Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

タンジブル

 またしても書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」より。短歌に興味を持つようになったばかりのわたしのような読者にとって、これほど手に取りやすい選集はない。解説を含めても200ページに満たない厚さで、1ページあたりの掲載歌数は二首から多くても五首程度。肩肘張らずに開くことができる。現代短歌の魅力・盛り上がりを伝えようとする出版社の意気込みが感じられるすばらしいシリーズで、おかげで短歌がずっと身近なものになった。

タンジブル (新鋭短歌シリーズ2) (新鋭短歌 2)

タンジブル (新鋭短歌シリーズ2) (新鋭短歌 2)

 

鯨井可菜子『タンジブル』書肆侃侃房、2013年。


 木下龍也の『つむじ風、ここにあります』、陣崎草子の『春戦争』、それから五島諭の『緑の祠』は、それぞれの記事にも書いたとおり、親しい友人に薦めてもらったものだったのだが、この鯨井可菜子は自分で選んで購入した。新鋭短歌シリーズのホームページには「一首評」という、歌人同士の歌の褒め合い(?)欄があるのだが、そこに以下の三首が紹介されていたのだ。

  皿の隅ポテトサラダはひっそりと春の一部となりて動かず(61ページ)

  遮断機の棒は闇夜に横たわり綿雪ほそく積もりはじめぬ(106ページ)

  今日食せしもの唯一の緑なる小松菜そうだがんばれ小松菜(117ページ)

 たしかにポテトサラダって、ハムのピンクまで含めてパステルカラーだし、春めいている。また「遮断機の」の静けさ、眺める〈わたし〉の感情がいっさい描かれていない点には、好感以外抱けない。小松菜の歌からはもうすこし作為というか、推敲のあとが感じられるけれど、その考えぬいた結果が「小松菜そうだがんばれ小松菜」だなんて、この歌人楽しいじゃないの、と思って購入したのだった。ところがじっさいに歌集を読んで、わたしはこの作者と以前にも出会っていたことがわかった。

  試着室会ったばかりの店員に胸さわらせるドレープの奥(31ページ)

 この歌、穂村弘『短歌ください』に紹介されていたのだ。一巻目のほう。おや、と思って見てみたら、作者名には「五香」とある。ちなみにいまあらためてぱらぱらとページをめくってみたら、同書には「鯨井五香」という名前で掲載されている歌もあった。鯨井なんてそうそう見かける名字でもないのに、作者名なんて見てもいない自分に驚く。でも歌を覚えていたことはうれしい。もちろん重要なのは歌のほうなのだから。『図書館』の著者、アルベルト・マングェルがどこかで書いていたとおり、「理想的な読者というのは、すべての文学作品を匿名作家のものとして読む」のだ。ところでこの歌、自分が女の子だったら気にも留めなかったのかな、と、ちょっと考えてしまう。この歌にどきっとさせられるのは、自分が男だからなのかも、と。

  試されることの多くて冬の街 月よりうすいチョコレート噛む(8ページ)

  靴擦れで出社せる朝コピー機は紙が欲しいとひいひい泣けり(54ページ)

  全員に名刺を配る会議室フォークダンスのごとき輪をもて(117ページ)

  この夏に死なぬ約束コンビニのおくら納豆ねばねば蕎麦と(120ページ)

  ついて行くと駄々をこねたる一抱えの校正紙ありて鞄に入れる(121ページ)

  室内に育ち過ぎたるドラセナの葉をよけながら拾うFAX(126ページ)

  わたしには無理なんですと雨上がりにぐっしょり濡れた日傘ひらいて(129ページ)

 このひとは「働く歌人」というか、仕事に費やす日常が見え隠れする歌が多い。「試されることの多」い日常、コピー機にFAX、昼休みのコンビニ、それから編集者ならではの語彙「校正紙」。優雅なはずのものである「日傘」が、突然の雨に実用性を求められてしまうところなんて、泣けてくる。「わたしには無理なんです」の言葉が重い。それから、通勤が一日の大きな部分を占める日常のせいか、電車や駅に注視した歌も多かった。

  ベビーカーの押し込まれるを見守って山手線に乗り損ねたり(19ページ)

  中央線の枕木ゆるく流れ出す夜にあなたを呼ぶ笛ラムネ(17ページ)

  終電に抱きしめられて胸のうち暗きブロッコリーの生えゆく(29ページ)

  うつぶせの淡き夜明けにかなしみは六両編成で来たりて停まる(52ページ)

  納棺のごとく夜更けの地下鉄に沈める新しき改札機(57ページ)

  朝の駅 人は群れなし大きなるカスタネットの中を歩めり(69ページ)

  肋骨を透かし見るごとうなだれて終点に未だ目覚めぬ男(74ページ)

  四つ辻の日なたの上をかたかたと市電は一両ずつ曲がりたり(92ページ)

  一泊の荷物隠してまひるまのうすむらさきのコインロッカー(100ページ)

  従順なわれら憎みて地下鉄のエスカレーターに吹き下ろす風(122ページ)

 あ、これは駅前だ、と思わずにはいられないような歌もある。

  夕闇に赤い自分を編む羊このまち統べるごとしユザワヤ(10ページ)

  小川はさむほどの距離もて宝くじ売り場と托鉢僧の並びき(33ページ)

 わたしはずっと吉祥寺が地元だったので、「ユザワヤ」という言葉には異常に敏感に反応してしまう。上にあげた歌にも「中央線」があるし、生活範囲が近いような気配。いや、ユザワヤって、ほかの街にもあるのかもしれないけれど。「宝くじ売り場と托鉢僧の並びき」は新宿西口のイメージ。「小川はさむほどの距離」という表現がなんとも言えない。その見えない小川の深さよ。

  さよならって言おうとしたら足許にきれいな刺繍糸があったの(17ページ)

 これもユザワヤ度(?)が高い歌である。福岡のひとらしいけれど、勝手に同郷の気分。だが、以下のような歌もあり、これを見ると地元の共有感は勘違いだとすぐにわかる。

  県境の森くらぐらと道ゆかば錆びし看板〈大木切ります〉(71ページ)

 恋愛の歌にもおもしろいものが多い。優等生的な意味での「いい歌」というよりも、「おもしろい」としか評せないような歌。なんなの、その視点、と言いたくなるような。

  熱心に新発売の草を食むシマウマっぽく胸をくすぐる(11ページ)

  風吹かばいよいよ月は澄むばかり静かなる夜 鳴れよ携帯(12ページ)

  うしろから抱き締める手が差し出した多分効き目の強いフリスク(21ページ)

  恋人のように歩けば街路樹の落ち葉がぜんぶ裏返る道(27ページ)

  幻の恋人かつて黄金のジンジャーエールを飲ませたがりき(49ページ)

  来なかったひとの名前をレジ横の〈空席待ち〉に書き足して去る(52ページ)

  枕辺にそっと指輪を抜き取って匂いをかいで元に戻せり(96ページ)

  会いにゆくタクシーの中フリスクを(ふたつ零して)ひとつぶ噛んだ(101ページ)

  わたしたちを隔てる皿にさやさやとパルメジャーノの雪は降りつむ(112ページ)

 最初の「風吹かば」は和歌みたいな言葉づかいできれいな世界が詠われているのに、「鳴れよ携帯」で一気に現代に引き戻される感じがすごい。「落ち葉がぜんぶ裏返る道」には、上に引いた「ブロッコリー」の歌のような怖さがある。自分の力ではどうしようもないような。それから、図らずもフリスクを二首も引いてしまった。ところで、フリスクというと木下龍也が『つむじ風、ここにあります』で書いていた「あとがき」を思い出さずにはいられない。たぶん「フリスク」という言葉を見聞きするたびに思い出す。フリスクはもう歌語でいい。和歌といえばこんな歌もあった。

  めそめそと暮らせば部屋は蛾に好かれ桔梗は枯れて茄子は腐った(27ページ)

 なんなの、この泣きっ面に蜂感。散々な内容なのに、声に出すとおそろしくリズミカル。『金槐和歌集』で知られる、源実朝の以下の和歌がちょっと思い出される。

  おほ海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

 それから、以下は家族を詠った歌たち。ちょっとびっくりするほどいい歌ばかり。鯨井可菜子は家族を詠うとき、驚くほどに輝いている。

  風光る夏の画塾よ弟がスケッチブックを見せてくれない(23ページ)

  同棲をしたいと切り出す妹の納豆の糸光る食卓(23ページ)

  朝八時到着ロビーで待っている両親、わたしの喪服を持って(37ページ)

  「信念をつらぬく」というタイトルの本逆さなり母の本棚(57ページ)

  見切り品の漬物に手を伸ばす父 カゴに入れさすまいとする母(61ページ)

  妹は遥かな部屋に恋人と木を育てゆくように暮らせり(63ページ)

  水底に眠れるごとき妹に猫は添いつつ いっぴき にひき(123ページ)

  餃子の皮二枚あわせて弟のつくるUFOみっしりと肉(124ページ)

 この妹、気になる。弟も気になる。描かれかたが愛に溢れていて、ちょっと忘れがたい。お父さん、「見切り品の漬物」を食べたがっているところがかわいい。その「かわいいな」と見つめる視線を読者にも共有させる、というのは、すばらしい歌だと思う。

  瓶のふた今ひねるから生姜ジャムきゅぱっと夏に連れていってよ(46ページ)

  切れたから触れる電球そのときが一番熱いような気がする(51ページ)

  吐くごとくこぼす涙を熱きままひたすらに吸えキッチンタオル(76ページ)

  閑職の机の日なたほのぼのとあんぱんのくずあたためており(86ページ)

  枯枝のすきまを満たし夕暮れはふと金色に膨らみて消ゆ(102ページ)

  朝食のバターナイフは簡潔な祈りのごとき往復を成す(111ページ)

  生き死にのたやすきことよ冬の日にひかり含ませ折る薬包紙(113ページ)

  空洞の腹を圧されてマヨネーズひゅうと掠れた笛を鳴らしつ(131ページ)

 日常にありふれた風景というのは、ありふれている分、なにか飛躍するジャンプ台みたいなものがないと、歌としてつまらないものになってしまう。ロラン・バルト『明るい部屋』で使っていた言葉で言えば、ストゥディウム(一般的関心)以上のものをもたらさないということ。突き刺すもの、プンクトゥムがないということ。そしてはっきり言って、鯨井可菜子のこの歌集の場合には、ここでは引かなかったけれども、そういうジャンプ台が不足しているような歌も数多い。だからじゃないけれど、「あ、飛んだ」と思えるとき、一首がものすごく輝いている。

  ふと髪を撫でられる道 月面にぽつんと冷えるグランドピアノ(9ページ)

  ビスケット託して放つ伝書鳩その密告は食べても構わん(11ページ)

  点滴はまつげの先にゆきわたり海洋性の夢をみるひと(43ページ)

  ふりむけば足音も無くペンギンが立っていた水槽のうちがわ(67ページ)

  水族館バックヤードに鉢ありて金魚一匹飼われておりぬ(70ページ)

  解説のハセガワさんは目の前のマイクの網目が気になっている(84ページ)

  霧ふかき谷の工場に幾千の納豆巻の横たわる夜(103ページ)

 さて、無理やり決める「いちばん気に入った歌」、今回は以下の一首を選んだ。理由は上述。

  わたしには無理なんですと雨上がりにぐっしょり濡れた日傘ひらいて(129ページ)

 響いてくる歌とそうでもない歌との落差が激しい歌人で、その判断にもさほど時間がかからないため、この歌集はちょっと不敬と思うほどの速さで読み終えてしまった。でも、そのぶん、ページを繰る手を止めさせる一首に出会ったときの快感は忘れられない。驚くほど気楽に手に取れるので、ぜひ多くのひとの手に渡ってもらいたい。

タンジブル (新鋭短歌シリーズ2) (新鋭短歌 2)

タンジブル (新鋭短歌シリーズ2) (新鋭短歌 2)