の前に立って新しい星を見ていたとき、僕には、君が燃え盛る薪の上に立っているように見えた。証明されたことは信じると君が言ったときには、肉の焦げる臭いさえしたんだ。僕は科学は好きだが、それ以上に友人である君が好きだ。フィレンツェに行くのはやめ給え、ガリレオ」(71~72ページ)
解説に詳しすぎるほど詳しく書かれていることだが、ブレヒトは本作の執筆に当たって、第二次世界大戦の影響で亡命生活を余儀なくされた自分自身、それから自身と同じ亡命者でありガリレオ同様に科学者であるアインシュタインの運命を、作中のガリレオに重ねあわせていたそうだ。20世紀における異端審問はナチスであり、マッカーシズムによる赤狩りであった。そういえばこんなセリフも目についた。
「ガリレオ ときおり考えるんだ、光が何であるかが分かるなら、光の差し込まない深い地下の牢獄に閉じ込められたっていいと」(149ページ)
光の正体というのは科学史上最大の疑問としての地位を20世紀まで揺るぎないものにしていた。ニュートンはそれを粒子であると言い、マクスウェルの電磁気論はそれを波であると科学者たちに信じこませた。そしてアインシュタインが持ち込んだ光量子という概念が、この議論にとうとう終止符を打ったことはよく知られている。ブレヒトがガリレオにこのセリフを言わせたとき、アインシュタインのことが念頭になかったとは考えづらい。以下のセリフも同様である。
「ガリレオ 私は思うんだ、科学の唯一の目的は、人間の生存の辛さを軽くすることにある、と。科学者が利己的な権力者に脅かされて、知識のための知識を積み重ねるのに満足するようになったら、科学は不完全になり、君たちの作る機械だって、新たな災厄にしかならないかもしれない。時を重ねれば、発見すべきものはすべて発見されるだろうが、その進歩は、人類からどんどん遠ざかっていくだけだろう。君たちと彼らの溝はどんどん大きくなって、新しい成果に対して君たちがあげる歓呼の叫びが、全世界のあげる恐怖の叫びになってしまう、という日もいつか来るかもしれないのだよ」(239ページ)
これはもちろん原爆のことを指していると考えるべきなのだろう。だが、こういったガリレオ=アインシュタインという考え方は、いかにも文学者が採りそうな穿った見方であるので、個人的には素通りして構わないと思う。作品の内側がこんなにも魅力的なのだから、一介の読者がわざわざその外にあるものに目を向ける必要もないだろう。
「ガリレオ 科学が貧困である最大の理由は、たいていは思い込みが充満しているからだ。科学の目的は無限の英知の扉を開くことではなく、無限の誤謬にひとつずつ終止符を打っていくことだ。メモしておきたまえ」(162ページ)
「ガリレオ パンを食卓でしか見たことのない連中は、そのパンがどう焼かれたかには関心がない、だからパン屋によりも神に感謝したがる。だが、パンを作っている人たちなら、動かさないと何も動かないってことを、理解するだろうよ。オリーブの実を絞っているフルガンツィオ君の妹さんだって、太陽は貴族の金色の紋章ではなく、地球を動かしている梃子で、だから地球は動いているんだと聞いても、たいして驚きもせず、笑って受け入れるんじゃあないかね」(174~175ページ)
歴史を学んだことのある方はすでに知ってのとおり、ガリレオは最終的に自説を撤回し、異端審問所による火あぶりをすんでのところでまぬがれる。このことを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかで、ガリレオ・ガリレイという人物に対する評価はまったく違ってくるはずなのだが、ブレヒトはガリレオ自身には容赦ない自己断罪を課し、忠実な教え子であり助手であったアンドレアには、最終的にはガリレオを許すような態度を採らせている。ちなみにその直前に現れるのが、「英雄のいない国は不幸だ!」という、あのアンドレアの叫びなのだ。土壇場で英雄を志向できなかったガリレオは、じつに人間らしく、わたしにはとても好ましい。
「ガリレオ 同学の士で、裏切りの仲間よ、この溝にようこそ、だ。君は魚を食うかね? うちでは魚も売っているよ。だが臭いのは売り物の魚ではなく、売り手の私だ」(236ページ)
ガリレオの地動説が人口に膾炙したときの、人びとの力は凄まじい。疑いが心を占めることによって、学者でもない人びとも大きく進むことができるのだ。これこそがまさしく、ガリレオが「理性が人間に与えるおだやかな力」と呼んだものの正体なのだろう。疑うことの大切さ。わたしはどんどん宗教を嫌いになっていく。
「ガリレオ 真理を知らぬ者は馬鹿だが、真理を知りながらそれを嘘だと言う者は犯罪者だ!」(154ページ)
「ガリレオ 科学は知識を扱うが、知識は疑いから生まれる。万人のために、万物についての知識を生み出しながら、科学は万人を、疑う人間にしようとする。ところが、地上の大部分の人たちは、領主や地主、聖職者たちによって、その陰謀を覆い隠すための迷信や古いお題目といった、真珠色に塗り立てられた無知の靄に取り囲まれているわけだ。多くの人々の貧困は、山と同じくらいに昔からあり、教会の演壇や説教壇の上からは、それが山と同じくらいに動かしがたいものだと説明されてきた。その人々の心を、疑うという我々の新しいやり方が虜にした。その彼らが望遠鏡を我々の手からひったくって、それを自分たちを鞭打つ人たちに向けたのだよ」(237~238ページ)
ブレヒトを読むのはじつは初めてのことだったのだが、ほかの著作も読んでみたいと思った。それからガリレオ自身の著作も。読みたい本がたくさん増えて、とても嬉しい。
〈読みたくなった本〉
ホラティウス『詩論』
「かつて私は、ほんのちっぽけなイチジクの樹の切れ端だった、
その昔、工匠がこの私を使って、
プリアポスの像をつくろうか、椅子をつくろうかと迷って、
プリアポスの像をつくろうと決めたのだった……」
(ホラティウスからの引用、147ページ)
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ベルトルト・ブレヒト『母アンナの子連れ従軍記』
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ガリレオ・ガリレイ『天文対話』
ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』
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アルベール・カミュ『ペスト』
フリードリヒ・デュレンマット『物理学者たち』