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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

水妖記

 先日『ペレアスとメリザンド』を読んだことをきっかけに、感想を書いていなかったことを思い出した一冊。

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

 

フリードリヒ・バローン・ド・ラ・モット・フーケー(柴田治三郎訳)『水妖記(ウンディーネ)』岩波文庫、1938年初版、1978年改訳、2010年改版。


 じつは『ペレアスとメリザンド』を読み終えた直後から、ジャン・ジロドゥの『オンディーヌ』を読みはじめていたのだった。水の精にまつわる物語を立てつづけに読んだことで、自然とこの本について書きたいという欲求が湧いてきた。『ペレアスとメリザンド』にしろジロドゥの『オンディーヌ』にしろ、水の精のイメージには、この作品が大きく関与しているに違いないからだ。

「フルトブラントはそのやさしい姿に見とれて、可愛らしい顔かたちをしっかりと心に烙きつけようとしている様子だった。それは少女があっけにとられている間だけできることだし、やがて自分を見つめている眼差に気がついたなら、いっそう羞しがって、すぐに顔を背けるだろうと考えたからである。ところが事実は反対だった」(14ページ)

 フーケ(訳者は伸ばして「フーケー」と呼んでいるが、綴りもFouquéとアクセントが付いているので、ここではフランス語風にフーケと呼ばせていただく)は、後期ロマン派に属する作家だそうだ。「ロマン派」という言葉には、『影をなくした男』やホフマンの短篇などでも顕著なとおり、魔術的な意味合いが強く含まれている。精霊や悪魔といった、超自然的存在が物語の主軸を担っているのだ。余談だが、20世紀に南米で発展したマジック・リアリズムは、ロマン派と親和性が高いように思える。物語の主軸だけではなく、端役としてでもこれらの超自然的な存在が介在するのが南米の文学だ、とも言えるだろう。ガルシア=マルケスなどは特にその傾向が顕著だと思うのだが、彼らの物語る筆致は、ロマン派の描くメルヘンのような筆致と、そう遠いものではない気がする(もちろん、異論があることは認めるが、そもそもマジック・リアリズムの作家とはだれのことなのか、という議論になってしまう気もする)。

 フーケはまさしくメルヘンのように、主観を排した筆致でこの悲劇を物語っていく。その動的な文章は、クライストが『ミヒャエル・コールハースの運命』にて用いていたのと同じものだ。こういう言い方が許されるのなら、いつまでも記憶に留めておきたい気の利いた一文というのが、あまり多くはない。150ページ程度の短い話なのだが、ここには現代的な観点からすると驚くべきほどの動作と歳月が含まれているのだ。ページを繰る手が止まらなくなる。

「ベルタルダは、いつもはただ人の話に聞くお伽噺の中に、今は自分がじっさいに生きて出ているような気がして、不思議でならなかった」(101ページ)

 だが、水の精の物語という性格もあって、川や湖や泉といった存在がものすごく頻繁にその表情を変え、その都度すばらしい描写が立ち現れる。自然の圧倒的な力は、まるで『イリアス』のなかで河の神がアキレウスを溺れさせようと河を氾濫させるように、たかが人間には到底抗えないものとして何度も登場する。

「そのとき騎士は漁師の言葉を遮って、水の流れる音か、ごうごうと凄まじい響きがするのに注意をうながした。さきほどから爺さんの話がとぎれるたびに聞こえていたが、それが次第に烈しくなって、今はもう窓の真下を流れているらしい。二人はとび上がって戸口の方へ行った。外には今しがた昇った月の光に照らされて、森の中から流れてくる小川が見る見る両岸から溢れ出し、渦巻く急流となって石や木を押し流している。このどよめきに呼び覚まされたように、月の面を矢のように掠めて走るまっ黒な雲の蔭から、嵐が吹き起こった。湖は羽搏く嵐の翼の下で咆え猛った。岬の樹々は根本から梢まで喘ぎ、眩暈でもしているように荒れ狂う波の上へのめった」(25ページ)

「「舟はいよいよ烈しく眩暈でもするように廻りました。舟がひっくり返ったのか、私が舟から落ちたのか、自分にもわかりません。じきに死ぬんだ、恐ろしいことだ、という漠然とした恐怖を感じながら、私はなおも流されました。そうして最後に波に打ち上げられたところが、あなた方のこの島の樹の下だったのです。」
 「島とおっしゃるのもごもっともです」と漁師は言った。「つい先ごろまでは岬でしたが、森の川と湖水が荒れだしてからは、すっかり変わってしまいました。」」(53ページ)

 ウンディーネは、言ってしまえばひどくシンプルな話である。人間に恋をした水の精がそれによって魂を得るものの、後に棄てられ水に帰り、ついに他の女を娶ることで彼女を裏切ったかつての恋人を、精霊たちの掟に従って死にいたらしめる、という話だ。シンプルではあるものの、なんて悲しい話だろうか。そもそもウンディーネが人間と結婚することを嫌った水の世界の住人たち、なかでも水の悪魔として登場するキューレボルンは、騎士フルトブラントの妻への想いを揺さぶるために、何度も積極的に介入してくる。この陰険なキューレボルンのあまりに見事な悪魔っぷりは、じつはロマン派の作品を読むことの醍醐味のひとつでもあるのだが、こいつが余計なことをしなければウンディーネは幸せなままだったのではないか、と思うと、もともと憎らしいのがさらに邪魔くさく、鬱陶しくなってくる。

「こんな深い森ではうっかりすると道に迷ってしまう、それだけがおそらくこういうところを通る旅人にとって危険なことなのだ。そこで私は馬をとめて、もういくらか高くなっている日のありかを探しました。そうして上を見上げたとたんに、高い樫の木の枝に何か黒いもののいるのが見えました。熊だな、と思って刀に手をかけると、それが人間の声で、それも厭らしいだみ声で言います。〈やい、青二才、こうして枝を噛み切ってでも置かなけりゃ、今日の夜中に貴様を焼くものがないじゃないか。〉そいつはそう言って、にたにた笑いながら枝を揺りました。馬は気が狂って私を乗せたまま、そいつがどんな悪魔野郎だったのか見究めもつかないうちに、突っ走ってしまいました」(35ページ)

「あなたもきっとご存じだと思いますけれど、地水風火の中には、あなたがたとほとんど同じ姿をしていながら、あなたがたには滅多に姿を見せることのない生物が住んでいます。焔の中にはサラマンダーという不思議な火の精がピカピカ光りながら戯れていますし、地面の底にはグノームといって痩せこけた油断のならない土の精が住んでいます。森の中には風の仲間の森の精が飛び廻っていますし、また湖水や川には水の精の大種族が住んでいます。打てば響くような水晶の円天井の中は、お空から日や星の光もさして来て、本当に美しい住処です。お庭には青や赤の実をつけた大きな珊瑚樹が輝いています。みんなはきれいな砂や色とりどりの美しい貝殻の上を歩いています。今の世の人が持って楽しむのにはもったいないような美しいものが昔の世界にはありましたけど、それを波が、人目を避ける銀のヴェールに包んでおきます。その下には立派な記念像が高く厳めしく優雅に輝いていて、波がそれを恋い慕って優しく露をおくものだから、そこから美しい苔の花や葦の穂が咲き出します。ところがそこに住んでいる生物は、見るからに優しく愛らしく、人間でもそんなに美しいのは珍しいくらいです。嫋やかな水の女が波から現われて唄を歌っているのを、うまい具合に窃み聴きしたという漁師も少なくはありません。その人たちは水の女の美しさをそれからそれへと語りひろめましたが、人間はそのような不思議な女たちをウンディーネと呼んでいます。そのウンディーネの一人を、あなたは今、目の前に見ていらっしゃるのです」(68~69ページ)

 訳者の「解説」によると、フーケはこの物語を書くうえで、ルネサンス期の錬金術パラケルススを参照しているそうだ。上の「地水風火の精霊」といった存在は、そのままパラケルススの伝えていたもので、先日読んだばかりの『ウッツ男爵』でも何度もゴーレム(またはホムンクルス)が話題になっていたため、興味を抱いている。

「霧立ちこむる谷間より
 流れ出でにし川波は
 幸を求めてわたつ海に
 注がばついに帰るまじ」(30ページ)

 いつでも気安く手に取れる長さなので、いつでも手の届く範囲に置いておきたい一冊である。読後の救いようのない悲しさは、価値である。

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

 


〈読みたくなった本〉
種村季弘パラケルススの世界』

パラケルススの世界

パラケルススの世界