Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

赤い百合

 先日の『ジョカストとやせ猫』があんまりおもしろかったので、「このノリノリな気分なら!」と、大急ぎで手に取ったアナトール・フランスの長篇小説。この本はアナトール・フランスの長篇のなかでも長い部類に入るので、どうも後回しになってしまっていたのだ(といっても、たかだか400ページほど。かつて『ドン・キホーテ』を読破した人間の思考とは、われながら信じられない)。日本を出るときにトランクに忍ばせてから早二年半、わたしはようやくこの本を読み終えた。

赤い百合

赤い百合

 

アナトール・フランス杉本秀太郎訳)『赤い百合』臨川書店、2001年。


 ご覧のとおり、今回手に取ったのは白水社の『アナトール・フランス小説集』ではなく、臨川書店から2001年に刊行された杉本秀太郎訳である。『赤い百合』は白水社の選集にも入っているのだが、こちらの版は装幀がすてきなだけではなく、挿絵も豊富なのだ。それに、2001年にわざわざ新訳されたアナトール・フランスなんて、ちょっと気になるではないか。しかも199部限定の愛蔵版まで出ている。まるで生田耕作奢覇都館だ。こんなに手の込んだ本を刊行しようとする出版社が2001年にもまだあった、ということが信じがたく、応援したい気持ちになる。すでに絶版になっており、残念ながらわたしも古本屋の棚で見つけたのだが、最初に印刷されたすべてが持つべき人たちの手にスムーズに渡ったのだと思いたい。

「――将軍、ごらんなさいませよ。マダム・マルタンの、まあおきれいなこと。いつでもすてきでいらっしゃる。でもきょうはまた格別ね。退屈していらっしゃるからだわ。退屈そうな様子くらい、この方によく似合うものはありませんわ。あたしたち、こちらへ伺ってから、もうすっかりうんざりさせてしまったようね。ごらんなさい。顔は曇り、目には光なく、口許は悩ましげ。おいたわしや」(7~8ページ)

「――どうかしら、とマルメ夫人が吐息をついた。どんな本でも、みな退屈ですわ。でも、本より人間のほうが、まだもっと退屈ですわ。加えて、人間のほうが、もっと扱いにくいわ」(9ページ)

 さて、『赤い百合』である。これは人生に退屈しきった女テレーズが、新たな愛人を見つけ人生に喜び(あるいは悦び)を再発見していく、という話である。もはやいつものことだが、大筋を書いてみても少しもおもしろくない。アナトール・フランスを読むときに大事なのは彼がそのストーリーをどのように語ったかであって、ストーリーそのものは大して重要ではないのだ。

「少女時代には、おとなの生活というものがうらやましくもあり、こわくもあった。けれども、今になってみると、人生はそれほどの不安にも期待にも値しない、ごくありふれたものにすぎないのがわかってきた。はじめからそう納得していればよかったのに。なぜ、予想できなかったのか。なぜかしら」(23ページ)

「――ノートル=ダムって、象のようにずっしりしていて、昆虫のように軽快だわ。月がその上によじのぼって、お猿のようにいたずらっぽくお堂を見おろしてる。この月は、ジョワンヴィルの田舎の月に似てはいないわ。ジョワンヴィルには、あたしの道があるの。行く手にお月さまの出る平らな道。夜、月が出るとは限らないわ。でも、赤い満月になって、なつかしそうに、きっと戻ってきてくれるの。あの月は田舎のお隣り同士、ご近所の奥さまと同じだわ。あたしは礼儀からも親しみからも、欠かさず迎えに出るの。でも、パリのこのお月さまでは、分け隔てなくお付合いする気にはならないでしょう。これはいいお仲間になれる相手ではないわ。このひと、屋根とお付合いをはじめてからこちら、何を見てきたことかしら」(38~39ページ)

「――ね、こんなに短い一生でさえ、どう扱っていいかわからないのに、あなたは終りのない別の一生があればいいとおっしゃるのね」(41ページ)

 これはいわゆる社交界小説であり、女主人公テレーズの主催するサロンに出入りする人びとが、次々と好き勝手に発言していく。そのほとんどが物語には関係ないというのが、アナトール・フランスの頼もしいところである。これらの発言を読んでいて楽しいと思えなければ、その人は絶対にアナトール・フランスを楽しむことができない。プルーストも同様である。なにもかもが伏線でなければならないというのは、21世紀の人間の勝手な言いぐさであり、アナトール・フランスの書物はそんな偏狭さに対する、ひどく小さな声で発せられた、だが確固たる勝利宣言だと言えるだろう

「あの人の青春、当るべからざるあの若さは、死ぬときまでそのままです。というのも、生きる年々が分別に富む中年期を目指して次々にかさねられたわけではなかったからです。行動家に独特の不思議な生き方ですね。ああいう人たちには、瞬間々々がすべてであり、持ち前の才は一点に集中されるのです。絶え間なく出発点に立っているわけです。持ち越しということをしないわけです。一生のいろんな段階が真剣、無私な冥想によってつなぎ合わされるなどということがけっしてないのですね。生きつづけるのではなくて、行動の連続でいのちを継ぎ足してゆく。だから内面生活というものが抜け落ちています。この欠陥はナポレオンにおいて殊にいちじるしいものがあります。あれは自分の内部にもぐりこむということをまったくしなかった人です」(56ページ)

「――あなたはいかが。ナポレオンお好きかしら。
 ――いや、わたしは「大革命」を好みません。で、ナポレオンというのは、あれは長靴を履いた「大革命」です。
 ――まあ、ムッシュー・ドシャルトル、どうしてそれを食卓でおっしゃらなかったの。でも、よくわかります。気の利いたことを言ってもいいのは聞き手が少数のときに限る。そう思っていらっしゃる」(60ページ)

 ちょうど『やせ猫』のラバヌ、または『神々は渇く』のモーリス・ブロトの影を伴った人物が、複数名登場してくる。ポル・ヴァンス、シューレット、そして物語に大きく関わってくるドシャルトルである。彼らが口を開くたび、物語は進行を止められ、そして同時に小説が輝きだすのだ。これらの発言は大抵、無駄なものである。そして、無駄なものほど美しいものはないのだ。

「――いや、わたしの本なぞ……言いたいことは何ひとつ、本では言えません。自分の考えを表現するなど不可能です……そりゃたしかに、わたしもペンで話します。ご多聞に洩れません。しかし、話す、書くという仕事は、じつにみじめなものです。シラブル、語、フレーズを作るあの小さな文字記号の行列のごとき、まことにつまらないものですよ。社会共通であるとは言っても、変ちくりんな、ああいうくだらない文字に置き換えられたら、思想は、美しい思想は、いったいどうなってしまいますか。読者はわたしの書き散らすものから何を作り立てるか。読み誤まる、逆の意味に受け取る、意味をなさないような解釈をする、そんなことばかりやってくれます。読んで理解するというのは翻訳するということでしょう。たぶん、お見事な翻訳はあるでしょうが、忠実な翻訳というものはありません。皆さん、わたしの本のなかに自分が感心することを読みこんで感心しているだけですから、感心してもらったところで、わたしはちっともありがたくありません。読者はそれぞれ書き手の幻想を自分の幻想に差し替えているのです。読者が自分の想像に塗りつけるものをこちらは提供しているだけです。そんなお稽古の材料をあたえているなんて、ぞっとしますよ。まともな商売ではありません」(90~91ページ)

「公爵夫人は、その本はおもしろいの、とテレーズに問いかけた。
 ――どうでしょう。あたしは勝手なことを思いながら読んでるの。ポル・ヴァンスの言う通りだわ、「われわれは書物のなかにわれわれしか見つけないものだ」」(342ページ)

 さて、テレーズはあるじつにつまらない諍いをきっかけに、当時の恋人であったロベールときっぱり縁を切ることを心に決める。このロベールという男がまた、知的な内面生活とはまったく無縁な人物で、まったく魅力なしに描かれているのがおもしろい。そもそもどうしてわれらが女主人公は、こんな男に一時的にであれ惹かれてしまったのだろう、と訝ってしまうほどだ。

「――テレーズ、ぼくたちふたりのように愛し合っている例は、めったにないだろうね。
 ――めったにないかどうかはともかく、あなたが愛していてくださることは信じていますわ。
 ――で、君のほうはどうなの。
 ――あたしも、愛していますわ。
 ――で、ずっと愛してくれますね。
 ――先のことまで、どうしてわかりますの。
 すると、恋人の顔が曇ったので、
 ――生涯かけてあなたしか愛さないと誓うような女のひとなら、もっと安心できるのね」(42ページ)

「ひどいことをおっしゃるのね、気まぐれ、ですか。人生にそれよりほか、何があるの」(73ページ)

「つい先ほどの実事、その実事からしてテレーズが躰に受けたあの愛撫、なにもかも遠いものになっていた。ベッド、クリスタルのコルネットに挿してあったリラの花、いつもピンの容れものにしていたボヘミアガラスの小さなカップ。みな、通りすがりに、窓ごしに見たもののように見えてきた。にがい思いも湧かないし、恋しくさえなかった」(77ページ)

 テレーズがロベールと別れてから、『赤い百合』の物語はようやくはじまると言ってもいい。というのも、舞台がパリからフィレンツェへと移るのだ。わたしはこれがフィレンツェを舞台にした小説だと、そもそも読みはじめる前から気づいているべきだった。なにせ、タイトルが『赤い百合』であり、これは当然フィレンツェの紋章を指しているのだ。一時期、サッカーチームのフィオレンティーナを応援していて、当時好きだった選手(ルーカ・トーニ)のユニフォームまで持っていたというのに気づかなかったとは。なにも考えていない証拠である。

「――あなた、あたしにはうまく言えないし、どう言っていいかもわからないの。でも、とにかくよく見てちょうだい。もっとよく見ていてね。あなたの見てるのは世界にふたつとないものよ。自然がここまで敏感で、優雅で、繊細な土地はどこにもないことよ。フィレンツェのまわりの丘をお造りになった神さまは芸術家だったのね。宝石細工師、彫金師、彫刻家、鋳造師、そして画家を一身に兼ねていらしたのね。だから神さまはフィレンツェ人だったのよ。神さまはこの世にただこれだけをお造りになった。ほかのものは、腕の劣る職人の作ですわ。こんなに非の打ちどころもない仕事はここだけですわ。あんなに引きしまった、むだのないリリーフをもっているサン・ミニアートの紫色の丘が、モン・ブランを造ったおなじ人の手になったなんて、考えられないでしょう」(125ページ)

「お告げの鐘「アヴェ・マリア」がありとあらゆる鐘楼にいっせいに打ち鳴らされると、大空そのものが無限の楽器となった」(140ページ)

 こんなにフィレンツェに行きたくなる小説もなかなかない。旅に出たいという欲望が極限まで高まっている今のようなときに、手に取るべきではなかったとさえ思う。オル・サン・ミケーレ教会堂の聖ジョルジオと聖マルコ、アルフィエリ通りの隠れ家、そして糸杉。自分の目で見てみないことには死ねない。いつかこの本を片手に、ついでに当時のフィオレンティーナのユニフォームも持って、フィレンツェに行く。

 テレーズはフィレンツェの土地で、パリで出会った彫刻家ドシャルトルと親しくなっていくのだが、それはロベールの以下のセリフから早々に察せられたことでもあった。

「――彫刻家か。大概、碌でもない連中だな。彫刻家なんてやつらは」(20ページ)

 アナトール・フランスがロベールなどに肩入れすることは決してないので、この彫刻家が重要人物であることは容易に想像できるのだ。というか、直前に『やせ猫』の彫刻家ラバヌと出会っていたわたしとしては、アナトール・フランスが彫刻家(しかも「碌でもない」!)を登場させるというのに、無関心でいられるわけがない。案の定、この男はテレーズの新たな恋人として、物語の根幹を担っていく。

「彼は阿片のように読書を好み、ページ半ばで立ちどまっては夢想に耽るのをつねとしていた」(297ページ)

「とにかく、ぼくは政治にうつつを抜かすほど能無しではないよ」(304ページ)

 ドシャルトルの目を通して描かれるテレーズの美しさには、息を呑む。挿絵が入っている本書ではあるが、翻訳者の杉本秀太郎は「テレーズ・マルタン=ベレーム夫人の容姿は、こんな挿絵に煩わされることなく読者が自由気ままに想像すればいい」と書いている(杉本秀太郎「『赤い百合』の旅――解題に代えて」より、430ページ)。テレーズほどの美女はいないということは、ドシャルトルやロベールの振る舞いからも容易に感じられ、読者はこの美術品のような女にどんどん惹かれていくことになる。

「ジャック・ドシャルトルはテレーズをじっと見ていた。はじめて見るように思った。こんなにも端麗な顔立ちだったとは。年齢と魂の働きが彼女の顔に彫りの深さをあたえているが、若々しくみずみずしい美しさはそのために失われていなかった。テレーズが好むだけに、日光はテレーズに対してやさしかった。それに、美しい躰を愛撫し、気高い考えを育くむフィレンツェのやわらかな日光を浴びているテレーズは、ほんとに美しかった」(162ページ)

「ドシャルトルはテレーズが物を言ったり考えたりするのがほとんど信じられない思いだった。その澄んだ音色は、これまでにテレーズの声をまだ耳にしたことがなかったかのように彼を驚かせた」(163ページ)

 ドシャルトルは同じ彫刻家である『やせ猫』のラバヌとは打って変わって、血の通った、人間味のある人物である。いささか人間味がありすぎて、ラバヌに比べるとひどく脆く見える。

「――自作に取り囲まれて暮らして、なにが楽しいものですか……自分の作った彫刻なんて、知りすぎている……うんざりさせるだけだよ。秘密のないものには、惹きつけるものがないよ」(299ページ)

「君を慕っている、君とともにあるすべてを愛しています。君を軽がるとのせているこの大地、君ゆえに美しいこの大地、君の姿をぼくに見せてくれるこの光、君の呼吸しているこの空気、すべてを愛している。ぼくはわが庭の傾くプラタナスが好きです。なぜなら、君の目に触れたから。今夜は冬の夕方、ともに歩いた大通りまで散歩に出かけた。あのとき、君がじっと見ていた黄楊の植込みから小枝を折り取ってきた。君のいないこの町にいて、君の姿しか目に入らない」(317ページ)

 ところで、物語の終盤、テレーズがドシャルトルに半身像を作ってくれ、とせがむ場面がある。その受け答えがたまらなく美しいので、いささか先走りしすぎている感があるが、ここで紹介しておく。

「どうしてあたしの半身像を作ってくれないの、美しいと思うのなら、とたずねた。
 ――どうしてか。それはぼくがくだらぬ彫刻家だからさ。凡才に何が欠けているか、ぼくは承知している。しかし、君がぼくを大芸術家だとどうしても思いたいのなら、ほかの理由を言ってあげてもいい。生けるがごとき彫像を作るには、モデルを美のもとになるごくつまらぬ素材と考えなくてはならない。素材からエッセンスを引き出すには素材を戻し、しぼり、粉々につぶしてしまう必要がある。ところが君は、君の躰の形、躰そのもの、君のそっくり全体を作っているものが、ぼくにとってはすべて貴重この上ないものだ。もしもぼくが君の半身像を作るとすれば、何でもない細部に無闇とこだわるだろう。細部こそぼくにとってはかけがえのないものだ。なぜなら君を宿しているのは細部なんだから。ぼくはそんなところに阿呆みたいにこだわって、全体を作り上げずにおわってしまうだろう」(311ページ)

 ドシャルトルは大変不完全な人間であるが、彼の美学には興味深い点が多い。アナトール・フランスの目指していたものが、彼の発言には含まれているように思えるのだ。

「――まことに良き時代、とドシャルトルが言った。現代のわれわれが目の色変えてさがしている例の独創性など、だれの眼中にもなかった時代ですね。徒弟はお師匠の作る通りに作ろうと、これつとめていた。お師匠に似るという以外に志はなかった。そして他人とはちがう自分を示すことになっても、それは求めてしたことではなかった。彼らが働いたのは、名を挙げようがためではなくて、ただ生きようがためでした」(146ページ)

「――朝夕、念入りに浮き身をやつす女人というものは、芸術家に大きな教訓を垂れていると思わざるを得ません。ごくわずかな時間のために身なりをととのえ、髪を結う。しかしその心遣いはむだにはなりません。われわれ芸術家も、そういう女人を見習って、未来のことなど気にすることなく、この世を飾るべきです。後世のために絵をかく、彫刻に励む、文を書く、などというのはおろかしいうぬぼれです」(154ページ)

 わたしがアナトール・フランスを愛してやまないのは、20世紀以降の小説にきまって現れる独創性が、彼の小説からは欠落していることに由来する。バルトの『零度のエクリチュール』に書かれていることだが、20世紀という時代はウリポであれシュルレアリスムであれ、「これまでに書かれたことのなかった新奇なものを目指す」という点で、ある程度足並みが揃っていた。ところが、時代に忘れ去られた作家アナトール・フランスを読んでいても、そういった文学的野心がまるで感じられないのだ。それゆえに彼は時代に忘れ去られてしまったのだろうが、わたしには文学的野心の欠落が、そんなに悪いことには思えない。フロベールより後の時代にフロベールのような作品を書くことは無価値ではないのだ、と、声を大にして言いたい。アヴァンギャルドが奨励される時代において、アナトール・フランスが過去の遺物として博物館送りにされ、死刑通告が下されたのはいわば当然の流れであるが、彼の小説そのものはすこしも古びてなどいない。フロベールの流れを直接汲むはずのモーパッサンやゾラよりもおもしろいほどだ。アナトール・フランスという文学史上の特異点は、われわれに「独創性」よりも大切ななにかを、語りかけてくれているように思えるのだ。

 さて、『赤い百合』に戻ろう。おもしろいことに、ドシャルトルの美学を受けて、登場人物の一人である狂人(かつ詩人)シューレットが、以下のように発言する。

「――わたしのことを言うと、未来のことはほとんど念頭にありません。わが一生一代の傑作をタバコの巻紙に書きつけたくらいですからね。いともたやすく巻紙は煙と化し、かくてわたしの詩はいわば形而上学的存在として残るのみ。
 シューレットは無頓着を装っているが、ほんとうは自分の書いたものを一行たりとも散佚させたことがない。ドシャルトルのほうがまともである。後世に名をとどめようという気は微塵もなかった」(155ページ)

 これを見ても、アナトール・フランスの立脚点は明らかである。

 ちなみにこのシューレット、登場するたびに突拍子もないことを言っては、聞いている人たちを呆れさせる道化役なのだが、物語に彩りを添える大変魅力的な人物である。

「平等は、金持に対しても、貧乏人に対しても、橋の下で寝ること、路上で物乞いすること、パンを盗むことを禁じています。これは大革命の善行のうちです。あの革命は狂人と阿呆が寄ってたかって、国家財産を買収したやつらの利益になるように仕組んだものだったし、また大革命の結果は要するに、狡い農民と高利貸の町人を富ませるだけにおわったのだから、大革命は平等の名のもとに、富の帝国を築いてしまった。あれがフランスを金持の手に渡してしまった。以来百年、やつらがフランスを食い物にしている」(115~116ページ)

「万人こぞってあなたを狂人だと言い立てます。しかし、万人の言うことこそ真実でなくてはならん。つまり、あなたは狂人これうたがいなしということです。狂人とは世を救う者のことですよ。人間どもはいずれあなたにいばらの冠、葦の笏杖をあたえ、あなたの顔につばを吐きかける。だが、まさにこれによって、あなたがキリストに、まことの王に、見えていることがたしかめられる」(131ページ)

「わたしは自分の魂をじっと見る。ときにはすばらしいけれども、大抵は恥ずべき姿が見えます。あの晩、わたしの魂をまともに目撃したら、あなたは恐ろしくて大声を挙げたでしょうね」(223ページ)

 アナトール・フランスはどんな些細な人物のことも放ってはおかず、それがどんな人物であるかをじつに簡潔に伝えてくれる。そのきっぱりとした描き方がとても好きで、やみつきになる。

「この人、政治に関しては浅いながらもきっぱりした見方を捨てようとはしなかった。現在に強い執着を示し、将来をほとんど気にしないかような人物には、社会主義者の言うことは馬耳東風にひとしかった。太陽と資本の消滅する日がくるかもしれないと気に病むいわれもないこの人は、太陽と資本を存分に享受していた。当人の談によれば、人は流されるままになっているがよろしく、流れに逆らうのは阿呆、流れに先駆けるのは狂人である」(48ページ)

「学者というものは好奇心にとぼしく、当人の受持ち外のことについて質問するのは憚るべきこと、と夫人は気づいた。たしかに、ラグランジュは空から落ちてきた石を集めて、科学上の財産を得た。それが彗星観測に手を染めるきっかけになった。だが、この男は分を弁えていた。二十年この方、町で夕食をすることのほかには、ほとんど興味を示さない」(108ページ)

「客室にもどると、マルメ夫人は死別した夫のことをなつかしそうに淡々と語った。あの人はあたしを愛して結婚した。すてきな詩を書いてくれた。大切にしまって、だれにも見せたことはない。とても快活な人だった。後年、仕事に疲れ、病気で衰えてしまったあの人からは、とても想像できないところがあった。死ぬまぎわまで研究していた。心臓肥大症になって、横になれなかったので、肘掛椅子に坐ったまま、板を渡した上に書物を置いて、夜をすごしていた。死の二時間前にも、まだ読書しようとした」(117ページ)

 もちろん、人物描写だけではない。フィレンツェからとうとうパリに戻ったテレーズは、駅に迎えに来ていた夫と再会するのだが、そのわずか数行の残酷さが、いつまでも忘れられない。また、ドシャルトルは人目を避けるために一週間遅れでフィレンツェを発つのだが、同じ駅でドシャルトルを待つテレーズの姿も印象深い。

「この身に経験した日々の充実感、深い悦びを幾度も知った驚きにテレーズはずっとひたっていた。そして駅の鉛色の光のかげに汽車がとまると、テレーズの姿を見つけてうれしそうな夫を夢からさめたひとのような微笑をうかべつつ迎えた」(288ページ)

「四十五分ばかり構内で待つあいだ、ガラス屋根に濾された灰色の陽光が失われてゆく幸福の時々刻々を計っている巨大な砂時計の砂つぶのように、テレーズに降りかかった」(291ページ)

 さて、この『赤い百合』では、「嫉妬」という感情が大きな役割を担っている。絶世の美女(と呼んでもいいだろう)テレーズの、昔の恋人ロベールの存在が、ドシャルトルと彼女の順風満帆であったはずの恋路を引っかき回していくのだ。嫉妬という感情を見事に語った小説には『マノン・レスコー』『カラマーゾフの兄弟』があるが、この『赤い百合』はこれらと並べても、すこしも見劣りしない。

「この嫉妬の正体がわかったところで嫉妬は収まらない。それはげんに嫉妬であり、げんにぼくを苦しめている。ぼくは化学者なのさ。自分の飲んだ酸の特性を研究しながら、それがいかなる塩基と結合し、いかなる塩を形成するかを知った。けれども、酸が身を焼いている。今に骨の髄まで焼けただれるだろう」(273ページ)

「あるがままであってくれ、と求め、かつ同時に、あるがままであってくれるなと求めるのだから、それは悩むはずだな。これまでの人生が仕上げたそのままの彼女を熱愛していながら、ここまで彼女を美しく磨いたその人生が、ただちょっと彼女に手を触れたと言って歯ぎしりしてくやしがるのだからな。たしかにどうかしているよ」(273ページ)

 幸い、『マノン・レスコー』や『カラマーゾフの兄弟』を読んだ当時とはちがって、今のわたしは嫉妬とは無縁な生活を送っている。だが、この本をあの当時に開いていたら、と思うと、ぞっとする。そのとき『赤い百合』は、今とはまったく違った印象をもって目の前に開け、まったく別の書物として記憶に留まったことだろう。文学とは読み手の心情によって、かくも自在に姿を変えるものなのである。恐ろしいことだ。

「聞くなり腕を放した。手にピストルがあったら、おそらく殺すところだった。だが、ほとんど同時に、男の怒りは悲しみによって、早くも湿りをおびていた。こうなっては、男のほうこそ死にたかっただろう」(248ページ)

「男は、女からうそというあわれみをかけてもらえなくなったら、いったいどうなると思う。うそをついてくれ。あわれと思って、うそを聞かせてくれ。お先まっ暗な苦しい胸の疼きに彩りをそえるような夢をあたえてくれ。遠慮容赦なくうそを聞かせてくれ。愛と美のまぼろしに、さらに一つのまぼろしをかさねることだけを心がけてくれ」(274ページ)

 翻訳者の杉本秀太郎は、名前こそ昔から知っていたが、訳業に触れるのは今回が初めてのことだった。メーテルランクの翻訳など、本棚で眠っているものも多かったので、いずれ機を見て読んでみたい。読者に寄り添った大変丁寧な翻訳で、この翻訳者でなければミス・ベルの軽妙さなどは感じられなかっただろうと思う。調べてみると、京都の随想家とのこと。ほんとうに生田耕作のような人だ。

「小説家というのは扱いにくい生き物である。読み手に謎を孕ませておきながら、謎を分娩してあかるいところでその五体をたしかめようと思っていると、生まれたのは死産児、生の謎は闇に送り返されている。死は小説家の手を借りて、ここでもまた勝利を収めるのだろうか」(杉本秀太郎「『赤い百合』の旅――解題に代えて」より、416ページ)

「彫刻家ジャック・ドシャルトルはまことに歯がゆい男。ふたりとない女と思っているのなら、テレーズを嫉妬の神のいけにえにするよりも、なぜ、テレーズそのひとを女神として、嫉妬そのものをこの女神に奉献することを考え付かなかったか。前例はボードレールにある。アナトール・フランスはジャックに文才をあたえ渋った。くそまじめな、やたら自尊心ばかりを底が浅いにもかかわらず後生大事にしているこの有閑の彫刻家に私は少しの同情もおぼえない。もしも彼にアナトール・フランスの血が流入、分流しているとするなら、作者は自己断罪をこころみたのであろう。それに値する罪咎は恋人レオンティーヌ・アルマン・ド・カイヤヴェ夫人とのあいだに犯されていたと思われるが、いまそのことはどうでもいい。死者たちの土地にまっすぐ踏み入ることをためらっているひとりの半殺しの目に遭った男の影が、せっかくの『赤い百合』を日かげの花にしてしまったのが口惜しい」(杉本秀太郎「『赤い百合』の旅――解題に代えて」より、429ページ)

 彼のこの「日かげの花」という言葉どおり、『赤い百合』は百点満点の傑作ではない。後味の悪い結末だし、出てくる人間は誰もかれも不完全で、『神々は渇く』ほどの読後感は望むべくもない。だが、それを語る文章の美しさは疑いようもない。アナトール・フランスが好きな方にはぜひとも手に取ってみてもらいたい。

赤い百合

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