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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

古典和歌入門

 和歌についてもっと知りたいと思い、手にとった本。先日の『ちびまる子ちゃんの短歌教室』もそうだが、一般的に子ども向けに書かれた概説書には良書が多い。とびきりわかりやすく書かれていて、さらなる興味を掻き立ててくれ、おまけに次にどんな本を読むべきか、道案内役まで果たしてくれる。つまり、子どもだけに読ませておくにはもったいない、そういうすてきな本がとても多いのだ。加えて言うと、岩波ジュニア新書にはとくに多い。かなり前に茨木のり子『詩のこころを読む』を読んで以来、わたしは岩波ジュニア新書に絶対の信頼を寄せているのだ。

古典和歌入門 (岩波ジュニア新書)

古典和歌入門 (岩波ジュニア新書)

 

渡部泰明『古典和歌入門』岩波ジュニア新書、2014年。


 和歌というのは、考えれば考えるほどにものすごい文化である。まず、その成立の早さ。興味を持つまでは気づきもしなかったけれど、『万葉集』が遅くとも8世紀に編まれているというのは、ちょっと驚きとしか言いようがない。フランス語で書かれた最初の文学とされる『ロランの歌』だって、11世紀の成立である。じつはいまわたしは中東に住んでいるのだが、当地の友人が『ルバイヤート』の詩人オマル・ハイヤームの話をするのを聞いて、酒好き詩人つながりで「そういえば日本にも大伴旅人っていう歌人がいてね……」と話してみたところ、オマル・ハイヤームが11世紀の詩人であることに誇りを感じていたかもしれない友人は、「7世紀の詩人? 17世紀の間違いだろう」と言った。「嘘じゃないよ、ほら665年生まれだよ」と、持ち歩いている短歌ノートまで見せて納得してもらったのだが、まあ疑うのも無理はないだろう。和歌、なかでも短歌という定型が生まれただけでなく、それが流布し、しかも現在まで残っているということは、端的に言って異常なのだ。これが実現されるために、勅撰和歌集という枠組みが果たした役割はかぎりなく大きい。

「考えてもみてください。『古今和歌集』は今から千百年以上も前の書物で、そんなに古い時代の作品が今も残っているのです。しかも多くは作者の名前付きで。勅撰和歌集ではありませんが、『万葉集』ならもっと古いことになります。ほかにこんな例はありません」(ivページ)

「和歌を作っていた昔の人たちは、勅撰和歌集に取り上げられさえすれば、自分たちの作品が、千年後も二千年語も残るだろうと確信していました。それこそが和歌の力なのであり、その和歌の力を結集した勅撰和歌集の栄光なのだ、と信じていたからです」(vページ)

 さて、この本ではそんな勅撰和歌集の一般的構成(「部立て」というそうだ)をもとに、「四季」「恋」「雑」の順で、時代もさまざまな歌集から50首あまりが紹介されている。50首というと一冊の本にしては少なすぎる感があるが、参照されたであろう歌や、もとになった本歌なども合わせて紹介されているため、単純な掲載数は100首を超えるだろう。なによりありがたいのが、掲載数を50首まで絞り込んだことで、一首につき4ページもが解説に充てられていることである。解説は文法事項も含め、どんな機会に詠まれたものか、後世どのように受け容れられたかなど、興味深い話が多い。わたしは和歌を読むうえで必要になってくる細かな知識を求めていたので、そういったトリビアルとさえ言える情報に溢れた解説はありがたいかぎりだった。たとえば、

「春が来たことは何によって発見できるのでしょうか。歌の世界では、霞こそが春の到来を表すものの代表とされました。霞は霧とは違うので注意してください。和歌では、霧は秋の季節のもの、霞は春のものです」(3ページ)

 これは、以下の一首について書かれた解説の一部である。

  春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみてけさは見ゆらむ  壬生忠岑(2ページ)

 よくよく考えてみれば思い当たることではあるが、「春霞」は耳に親しんでいるものの「秋霞」なんていう言葉は聞いたことがない。「霞」が春の言葉だというのは、わたしにははっきりと驚きであった。じゃあ「霞を食って」生きるとされる仙人は、春にしか食事できないの? なんて心配になってしまう。まあ、仙人だから大丈夫か。また、現代の感覚では、霧が秋のもの、というのさえ発見である。霞とは違って、霧はもっと一般的な言葉として日常的にも使われているので、いまでは当然秋以外の季節でも使われているとは思うものの、たとえばこれを知ったうえで、須賀敦子『ミラノ 霧の風景』を読んだなら、立ち上がってくる風景はちがったものになるだろうと思う。言葉を知るというのは、いつもとても心地よいものだ。ところで掲出の一首については、以下のような文章が続いている。

「実際に霞はかかっているのか、そう見えているだけなのか、よく考えるとわからなくなります。真相はぼんやりと謎めいてきます。それこそ春の霞にふさわしいでしょう。こういうのを「余情」といいます。「よじょう」と読んでもいいのですが、昔の人はこれを「よせい」と呼んで、和歌の優れた表現のあり方として重視しました。読み込むほどに歌の内容が深くなっていくような、そして心に染み込んでいくような表現の働きのことです」(5ページ) 

 こういう解説がいくつもつづいて成り立っている本なのだ。訳文や文法事項偏重の一般的な和歌の解説というのとははっきり異なり、説明口調に陥ることなく興味をかきたててくれ、同時に知識も与えてくれる。おまけに、その知識を生かす機会さえ、ひっそり与えられているのだ。

  都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関  能因法師(130ページ)

 ページもかなり進んだところ、「雑」に収められた旅の歌である。またしても「霞」。だが、一首には「秋風ぞ吹く」とある。つまり「都」、すなわち京都を発ったのが春で、いまの福島県白河市にあたる「白河の関」に着いたのは秋だった、ということなのだ。

「一首は、春、霞が立つころに都を出発したが、ここ白河の関にたどり着いた時には、秋になってしまった、と歌っています。「たつ」は霞が「立つ」と都を「発つ」との掛詞ですね。いかにも春に旅が始まった、という感じを強めています。そして春から秋へ、旅をしているうちに半年近くが経ってしまったというのです。みごとに、都との距離感が表されていますね」(131ページ)

 昔の移動手段のことを考えてみたら、たぶん徒歩での旅である。そりゃあ京都から福島まで歩いて行ったら半年くらいかかりそうだ、と、わたしなどは単純に考えてしまうが、おもしろいことに解説によると、この一首には「半年もかかるはずがない、能因法師は陸奥には行かなかったにちがいない」という批判があったそうだ。もしほんとうに必死に歩いて行っていたとしたら、これほど可哀想かつ不敬な批判もないが、それほどまでにこの一首の完成度が高く、そのあまりの美しさに作り物めいて映るのだろう、と著者は解説している。

 旅といえば、『ちびまる子ちゃんの短歌教室』にも紹介されていた一首とも再会した。『万葉集』、例の有間皇子の、処刑前の護送中に詠まれた歌だ。この解説もちょっとおもしろい。視点が変。

  家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る  有間皇子(138ページ)

「現在でも、私たちは自分の茶碗やお箸にこだわりをもちます。ところが一方、個人主義だといわれる欧米の人々でも、自分のフォークやお皿に固執するという話はあまり聞きません。食器に関しては、意外にも日本人はかなり個人主義的なのです。もちろん、古代人をそれと同一視することはできないでしょうけれども、生命の維持に欠かせない、食事という神聖な行為にかかわる食器に、こだわる気持ちがないはずがありません」(139ページ)

 ところで、読んでいて気がついたのは、『ちびまる子ちゃんの短歌教室』に選ばれていた和歌と、驚くほどに重複が多いということだ。「あ、これ知ってる!」と何度嬉しくなったことか。百人一首でさえ、よく知られている歌とそうでない歌とがあるが、百人一首に採られていないような歌にも、やはり秀歌としていろいろな本に紹介されているものがある。たとえば、以下の一首。これは百人一首にも採られた清原元輔の歌の本歌として、やはりいろいろな本に登場してくる歌だ。

  君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ  よみ人しらず(92ページ)

  契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは  清原元輔(95ページ)

 おもしろいのは、もとの歌のほうの本歌としての有用性、という解説である。

「さて、この「君」は男でしょうか、女でしょうか。「君」は『万葉集』では女から男への呼びかけに使われていますが、平安時代には、男からでも女からでも使われるようになりました。だからどちらかはっきりわからない、というのが、正直なところです。けれど、それがむしろ、後世にこの歌の大きな利用価値を生み出しました。男の誓いの言葉としても、あるいは女のでも、どちらでも使うことができるからです」(93~94ページ)

 また恋の歌が出たので書くと、部立ての一つである「恋」についても、渡部泰明はとてもおもしろいことを書いている。なにせ、天皇勅命による勅撰集である。そんな本に恋の歌が溢れている、というのは、よくよく考えてみればたしかにおかしなことなのだ。

「恋と恋愛は、同じではありません。恋愛は、男女二人がいれば、それで完結します。一人ではできないものですし、また二人以外の邪魔者は、いないほうがいい。けれども恋は、もっと大きな世界をもっています。逆に一人でも恋せるのです。今でいう「片思い」ですね。それは、歌の恋の重要なテーマです。というより、和歌の中の恋は、いつでも片思いです。「恋ふ」は「乞ふ」ものです。全身で求め、願うものです。仮に両思いであったとしても、自分の恋しさのほうがずっと深い。それゆえ必ず片思いなのです」(vii~viiiページ)

「社会はいつでも恋に対立します。恋する人間にとって、障害であり、敵です。社会というと堅苦しいですが、歌の言葉でいえば、「世」であり「世の中」です。恋の歌には「世」「世の中」が繰り返し詠まれます。恋しい相手だって、現実に囚われていて、恋に逃げ腰であれば、もう社会の一部でさえあるのです。障害としての社会にぶつかりながら、「恋ふ」気持ちを抱きしめている。それが「恋」の核心です。社会という制約の中で、自分の真情を大事にすること。そう考えれば、これは人が生きるあらゆる局面にかかわってくることがわかるでしょう。だからこそ恋は、公的な一大テーマとなったのです」(ixページ)

 なるほど、と納得のいく説明である。でも、『新古今和歌集』の藤原定家のものまでいくと、これはさすがにちょっとやりすぎなのでは、と思わなくもない。ものすごくエロティックな歌があるのだ。

  かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ  藤原定家(104ページ)

 だが、これには和泉式部の本歌があり、そちらも負けずと官能的だ。

  黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき  和泉式部(105ページ)

和泉式部の歌の特徴は、自分の姿を自分で見ているところにあります。「黒髪の乱れも知らず」というのは、実際に臥している人間の認識ではありませんね。本人は無我夢中のはずですから。それを外から見ている、男の視線を自分のものにしているのです。「かきやりし人」の視線ですね。男の視線で自分を見ることができる。主演女優であり、映画監督でもある、といったらよいでしょうか。そこに和泉式部の匂い立つようなエロティシズムの源泉があります」(106ページ)

「定家の歌もまた、時間と自他の区別とを超越している。まるで和泉式部の歌と手足を絡み合わせるかのように」(107ページ)

 個人的には藤原定家の歌はわかりにくいというか、情報量が多すぎて難しくみえるものが多いのだが、その難解さの奥にあるものを教わったときの快感はちょっと比類ない。良くも悪くも個性的な歌人で、もっといろいろと読んでみたいと思っている。

  春の苑(その)紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(をとめ)  大伴家持(14ページ)

 こちらも、『ちびまる子ちゃんの短歌教室』でも紹介されていた歌。「にほふ」については小島ゆかりが嗅覚ではなく視覚に訴える形容だと書いたうえで、「照りかがやく様子を言う言葉」と説明していたのに対して、渡部泰明はもうすこし踏み込んだ解説をしてくれている。

「「紅にほふ」がまず印象的です。「にほふ」は今では嗅覚を表す言葉ですが、もともとは「丹(に)」すなわち赤い色が目立つほど美しい、という視覚を表した語だといいます。『万葉集』の時代には、嗅覚に関する例もあるようで、作者の大伴家持はその『万葉集』を編集したといわれる人ですが、ここはやはり視覚を表しています」(14ページ)

 時代を経ることで意味や読みかたが変わっていて、その知識なしには伝わってくるものも異なる、ということが、『万葉集』の歌にはとくに多い。以下の柿本人麻呂の一首もそうだ。

  秋山の黄葉(もみち)をしげみ惑ひぬる妹をもとめむ山道しらずも  柿本人麻呂(100ページ)

「「紅葉」と書き「もみぢ」と読む平安時代以降とは違って、『万葉集』では、「黄葉」と表記する例が圧倒的に多く、しかも「もみち」と清音で読みます。「黄葉」と書くのは、漢文の影響とともに、カエデなど紅に変色する葉よりも、黄色に変わる草木の葉に、より親しんでいたからでしょう。『万葉集』には、萩などの草花の黄葉を愛でる歌が、多く見られます」(101ページ)

 これは奥さん(「妹」)を亡くしたあと、柿本人麻呂が「泣血哀働」して詠んだものだそうで、「黄葉」の「黄」には「黄泉の国」という意味がかかっているという。「紅葉」であったら与えられない意味に、目まいがしてくる。「紅葉」のほうにもすばらしい歌があった。

  朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき  藤原公任(58ページ)

「「紅葉の錦」は、一面に色づいた葉を、色鮮やかな絹織物にたとえた表現。このような技法を見立てといいます。見立ては、比喩とよく似ていますが、違う部分もあります。それは、今見ている対象を褒め称えていることです。賛嘆の表現なのです」(59ページ)

「見立ては、対象の様子を表現する比喩とは異なり、自分の感動を表すための身ぶりなのです」(60ページ)

 また、「花」という言葉が直接「桜」を意味するようになったのは『古今和歌集』以降のことだというのはよく知られているが、桜と並んで橘が大きな意味を持った樹木であったというのは、わたしにとっては新鮮だった。以下、これもやはり『ちびまる子ちゃんの短歌教室』にも載っていた歌だが、こんな説明があったのだ。

  五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする  よみ人しらず(26ページ)

天皇の住居のことを内裏といいますが、内裏の中心となる建物(殿舎)は、紫宸殿と呼ばれました。紫宸殿の前庭では、貴族たちが集合して公的な行事がとり行われました。その前庭に、桜と橘が一対で植えられていたことをご存じでしょうか。左近の桜、右近の橘といわれました。それくらい、橘は重要視された樹木です。また橘の実は、海のかなたにある、不老不死の世界である常世の国から持ち帰ったものとも語られ、「時じくの香くの木の実」(いつまでも芳しい木の実)といわれて、珍重されました。そして橘は常緑樹ですから、いつも青々と葉を茂らせている。はかなさの象徴となる桜とは、正反対です」(29ページ)

 ちなみに、これは永田和宏『現代秀歌』に書いてあったことだが、『万葉集』でいちばん多く詠まれている花は萩だそうで、上の柿本人麻呂の「黄葉」も、解説にあるとおり萩のものと考えられている。桜を詠んだ歌にはびっくりするほど秀歌が多いが、和歌で詠まれる他の花々の美しさも見逃せない。

  闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜(つくよ)に出でまさじとや  紀郎女(19ページ)

 この紀郎女の一首に付された訳は「闇なら来ないのも仕方ないのですが、梅の花が咲いた月夜に、いらっしゃらないおつもりなの?」(19ページ)。相手がどんな女性であれ、こんな誘い方をされて会いに行かなかったから、男では、いや、人間ではない、とさえ思う。

「「闇」という語に注意してください。夜になれば闇になってしまうかというと、そうではない。月が出ていれば、闇ではありません。闇は、月のない状態です」(18~19ページ)

 これは今後、「闇」と「月」という言葉が対比されているのを見るたびに、思い出すことになる一首だろう。月という言葉については、和歌的な用法というべきか、知識として持っていないとわからないニュアンスが含まれていることがあるので、一首から読み取れるこういう情報は貴重である。また、月はこんなふうに表現されることもある。

  ひさかたの中に生ひたる里なれば光をのみぞ頼むべらなる  伊勢(170ページ)

「「ひさかた」は月のこと。本来は「ひさかたの」で「月・日・光」などにかかる枕詞でしたが、その決まり文句が定着して、「ひさかた」だけで「月」などを表すようになったのです」(171ページ)

 梅の花については、菅原道真の一首も有名だ。西に左遷された道真が、旅の出発前に詠んだとされる歌。ちなみにこれも『まる子』にも載っていた。

  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな  菅原道真(126ページ)

「東風を表す「こち」という語も、あまり和歌には使わない。もしかすると当時の俗語あるいは日常語の類いかもしれません。そのおかげで「東風吹かば」といえば、ああ道真のあの歌だ、とすぐにわかるのですが。なかなか忘れがたい言葉なのです」(128~129ページ)

 さて、桜を詠んだ歌にはすばらしいものがいくらでもある、とさきほど書いたが、この本の著者、渡部泰明は、なかでも以下の一首がお気に入りだという。

  山桜咲き初めしよりひさかたの雲居に見ゆる滝の白糸  源俊頼(22ページ)

「桜の和歌はこれまで数えきれないほど詠まれてきました。一番いい歌を選べ、といわれても困ってしまいます。けれど、もっとも華麗に桜の姿を描いた和歌といえば、私はこの源俊頼の歌を挙げたいと思います」(22~23ページ)

 正直わたしの場合、一首を見た時点では、ふうん、という反応だった。ちょっとピンとこない。だが、以下の解説を読んだら、うおおお、と声が出た。

「山に桜が咲き始めた。するとそこに忽然と滝が出現したではないか。山頂から谷あいを伝って、幾筋もの白い流れが、落ちてくる。まるで白い糸のように。あの滝の水はいったいどこから来たのだろう。そうか、空からだ。はるか大空から、山へと落ちてきたのだ。まるで大空に滝があるようだ」(23ページ)

「絵になっていると先ほど言いましたが、映像を作り上げたと言い直しましょう。華麗でダイナミックな映像美が、ここにはあります。もちろん、現実にはけっしてありえない、神話的で幻想的な映像です」(24~25ページ)

 この「ひさかたの」は「雲居」にかかった枕詞で、上掲の伊勢の一首のような意味は与えられていないのにも注意したい。ちなみに「ひさかたの」を古語辞典で引いてみると、「天」「雨」「空」「月」「雲」「星」「光」「都」などにかかるとある。空のもの全部じゃん! きっと伊勢の一首が「月」と特定できていることが奇跡めいているのだ。この本に出てくる桜の歌では、気に入ったのがいくつもあった。

  深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け  上野岑雄(146ページ)

「作者上野岑雄の歌は、『古今和歌集』にはこの一首だけしか収められていません。けれどこの一首が、とても有名になりました。先ほども言いましたが、今でも深草墨染町という地名がありますし、「墨染」(京阪電鉄京阪本線)という駅もあります。また、スミゾメザクラという桜の品種もある。この上野岑雄の歌どおりに墨染め色に咲いた、という伝説の桜があり、それにちなんで名付けられました。もちろん花弁は白いのですが、茎や葉が青く、それで全体的に墨色に見える、ということです」(147~148ページ)

 墨染めに咲け、というのは、ちょっと衝撃である。どれだけ身近な人を亡くせば、これほどの表現が出てくるのだろう。いますぐ京都に行きたくなる一首だ。出家した花山院の一首も魅力的だ。

  木の下をすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな  花山院(174ページ)

「花を愛することは、要するに欲望であり、執着ですから、仏教の上からは否定されるべきことです」(177ページ)

「作者は、出家の身でありながら桜の花に見入ってしまう自分を、他人のように批評している。要するに、ここには余裕があるのです。出家者であっても、やっぱり花に惹かれてしまうものだな、それが人間なのだな、とでもいうような」(177ページ)

 また、花や草木の歌が続いているので書くと、以下の曾禰好忠の歌にも衝撃を受けた。「蓬が杣(よもぎがそま)」とは。

  鳴けや鳴け蓬が杣のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞ悲しき  曾禰好忠(54ページ)

「冒頭から「鳴けや鳴け」と命令形を二つも繰り返しているのが、まず大胆です。ここで切れますので、初句切れの歌です。ただしこの句には、まだ前例がありました。それより何より大胆不敵なのが、「蓬が杣」という言い方です。「杣」は材木を切り出す木のことですから、杉や檜のような、まっすぐに伸びた大木が思い浮かびます。蓬のような雑草――でも、よもぎ餅にして食べますね――が杣のようだ、というのですから、かなり突飛な比喩といってよいでしょう。「きりぎりす」の目で眺めた世界です。「きりぎりす」の身になって見た世界、といってもよいでしょう」(55ページ)

「「蓬が杣」の異常さについては、証言があります。好忠より少し後輩の有名歌人藤原長能――『蜻蛉日記』の作者、道綱母の弟です――が、「狂惑のやつなり。蓬が杣といふ事やはある」(気の狂った奴め。「蓬が杣」などという言い方があるか)と、この歌について言ったというのです。藤原清輔の和歌の百科事典のような書『袋草紙』という書物に書いてあります。「狂惑」とは常軌を逸した行動をすることで、今なら「パンク」、ちょっと前なら「ハレンチ」というところでしょうか」(56〜57ページ)

 ここの解説、異常におもしろい。「パンク」と「ハレンチ」は同じ意味ではないでしょう、とつっこみを入れたくなるが、それよりなにより、藤原長能の「狂惑のやつなり」。こんな忘れがたい言葉、なかなか出会えない。言われてみたい。以前、ビュルガーの『ほらふき男爵の冒険』を読んでいたときに、「熊公を爆裂せしめた」というとんでもない日本語と出会ったことがあるが、それと同じくらいの衝撃である。「蓬が杣といふ事やはある」も、なんだかコミカルだ。掟破りといえば、以下の在原業平の一首も。

  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは  在原業平(166ページ)

「和歌には、原則として一首の中に同じ言葉を重複させてはならない、というルールがあります。そのルールをあからさまに破っている。けれどよく見てみると、最初の「思ふ」は今思っていることで、次の「思ひ」は過去の行為です。まるで魔法にでもかかったように、現在から、一足飛びに過去に戻っています。そしてその過去の自分に基づいて、今の状況を、こんなことは現実ではない、と言わんばかりに否定しているのです。すごみさえ感じられる発想です」(169ページ)

 同様に、以下の和泉式部の一首も、あえて禁忌を犯すことで言葉に大きな力を与えているようなところがある。自身の娘、小式部内侍を亡くしたときに詠まれた歌。

  とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり  和泉式部(150ページ)

「この歌を読んで、どきりとしませんでしたか。まるで、自分と孫を比べて、どっちを愛しているかと問いかけているかのようです。そして自分も、孫よりも娘のほうがいとしいと言っているかのようです。でも、少しもいやな感じはしない。それは、死者の心情をありありと想像し、しかも気持ちを通じ合わせ、自分も同じ立場になろうとしているからです。つまり、いったんは死者の世界に入り込んでいる。その上で、生きている自分たちと、死んだ娘との違いを痛切に感じている。和泉式部は、自分からあの世とこの世に引き裂かれようとしているのです」(152ページ)

 型破りな歌のおもしろさというのは、型を遵守した歌の良さを知ったうえでないと、よくわからないものだ。もとのかたちを知らないと、それがひっくり返っているおもしろさには気づけない。すこしずつ親しんでいきたいところである。

  冬枯れの森の朽ち葉の霜の上に落ちたる月の影の寒けさ  藤原清輔(66ページ)

「よくこの歌に使われた言葉を見てください。「冬枯れ」「森」「朽ち葉」「霜」「上」「月」「影」「寒けさ」と、なんと名詞ばかりです。活用する言葉といえば、「落ちたる」だけ。動詞「落つ」に存続の助動詞「たる」の付いた語ですね。ですから「落ちている」の意を表します。「落ちたる」以外は全部名詞で、それらを「の」という連体修飾の格助詞がつないでいます。物事がぞろぞろと連続していて、しかもぎゅっと凝縮している感じです」(66ページ)

 これも、ある種の型破り。だが、この説明を見ると、近代に詠まれた以下の一首が自然と思い出されてはこないだろうか。

  ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲  佐佐木信綱

 同じく、名詞ばかりで構成された歌。佐佐木信綱がこの歌を詠んだとき、藤原清輔の一首が頭にあったかどうかはわからないが、「の」のつながりや、ぽつんと現われる「なる」が大きな効果をあげているところなど、共通点は多いと思う。藤原清輔の一首については、以下の解説もおもしろく読んだ。

「冬は美しいものなど何もない季節だが、月光だけは非常に美しい。これはじつは『源氏物語』に書いてある美意識なのですが、落葉の霜に輝く月光に着目したこの歌は、その美意識を具体化したような歌になっています」(69ページ)

 和歌には春と秋の歌が多く、夏と冬は少ないらしいのだ。とくに夏は題材が少なく、ゆえに持統天皇の〈春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天の香具山〉が大きな価値を持っていた、というのは、『まる子』に教わったとおり。また、一首に夏らしさを与えるためには、時鳥(ほととぎす)が大活躍する。

「『古今和歌集』の夏の部を見ると、圧倒的に多いのは、時鳥です。春の鶯、秋の雁、冬の千鳥とともに、和歌の世界で代表的な鳥ですが、とくに夏は他に題材が少ないので、非常に目立つことになります」(35ページ)

 ここでおもしろいのが「冬の千鳥」である。千鳥は、『万葉集』の時代には、べつに冬限定の鳥ではなかったそうなのだ。どうも以下の紀貫之の一首が、人びとの季節感を変えたらしい。

  思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり  紀貫之(70ページ)

「「千鳥」は、チドリ科の鳥の総称です。体長二〇センチメートルほどの小型の鳥で、水辺で群れを作ります。和歌では、冬の河原や海辺で、夕方や夜に鳴く声が印象的だ、と詠まれます。「チチチ」という声です。春の鶯、夏の時鳥、秋の雁とともに、冬の季節の代表的な鳥とされますが、じつは平安時代以前は、必ずしも冬の鳥だとは決まってはいませんでした。むしろこの歌などが、千鳥は冬のものという観念の、大きなきっかけとなったのかもしれません。優れた和歌は、日本人の季節感を作り上げる原動力となるのです」(71ページ)

 和歌を読んでいると、本歌取りが顕著な例であるが、過去にあの一首があったからこの一首が生まれたんだなあ、ということが非常によくある。そういう意味では、和歌文化というのはどんどん蓄積されていく集合体なのだ。この紀貫之の場合は、一首で言葉にあらたな性格を与えているわけだが、そんなことが可能なのも和歌という芸術ならでは、という気がしてくる。本歌取りという技法が本格的に広まったのも、12世紀の『新古今和歌集』が編まれる前のことなのだ。

「『伊勢物語』は遅くとも十世紀には出来たとされる歌物語で、俊成は十二世紀を生きた歌人。彼にとって『伊勢物語』は古典です。古典、とくにその中の和歌を踏まえて新しい和歌を詠むのが、本歌取りです。俊成本歌取りの方法を新たに開拓した人なのです」(44ページ)

 最後に、源実朝の一首。わたしはどういうわけか、はるか昔に友人に薦められて『金槐和歌集』を通読したことがあるのだが、この歌人の特異性はずっと知らないままだったのだ。ほかの歌人たちの和歌に親しんでみてはじめて、実朝の異常さが際立ってくる。

  時によりすぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ  源実朝(192ページ)

「普通、和歌には敬語を使いません。古典で敬語が非常に大事にされていたことは、よく知っているでしょう。『源氏物語』とか『大鏡』とか、いやになるくらいたくさん敬語が出てきますよね。和歌は、その古典の中心的存在といってもよい。それなのに敬語がないのですから、これはかなり不思議なことです。でも、和歌は身分など、軽々と越えてしまう表現なのです」(193ページ)

 だが、渡部泰明は、これは祈りとしての歌なのだ、という。

「宗教があらゆる分野で力を得た中世という時代(鎌倉・室町時代)には、和歌にも呪文のような働きが求められました。慈円も呪文のような和歌を、少なからず詠んでいます。呪文には、人を行動へと駆り立てる力があります」(186ページ)

「将軍として民を思う強い気持ちを、まるで呪文のような和歌にしてみせたのです。呪文には、現実を動かす力があるからなのでしょう。実朝の言葉――とくに音――に対する感覚の鋭さには、驚かされるばかりです」(195ページ)

 これはかなりおもしろい視点である。ジャック・ル=ゴフが『中世とは何か』で書いていたことだが、宗教という概念の登場こそが、ほんとうの意味での宗教との断絶を示しているのだ。それまではすべてが宗教であったのに、いまやひとびとは宗教的であること、反対に、非宗教的であることまで、選べるようになっている。実朝の和歌に関していえば、変な言い方ではあるが、彼は呪文のような和歌を詠わないでいることもできたのだ。アガンベン『バートルビー 偶然性について』ではないが、そこには「しないことができる」という潜勢力がある。「民の嘆きなり」「雨やめたまへ」という実朝の言葉のわりに、この歌が詠まれたとき、洪水をもたらすような大雨が降ったという記録がない、というのは象徴的だ。実朝は事実などにはあまり頓着せず、ただ歌のために歌を詠んだのだろうと思う。

「和歌は事実をそのまま表現するのではなく、こうあってほしいという願いを託して詠むものなのです。祈りを込めるものなのです。それぞれの願いや祈りを、何にどのように託すかが、表現者である歌人の腕の見せどころで、そこをこそ読んでほしいと、彼らは思っていたことでしょう」(7ページ)

「和歌というものは、事実や思ったことをそのまま言葉にしたものではありません。歌人たちは、さまざまな憧れや想念、いわば「夢」をぎゅっと凝縮して和歌に託したのです。だからこそ読者である私たちも、一首の和歌にいろいろな「夢」を見ることができるのです」(85ページ)

 われながらじつにいろいろなことをだらだらと書いてしまったが、和歌ともっと親しみたいというひとには、これほどうってつけの本はない。基本的には一首ずつを解説している本であるため、どこかに腰を落ち着けて集中して読むというよりは、ちょうど日記や書簡集を読むように、空いた短い時間を豊かにするために開くべき類の本である。おすすめ。

古典和歌入門 (岩波ジュニア新書)

古典和歌入門 (岩波ジュニア新書)

 


〈読みたくなった、というか欲しくなった本〉
『新編国歌大観』
「歌集名に続けて、その歌集での部立ての名前と、『新編国歌大観』(角川書店)での歌番号を記しました(なお『万葉集』のみ、旧『国歌大観』の歌番号としました)。『新編国歌大観』は日本の古典和歌を集成したもので、研究者や和歌ファンがよりどころとしている本です」(xiiiページ)