Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

犬の心臓

 先日『悪魔物語・運命の卵』を読んだことで勢いづき、続けざまに手にとったブルガーコフの作品。この作品はしばしば、先日の「悪魔物語」と「運命の卵」とともに「三部作」と称されるそうだ。

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)

 

ミハイル・アファナーシエヴィチ・ブルガーコフ水野忠夫訳)『犬の心臓』河出書房新社、1971年初版、2012年復刻新版。


 表紙の犬がひどく不穏な表情をしているように見えるが、あなたの予感はまちがっていない。もちろんこれは不穏な作品なのである。なにせブルガーコフだ。ほかにいったいなにを期待できるというのか。

「食い意地のはったやつめ! いつでもいいから、あいつの面をよく見てやってくれ、その面ときたら、縦の長さよりも幅のほうが広いのだ。あれこそ鉄面皮の強盗づらというものだ」(6ページ)

「《おれもなかなか見ばえのする犬だ。もしかすると、だれにもわからぬようにと世を忍んでいる犬の王子かもしれない》犬は、鏡の奥に映っているかなりよい顔をしたコーヒー色の毛むくじゃらの犬を見ながら思いめぐらした。《おれの祖母さんがニューファウンドランド犬の雄と過ちを犯したということも、じゅうぶんに考えられる。よくよく見ると、おれの顔に白い斑点がある。これはどうしてできたのだろうか? フィリップ・フィリッポヴィチときたら、趣味のよい人だ、犬だったらどれでもよい、手当たりしだいに雑種を拾ってくるといったようなことをするはずがない》」(68ページ)

 わたしにとっては非常に嬉しいことに、この本の主人公は犬であり、彼が大いにしゃべりまくる。こういう、人間以外の連中が主人公になっている作品というのは、いつも新鮮な気持ちで読むことができるので、大好きだ。しかも、彼らの態度が不遜であればあるほど、愉快なのである。クノーの『あなたまかせのお話』では、ディノという「四つ足」が「馴れ馴れしく呼ばないでください」と言ったではないか。いや、なにもディノのように、人語を話さなくてもいい。先日の「運命の卵」では、カエルが紳士たちに向かって「きさまらは悪党だ、まったく……」と表情で語っていたことが異常に楽しかったし、たとえば『ユークリッジの商売道』などに収められたウッドハウスの小説に出てくる「クソ犬」(なぜか大抵ペキニーズ)たちも、態度で自らの立場を表明しており(「こいつは失格だ」!)、非常に腹立たしくも愉快なのである。こういうの大好き。

「この謎めいた紳士は犬の上に身をかがめ、眼鏡の銀縁を光らせて、細長くて白い紙包みを右のポケットから取り出した。茶色の手袋をはめたまま紙包みを引き裂くと、その紙はすぐさま吹雪に吹きとばされたが、彼は、《クラクフ特製》と呼ばれているソーセージを小さくちぎった。そしてそのソーセージのかけらを犬の前に差し出した。おお、なんと気前のよい人だろう! う、う、う、う!
 「ひゅう、ひゅう」紳士は口笛を吹き、きわめて威厳のこもった声でつけ加えた。「さあ、食べな! シャリク、シャリク!」
 またしてもシャリクだ。おれに名前をつけてくれたというわけだ! まあ、好きなように呼んでくれ。これほど異例なあなたの行為に感謝するためにも。
 犬はあっという間に皮をむしり取ると、すすり泣きながらクラクフ・ソーセージにかぶりつき、たちまち飲みこんでしまった。その際、ソーセージと雪が咽喉につかえて涙が出たが、それは、危うく紐までも飲みこんでしまいそうになるほど、がつがつ食べたからである。もっと、もっとあなたの手を舐めさせてください。ズボンにキスもしましょう、命の恩人のあなた!」(14~15ページ)

「犬はその黒猫に我慢できなくなって大きな声をあげて吠えたので、男は驚いて跳びあがった。
 「あい!」
 「こら、ひっぱたくぞ! どうぞ、ご心配なく、この犬は咬みつきませんから」
 《おれが咬みつかないだと?》犬は驚いた」(33ページ)

 なにがおかしいって、犬のシャリクが考えていることは人間たちには知る由もないのに、人びとが口にすることすべて、犬のほうでは理解しているという点である。しかもこいつは文字まで読める。

「一キロほど離れたところでも肉の匂いを嗅げるなら、文字の読みかたを学ぶ必要などまったくない。そうはいっても、もし、モスクワに住んでいて、頭にいくばくかの脳味噌を持ち合わせていたら、それこそどんな学校に通うまでもなく、いや応なしに文字を拾い読みできるようになるものだ。モスクワにいる四万匹にものぼる犬のうち、《ソーセージ》という文字を読めない犬というのは、まったくのばかかなにかだけである」(21ページ)

 シャリクはソーセージに導かれるままに、医者のフィリップ・フィリッポヴィチのもとで生活するようになる。この医者、フィリップ・フィリッポヴィチの自宅には診察室も併設されており、アパート管理委員会から、部屋を占有しすぎていると目をつけられている。いかにも1920年代のロシア的な構図だ。医者の言葉には、ブルガーコフらしい体制に対する反骨精神が随所に現れている。

「「食事というのは、まったくややこしいものだよ、イワン・アルノルドヴィチ。食べかたというやつを知らなければならんのだが、考えてもみたまえ、世の多くの人々は、食べかたをまったく知らないときている。何を食べるかというだけではなしに、いつ、どんなふうにして食べるかということも知らなければならないのだ。(フィリップ・フィリッポヴィチは意味ありげにスプーンを振った。)それから、食事中に何を話すかも問題だ。そうとも。もしもきみが、消化のことが気になるようだったら、一つ忠告しておくけど、食事中にボリシェヴィズムのことと医学のことを話さないことだ。それからもう一つ、食事の前にソヴェトの新聞を読まないことだよ」
 「なるほど……それでも、ほかに読むものがないじゃありませんか」
 「だから、なにも読まないほうがいいのだ。いいかね、ぼくは病院で三十人の患者にテストをしてみた。どんな結果が出たと思う? 新聞を読まなかった患者は気分良好だった。それにたいして、とくに『プラウダ』を読ませた患者のほうは、体重が減少した」」(56~57ページ)

 ちなみに『プラウダ』という新聞は、小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』にも登場してきた。これが、詩人の「自殺」を世に知らしめた最初のメディアだったのだ。つまり、信用ならない。

「「フィリップ・フィリッポヴィチ、先生は世界じゅうに名のとおった学者です、こう言っては悪いのですけど、あんな豚どもに……そう、あいつらは先生に指一本触れることだってできるものですか!」
 「そういうことだったら、なおさら、そんなことをするわけにはゆかないね」フィリップ・フィリッポヴィチはちょっと立ちどまり、ガラスの戸棚を眺めながら、物思わしげに反対した。
 「それはどうしてです?」
 「どうしてって、それは、きみが世界に名の通った学者ではないからだよ」
 「それはもちろん、わたしなんかは……」
 「そこが問題なのだ。最悪の事態になったとき、同僚を見捨て、自分だけは世界的な名声を利用して安全なところに逃げのびるなんて、失礼だが……ぼくはいやしくもモスクワの学者だ」」(168~169ページ)

 ずっと野良犬だったシャリクの、フィリップ・フィリッポヴィチ宅での生活は変化の連続で、それらが犬の視点から描かれているのがとてもおもしろい。

「その翌日、犬の首には、幅の広い、ぴかぴか光る首輪がはめられた。鏡を覗きこんだ最初の瞬間、犬はひどく落胆し、トランクか箱にでもぶつかって、なんとかして首輪をはずしたいものだと思いながら、尻尾をだらりと垂らして浴室に逃げこんだほどだった。しかし間もなく、犬は自分がまったくの愚か者であることを悟った。鎖につながれて、オブホフ横町まで散歩に連れて行かれたときのことだ。最初のうち、犬は恥ずかしさに身を焼きながら、囚人のようにのそのそと彼女のあとからついて行ったが、プレチステンカ通りの教会堂のところまで来たとき、この世で首輪が何を意味するかということをはっきりと理解したのである。すれちがうどの犬の目にも、もの狂おしいまでの羨望の色が浮かんでいたし、死人横町(ミョートルヴィ)では、尻尾を短く切った脚長の雑種犬から、「殿様犬め」とか「六本足で歩いてる」とか言って吠えられたほどだ。市電の線路を横切ったときなどは、民警がいかにも満足げに、尊敬するようなまなざしで首輪を眺めていたし、アパートにもどってきたときには、まったく思いもかけなかったことが起こったのだが、それというのも、玄関番のフョードルがわざわざ自分の手で正面玄関のドアを開けて、シャリクを通してくれたのである」(71ページ)

「「シャリクにはなにも食べさせるな」診察室のなかから命令が轟いた。
 「犬をよく見はっているのだ」
 「閉じこめておけ!」
 そこでシャリクは浴室に入れられ、しかも鍵までかけられてしまった。
 《畜生》シャリクは薄暗い浴室のなかにすわって考えた。《それに、まったくばかげている……》
 《ようし、深く尊敬するフィリップ・フィリッポヴィチよ、明日、あなたのオーバーシューズがどういうふうになっているか見るがいい》と犬は思った。《これまでにもオーバーシューズを二足買わなければならないようにしてやったが、またもう一足、新しいやつを買わせてやる。二度と犬をこんなところに閉じこめたりしないようにな》」(78ページ)

 ここまでわたしは自分でも驚くほど、この物語の肝心な筋書きに触れていないが、せっかくだからこのまま続けよう。『犬の心臓』があのグロテスクな二作と合わせて「三部作」と呼ばれている、というだけで十分な気もする。

「「どうしてみっともないのです!」彼は言った。「洒落たネクタイじゃないですか。ダーリヤ・ペトローヴナがプレゼントしてくれたのですよ」
 「ダーリヤ・ペトローヴナがそんな趣味の悪いものをおまえにくれたのか、その靴にしたってそうだ。なんだってぎらぎら光っているのだ? どこで買ったのだ? わしが何と言っていたか? ちゃんとした靴を買うようにと言っていたのに、それは何だ? まさかボルメンターリがそんなものを選んでくれたわけでもないだろう?」
 「おれが彼に命令したのです。エナメル塗りの靴を買ってきてくれと。いったい、おれがほかの人たちよりも悪いと言うのですか? クズネツキー・モストにでも行ってみてください、みんなエナメル塗りの靴を履いていますよ」」(114ページ)

「「よろしい」彼はいくぶん落ちつきをとりもどして言った。「言葉の問題で議論するのはやめておこう。それで、おまえのチャーミングな住居委員は何と言っているのだね?」
 「何が言えるというのです……」それに、彼のことをチャーミングなとか悪口を言うのはやめてもらいましょう。彼は利益を擁護しているのです」
 「だれの利益をかね、どうか教えてくれないかね?」
 「きまっているじゃありませんか、勤労階級の利益をですよ」
 フィリップ・フィリッポヴィチは目をむいた。
 「それじゃ、おまえは勤労者というわけか?」
 「きまっているじゃありませんか、おれはブルジョアじゃない、ネップ・マンじゃない」」(119~120ページ)

 人間と動物、どちらにより分別が備わっているか、というのは、おもしろい質問だ。だれもそんなことをまじめに質問しそうにないから、とりわけおもしろいのだ。そしてブルガーコフは、それを訊く作家なのである。

「すると不意に、診察室の中央に湖が現われ、そこでは、桃色をした犬たちが愉快そうにボートを漕いでいた」(82ページ)

「どんな百姓女だって好きなときにスピノザを産むことができるというのに、どうしてスピノザを人工的に作りださなければならないのだね?」(172ページ)

 途中からグロテスクな部分が多くなるため、犬好きのかわいい女の子などにこの本を薦めるのは犯罪である。それは猫好きのかわいい女の子に『巨匠とマルガリータ』を薦めるようなものだ。とはいえ、読後の後味が悪いわけではないので、ちょっと始末におえない。やはりホフマンのように気安く手に取れるので、ブルガーコフはもっと翻訳されてほしいな、と思った。

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)

 


〈読みたくなった本〉
ザミャーチン『われら』
チャヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』
レンブルグ『トラストDE』
カターエフ『エレンドルフ島』(邦訳なし?)
ソ連1920年代は文学的には「幻想」の時代でもあり、SFやアンチユートピア、非リアリズム的幻想の注目すべき作品が次々に書かれていた。『犬の心臓』もまた、ザミャーチン『われら』(執筆1920-21)、チャヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』(1920)、エレンブルグ『トラストDE』(1923)、カターエフ『エレンドルフ島』(1924)といった同時代の作品の流れの中に置いてみることができるだろう」(沼野充義「解説」より、218ページ)

われら (岩波文庫)

われら (岩波文庫)

 
農民ユートピア国旅行記 (平凡社ライブラリー (788))

農民ユートピア国旅行記 (平凡社ライブラリー (788))

 
トラストDE―小説・ヨーロッパ撲滅史 (文学の迷宮)

トラストDE―小説・ヨーロッパ撲滅史 (文学の迷宮)

 

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』
「権力者スターリンとの複雑な関係は、亀山郁夫が名著『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(岩波書店)で描きだしたように、反逆とすりよりの両面をあわせ持った「二枚舌」的な性格をとらざるを得なくなり、それは死の直前まで書き続けられた『巨匠とマルガリータ』にも複雑な形で刻印されている」(沼野充義「解説」より、222ページ)

磔のロシア――スターリンと芸術家たち (岩波現代文庫)

磔のロシア――スターリンと芸術家たち (岩波現代文庫)