Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

舞姫タイス

 こいつ、マジでやりやがった。読み終えた瞬間に抱いた想いを、ざっくばらんに書くとこんな感じになる。アナトール・フランスのやつ、ほんとうにやりやがった、と。つい三十分ほど前のことで、まだ興奮が醒めていない。居ても立ってもいられなくなってしまい、いまこれを書きはじめた。

アナトール・フランス小説集〈3〉舞姫タイス

アナトール・フランス小説集〈3〉舞姫タイス

 

アナトール・フランス水野成夫訳)『アナトール・フランス小説集 第3巻 舞姫タイス』白水社、2000年。


 今日は仕事帰りに、近所の喫茶店に寄った。せめて50ページ読み進めるまでは、この席から一歩も動かないぞ、という覚悟とともに(本を読みたいのに読めないような日常を送っているときは、無理やりにでも本に集中するための環境を整えなければならない、とわたしは考えている)。一杯だけのつもりだったコーヒーの二杯目が運ばれてきたあたりで、すでにわたしの夜の予定は大きく狂っていた。読み終えるまで立ち上がれなくなったのだ。ついにさきほど読み終えたわけだが、もうその途端、走り出したくなるほどだった。どれくらい舞い上がっていたかというと、帰宅後すぐに顔を洗ったとき、眼鏡を外し忘れたほどである(たまにやる)。いまでも胸のうちは、「やった、やりがった、アナトール・フランス!」と叫びたい気持ちでいっぱいだ。喫茶店からの足早な帰途、自分がいったいどんな顔をしていたのかは、ちょっと想像したくもない。

 白状すると、読みはじめのうちは、アナトール・フランスにしては退屈な本だな、と思っていたのだ。ほんとうに好きな作家の本をじっくり読む愉しみを取り戻したい、と思っていたので、宝物庫に降りて行ったつもりで手ぶらで帰ることになりはしないか、という恐れさえ抱いてしまったほどだ。それが中盤以降、大いに裏切られたことはお察しのとおりだが、すこしでもアナトール・フランスを疑った自分はなんて愚かだったのだろう、といまは思う。このエピクロスの徒として知られる作家が、われわれを裏切るはずもないのに。

「たとえどこにおろうとも、他処へ行くため慌ててそこを立ち去ってはならぬ」(20ページ)

 この『舞姫タイス』は、簡単に言ってしまえば主人公である老修道士パフニュスが隠遁生活のさなかに天啓を受け、アレクサンドリアでいちばんの舞姫、娼婦であるタイスを、キリスト教の教えに導く、という話である。この作家の形容詞ともいうべき「エピクロスの徒」という言葉が、倫理学や哲学の範疇でどんな意味を持っているかを知っているひとにとっては、度肝を抜かれる筋書きだろう。パフニュスの至高の目的のなかに、エピキュリアン的なものはもちろん一切含まれていない。これは紀元後4世紀ごろのエジプトを舞台に繰り広げられたかもしれない、神学問答の証言なのである。

「悪魔というものは、実際には醜悪であろうとも、その本性を見分けかねるほど美しい外観をとることが往々にしてあるからである。テーバイの苦行者たちは、その密室のなかで、俗界の遊蕩児たちにさえ身に覚えのないほど淫らなイメージのかずかずを頭に描いては、愕然とするのだった」(9ページ)

「隠者たちにとって危険でないものはこの世にひとつもない。だから、救世主が町から町へと捗り歩き、お弟子たちと晩餐を共にしたという物語を聖書のなかで読むことすら、彼らにとってはひとつの危険となる場合が往々にしてある。隠者たちが信仰の織物の上に心をこめて縫取りするもろもろの徳は、華やかではあるが同時に脆いものでもある」(原文ママ、23ページ)

 以前『神々は渇く』『シルヴェストル・ボナールの罪』によって、ユマニスムのすばらしさをわたしに叩きこんでくれた作家らしく、ギリシア神話の神々の名がひっきりなしに登場し、『物の本質について』を書いたルクレティウスについてはその名前こそ挙がらないものの、『神々は渇く』で読者たちを戦慄させたブロト老や、中篇作品『やせ猫』の彫刻家ラバヌのような、明らかにエピクロス崇拝者である人物も登場してくる。哲学者のニシアスである。

「おお、私のタイスよ! さあ、生命を享楽しよう。多くを知覚したものが多くを生きたことになるのだよ。官能のそれ以外に知性というものはない。つまり、愛することは理解することだ。われわれが識らぬもの、それは存在していないのだ」(97ページ)

「家に戻ると、ニシアスが待っていた。彼は、髪を馥郁と薫らせ、長衣(チュニック)の胸元を押しはだけて、『倫理綱要』を読みながら彼女の帰りを待っているのだった」(100ページ)

 彼のような「軽薄な哲学者」が、アナトール・フランスの作品にはたびたび登場する。上掲のブロト老しかり、ラバヌしかり。彼らのような人物に出会うことがこの作家を読む愉しみであると断言してもいい。

「さあ、もっと話した、話した、僕のドローゼ。たとえどんな憎まれ口を叩こうとも、君が口を開けるごとに僕は君に感謝しなければならぬ。君の歯はなんて美しいだろう!」(129ページ)

「「愛する魂よ、僕だって真理ぐらいもってるよ」と、微笑みながらニシアスが言葉をつづけた、「パフニュスはたったひとつしかそれをもっていないが、僕はあらゆる真理をもっている。僕はパフニュスよりも富んではいるが、正直なところ、だからといって彼よりも得意だというわけでもなく、また幸福だというわけでもない」」(187ページ)

 絶世の美女タイス、「男性の肉欲のために生まれてきた」、「永遠のヘレネ」である彼女を形容する言葉は、どれも非常に美しい。

「苦悩の色さえも、タイスの顔に表われると、美しかった」(64ページ)

「あの女は、あの女を自分のものにしなかった男たちにさえ悦びを与えた。男の連中が女を愛したのは、タイスの面像を頭に描いてのことだった。あの女が全然いなかったら、誰も接吻なんか交わさなかったはずだ。なぜなら、あの女は肉欲のなかでの肉欲であるからだ。そして、あの女が俺たちのあいだで呼吸していると考えるだけで、俺たちは快楽への想いをかき立てられたものなんだ」(179~180ページ)

 パフニュスの行く手にはさまざまな論敵がつぎつぎと現れるため、彼らとの対話が本の大半を占めている。プラトンの「対話篇」を強く意識した印象を受ける議論の数々は、これが小説であることを忘れさせるほどだ。

「異国人(とつくにびと)よ、わしは何ひとつ幸福を断ってはいない。いや、十分満足のゆく生き方を見出したと自惚れている、もっとも、厳密に言えば、生き方に善悪の別などありはしないが。何ものも、それ自体としては、名誉不名誉、快不快、正邪善悪のいずれでもないのだ。あたかも塩が料理に味をつけるように、事物にいろいろの性質を賦与するのは、人間の見解じゃ」(29ページ)

「『人びとが悩み苦しむのは』とわしは考えた、『つまり、これが幸福だと信ずるものをもっていなかったり、また、それをもっていればいるなりにそれを失くしはしないかと心配したり、あるいはまた、これが不幸だと信ずることをじっと耐え忍んだりするからにほかならない。こうした信念を残らず投げ棄てることだ。そうすれば一切の不幸は消え失せるのだ』」(34ページ)

「神を見るためには死ぬだけでは不十分だということはきわめて明らかなこと」(51ページ)

 第二部後半、その名も「饗宴」は、あきらかにプラトン『饗宴』を材とした旺盛な議論で、この章だけ戯曲のように人びとの議論が書き連ねられていく様には驚かされる。そしてプラトンといえば、ちょうど『ゴルギアス』に出てくるカリクレスのように、論敵(ソクラテスの対話相手)にも論理的で説得力のあることを語らせる技量で知られているが、アナトール・フランスの模倣はこの点においてもなんらの綻びも見せない。だが、今後手に取る方がいるかもしれないという期待とともにわざわざわかりにくい書き方をすると、この『舞姫タイス』においては、カリクレスは主人公のほうなのだ。

「私は何の栄光もない時代に生きることを恥辱とする」(141ページ)

「醜いものはもちろん醜であって、美ではない、しかし、もしも万物が美しいとしたなら、万物は美しいとは言えないであろう」(149ページ)

 議論が行き過ぎたときの常として現れる罵詈雑言は、罵っているはずなのにとても詩的で、読んでいて楽しくなってくる。

「「消えて失くなれ、この狒々坊主め!」と、猛り立った青年がやり返した、「俺の恋人に何を話そうと、俺の勝手だ。下手なじゃまだてなんかしやがると、その鬚を引っ張って、手前の猥褻な図体をあの火のなかへ引き摺りこみ、豚の腸詰みたいに火あぶりにするぞ!」」(182ページ)

「汝の口から洩れる息吹きは絶望と死とを発散する。汝の微笑のたったひとつのなかには、煙を吐くサタンの唇から一世紀間に洩れるそれより遥かに多量の冒瀆がこもっている。退れ、神に見捨てられた者よ!」(190ページ)

 無教養なはずの端役の女たちでさえも、アナトール・フランスの手にかかると気の利いたことばかりしゃべりまくる。

「あたしだったら、きっと、あの男の唇で接吻されるよりも、煙の絶え間もないエトナの噴火口に接吻されるほうがましだと思うわ」(126ページ)

「見聞の一番広くなるのは旅行中のことですわ。たった一日外ですごしますと、十年間家に閉じこもっておるよりももっと多くの新知識を得ることだって、たびたびございますわ」(240ページ)

「「いたって仕方ないでしょ?」と彼女は言った、「そんなに激しい想像力を賦与されてる恋男には影のそのまた影で十分よ」」(249ページ)

 また、物語の筋書きとは関係ないところで繰り広げられる会話も、この作家の醍醐味のひとつだ。以下の箇所、あらためて見てみると、ほんとうに物語には関係がなさすぎて笑えてくる。これだから読書はやめられない。

「何らかの信仰を強制するごときは政府のなすべきことではない。善いにせよ悪いにせよともかくも時代と場所と民族の特質によって基礎づけられた現存の信仰に満足を与えるのが政府の義務じゃ。それに反してもしもそうした信仰との闘争を企てるとするならば、それによって政府は自己が精神のうえでは革命的であり、行為のうえでは暴君的であることを示すことになる。嫌われるのは当然じゃ」(229ページ)

「「閣下、世の中には理性や科学よりもずっと強大な力が存在するものなのです」
 「どんな力かな?」とコッタが訊ねた。
 「無知と狂気です」とアリステが答えた」(231ページ)

 描写の数々も圧倒的で、この翻訳者の古臭い訳文(失礼)もあいまって、何気ない一文でさえ胸に響いてくる。

「彼の刑苦は三日三晩つづいた。人間の肉体がこれほど長い責苦に耐えうることは、まったく嘘みたいな話であった。数回にわたって、彼はもう息をひきとったかと思われた。蝿の群れがまぶたの目やにをうまそうに舐めていた。が、不意に彼は血走った目を見開くのであった」(84ページ)

「海のさざなみよりも数多い接吻を眺めたこれらの長衣(チュニック)や、これらの面紗(ヴェール)は、天の御恵みによって、もはや炎の唇の舌のほか何ものをも感じないであろう」(175ページ)

 まったくもってユマニスムとエピクロス礼讃に溢れた一冊である。すべての神学的・哲学的問答は、本を閉じるころにはおしなべて最終的な結論に至るための伏線でしかなくなっている。ここまで徹底した結論はそうそう書けるものではない。普通の作家だったら匿名で出版するなどして徹底的に逃げだしたくなるところを、アナトール・フランスは躊躇なくやってのけた(まあこんなものを書けるほどの博学はそうそういないので、匿名で出したとしてもすぐにバレそうだが)。冒頭で書いた「やりやがった!」というのは、こういった経緯からである。たとえば家族のだれかに「読ませて!」なんて言われたら、いったいどう対応していたのだろう……。

「そのまぼろしは、実在するものの断じてもちえないある精密さをそなえているのだった。というのは、実在するものがすべてそれ自体動きかつ錯雑しているのに反して、孤独のなかから生ずる幻影はいずれも深刻な性格をおびており、かつ力強い固定性を示すものであるからだ」(207ページ)

「わしのうちに鬱積する無限の憤怒を吐き出すには、永遠の地獄へ堕ちることがぜひとも必要なのだ」(267ページ)

 ホメロスの名にさえ注が付いているほどに訳注も多く、けっして読みやすい本ではないのだが、プラトンが好きなひと、エピクロスの思想、ユマニスムや当時のキリスト教について知りたいひとにも、手放しにおすすめできる一冊だ(どうでもいいが、ホメロスの名すら知らないようなひとが、アナトール・フランスを手に取る可能性なんてあるのだろうか……)。読み終えた瞬間の、走り出したくなる衝動は、ちょっと忘れがたい。いつかまたきっと読み返したくなる一冊である。

アナトール・フランス小説集〈3〉舞姫タイス

アナトール・フランス小説集〈3〉舞姫タイス