Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ゲーテさん こんばんは

 唐突に、ゲーテの評伝。じつは前々から読みたいと思っていた本で、ゲーテが生きた時代のドイツに興味があるのだ。これはじつは、文学というよりも音楽に由来する関心で、当時のドイツにはモーツァルトベートーヴェンシューベルトがいたし、わたしが熱狂的に愛するメンデルスゾーンも、今後の時代を担う十代の若者として、すでに老人だったゲーテに会っている。つまりこの時代というのは、音楽史でいうところの古典派とロマン派の重複地点なのだ。ゲーテの伝記を読むことは、当時のドイツ風景に触れるにはうってつけだと思えた。敬愛する翻訳家、池内紀が書いた伝記であれば、なおさらである。

ゲーテさんこんばんは (集英社文庫)

ゲーテさんこんばんは (集英社文庫)

 

池内紀ゲーテさん こんばんは』集英社文庫、2005年。


 池内紀の有名な訳業というと、カフカのほかには、わたしがかつて無理してページを繰った『ファウスト』がすぐに思い浮かぶが、あらためて考えてみると『ファウスト』以外に池内紀が訳したゲーテというのは、目にしたことがない。池内紀はけっして、ゲーテの専門家ではないのだ。というか、シャミッソーの『影をなくした男』『リヒテンベルク先生の控え帖』『ホフマン短篇集』といった数々の訳書を見ても顕著なとおり、彼はどんな作家に対しても専門家であろうとはせず、端的にわたしの愛する「Riche Amateur(豊かな愛好家)」の姿勢を貫いている。そんな彼が、「おっかないので敬遠していた」「遠い親戚の伯父さん」のような存在、ゲーテのことを知ろうと努めたのは、もちろん『ファウスト』の翻訳がきっかけであった。

「『ファウスト』の翻訳をくわだてた。まる三年間、出かけるときには、いつも本を持ち歩いていた。全集版は重いので、新書スタイルのお手軽なやつ。つくりは安直だが、有名なドラクロアの挿絵がついていて、とてもたのしい。ただ製本がノリづけなので、そのうちページがバラけてきた。それを太いゴムバンドでとめていた。
 出かけるのは山か温泉か海外である。山小屋のランプの下で開いていたら煤で黒いシミがついた。温泉せんべいをかじりながら読んでいたので、せんべいのかけらがデコボコにくっついた。上の余白にしましま模様がついているのは、ウィーンの公園で読書中に、にわか雨にあったからだ。
 正しく翻訳するためには、著者をよく知らなくてはならない」(271ページ)

 本書はそういう、いわばお近づきになろうとする試みの結果として書かれたものなのである。文豪としての偶像たるゲーテではなく、等身大の、不完全な人間としてのゲーテが描かれていて、大変親しみがもてる。恋愛にまつわるエピソードなど、あまりにも人間くさい。

ゲーテには、食堂の娘からの手紙にみる綴りのまちがいが気になった。会ったとき、いちいち指摘して直してやったらしい。妹コルネリアに、「正書法のほうは、まださっぱり進歩しない」と残念そうに報告している。
 「ザクセン女にそんなことを求めてもしかたがないのだ」
 一つの手紙は十九箇所のまちがいがあった。それにしても、綴りのまちがいを数えあげるような男が女性に愛されるはずがないのである」(19ページ)

「実際、ゲーテはいつも逃げた。女性とのかかわりが切迫してきて、決断へと踏みきる手前で逃走した。ライプツィヒの学生のときに知り合ったケートヒェンからも、ゼーゼンハイムの牧師館の娘フリーデリケからも、ことが現実的なけはいを見せだすと逃げ出した。リリーとの婚約を、これといった理由もなしに解消した。いや、理由がなかったわけではない。婚約に引きつづくはずの事柄という理由があった。恋愛の延長の婚約までは許せるが、婚約の延長の結婚は我慢がならない」(46ページ)

 ゲーテには、七十歳を過ぎて十九歳の乙女にプロポーズしたという有名な逸話もある。この本では愛の告白を伝える役割を担った友人のことが書かれていて、ちょっと笑ってしまう。

「申し入れの使いの役を引き受けたカール・アウグスト公は、どうなのだろう。人一倍、ゲーテをよく知る人であって、だからこそ風変わりな求婚の仲介役を引き受けたのではあるまいか。実現しっこないことを、また実現しなくてもいいことを承知していたからだ。かわりにどっさり詩ができることを、よく知っていた」(194ページ)

 ところで、ゲーテと恋愛といえば、だれもが自然に『若きウェルテルの悩み』を思い浮かべるだろう。あれほどまでに恋愛の価値を高らかに謳った小説作品もないが、そこで語られている恋愛観をそのままゲーテのものと見なすのは早計である。あれを書いたあとにもゲーテが自殺しなかったという事実だけでも十分だ。

「歳の市にはウェルテルの蠟人形があらわれた。モデルになった人物についての噂が流れ、その墓に花束をもった女たちがひきもきらずやってくる。若者たちはウェルテルのように愛したがり、娘たちはロッテのように愛されたがった。それは「ウェルテル熱」とよばれたが、まったく伝染性の熱病に似ていた。ウェルテルのようにピストルで死にたがる連中も少なくなかった。スタール夫人のいったように、ウェルテルは「絶世の美女よりもはるかに多くの男たちを殺した」のである」(37〜38ページ)

「『若きウェルテルの悩み』が大ベストセラーとして、なおかつ古典になったのは、そこにはっきりと一つの愛の形式が提出されていたせいである。つまりは不幸な恋の発見であって、愛の浄化と救済にあたり、不幸な恋が幸福な恋以上に大きな力をもっている。
 その発見を、誰よりもみごとに活用したのは、当の発見者だった。それが証拠に、ウェルテルはピストルで自殺をしたが、ゲーテは八十三歳まで生きた。ウェルテル熱にうかされてピストルをとりあげるなど、早トチリの連中だったといわなくてはならない。慎重な男はピストルではなくペンをとりあげる。そして別れの手紙を書く」(49ページ)

 わたしは『若きウェルテルの悩み』を読んだとき、ただちにラディゲの『肉体の悪魔』を思い浮かべたが、このふたつの悲恋には圧倒的な違いがある。一方の作者ゲーテはみずからの運命を選べる立場にあったが、他方の作者は迫りくる死に抗する術を持たなかった、という点である。しかも、仮に病魔がラディゲを殺さなかったとしても、彼はいずれ自殺したような気がしてしまう。反面、ゲーテはあくまでもピストルを遠ざけたにちがいない。

「ウェルテル熱が去ってもそれは読み継がれ、名作となり古典になった。世界文学のなかの唯一といっていいほどの例外である。名作もののおおかたは、世に出たときはまるきり相手にされず、きれいさっぱり無視されたり、せせら笑われた。作者がさびしく死んだのちに、ようやく評価がはじまった」(39ページ)

「『若きウェルテルの悩み』が大ベストセラーになったのには、むろん、語り口のうまさがあずかっていた。この小説は書簡体というスタイルをとっている。おりしも手紙が新しいメディアとして晴れやかに登場した時代である。国境をこえて郵便馬車網が整備されていった。どの国も郵便事業がなかなかワリのいい商売であることに気がついて、力を入れてきた。出した手紙が、ほぼ確実に相手に届く。ゲーテの同時代人モーツァルトに膨大な書簡集があるのはよく知られているが、手紙を書くためには遠方に出なくてはならない。その点、神童モーツァルトは幼いころからヨーロッパ中を旅してまわっていたので、またとない手紙の書き手になった」(48ページ)

 ゲーテはベストセラー恋愛小説作家として世に出たが、その後の彼の作品は風変わりなものばかりだ。なかでも『ファウスト』や『詩と真実』、『イタリア紀行』に顕著なとおり、彼はひとつの作品を書き上げるのに膨大な時間を費やした。こういう執筆姿勢を見ると、ヴァレリーの言葉を思い出さずにはいられない。つまり、世に出た作品というのは作者がそれ以上の推敲を諦めたからこそ世に出ている、というものだ。そういう意味では、ゲーテは歴史上稀に見るほどに諦めの悪いひとだった。

「『詩と真実』は、フランクフルトにおける誕生から二十六歳でワイマール公国に赴任するまでの半生を語っている。六十代はじめにとりかかり、二十年あまりにわたって書き継いだ。標題をそのまま訳すと『わたしの生涯からの詩と真実』となる。老年になって自分の生い立ちをつづるとすると、思い出したくないことはすっとばしたり、つい美しく変造したりするものだ。期せずして真実を押しのけ「詩」がまじりこむ。ゲーテは回想の甘さと危険をよく知っていた。先まわりして、みずからに警告するようなタイトルをつけた」(54〜55ページ)

「ふつう旅行記は、あまり印象が薄れないうちに発表されるものだが、ゲーテの『イタリア紀行』はちがっていた。旅行から三十年以上もたった1817年に刊行をみた。三十七歳のときの旅を六十八歳になって世に出した。しかも『イタリア紀行』第二部にあたる第二次ローマ滞在は八十歳ちかくになってようやく増補の形で陽の目をみた」(92ページ)

 ところで、池内紀というのは日本文学にも恐ろしく通じているひとで、『尾崎放哉句集』を編纂したり、ほかにも日本の作家たちにまつわる随想なども数多く発表している。そんな彼が指摘する、澁澤龍彦ゲーテの類似は、ものすごく興味深かった。

澁澤龍彦ゲーテの『イタリア紀行』が大好きだった。旧制高校生のころに初めて読み、そのときはさほどの感銘は受けなかったが、年とともに愛読書の一つになったという。
 「どこでもいいからページをひらいて読み出すと、ついやめられなくなってしまう。ゲーテのはずんだ気持がこちらに伝わってくるようで、こちらまで気持が明るくなってくる」
 自分にとって『イタリア紀行』とは、そういう種類の本だというのだ。だから戦後に出たあるゲーテ全集が、「厖大な枚数のため、また現代においては徒らに冗漫に流れていると見られる個所も少なくない」といった理由から、わずか五十ページばかりの抄録にされているのを知ったとき、「あきれて物が言えない」と述べている。抄訳で読むくらいなら、いっそ読まないほうがいい」(89〜90ページ)

「およそイメージが結びつかないのだが、その精神のかたちにおいて、わが国では、ゲーテ学者といった人よりも澁澤龍彦が、もっともゲーテと似ていたのではなかろうか。ともにプリニウスが好きで、生涯を通じて博物学的な関心が強かった。ふつうはモノ好きとよばれるような小さな事柄におしみなく好奇の目をそそぎ、大らかな実証科学のなかに遊んで、楽しく文筆にいそしんだ」(90ページ)

 メンデルスゾーンも愛読していた『イタリア紀行』、いつかは必ず読みたい本なのだが、その長さもあってずっと機を逸してしまっている。だが、澁澤龍彦の楽しみ方を知ったいまでは、もう読まずにはいられない。ちょうどわたしがモンテーニュ『エセー』プルーストを読むときの流儀で、楽しめばいいようだ。以下のような記述を見ても、読みたくてたまらなくなる。

「迷路のような水都の報告を通して、ゲーテの体験の仕方がよくわかる。彼はまず歩いてみる。案内をたのまず、道に迷っても人にたずねない。ヴェネツィアに入って二日後。
 「夕方、ふたたび案内者もなしに、街のもっとも遠い地区へ迷いこんでいった」
 だれにも道をたずねない。方位だけをたよりに、行きつもどりつしていると、どんなに道路が入りくんでいても、とどのつまりは抜け出ることができるものだ」(81〜82ページ)

 ゲーテはどんなことにも首を突っ込む、好奇心の塊のようなひとなのだが、なんにでも関心を抱くというのは知識人の必要条件というものだろう。自然科学一般に対するゲーテの熱中ぶりは、現代のように科学の専門家以外が口を差し挟めるような猶予が欠片もない状況を鑑みると、とても新鮮だ。

「ひところ牛の頭蓋骨を集めていた。その顎を観察して、なぜ牛に角があるのかをつきとめた。牛はライオンや犬よりも歯の数が少ないのだ。ドイツ骨学の雑誌に発表した論考のなかで、ゲーテは述べている。
 「牛は角をもつから突くのではない」
 突くために、いかにして角をもつようになったのか、それが問題だ。牙をもたず、歯の数が少ないことが形態変化をうながして、角をもつまでになったにすぎない。それが証拠に上顎に牙をもつ動物で角をもつものはいないし、ライオンには角がない。すべての歯をそろえた上で、さらに角をはやすような「余力」を、自然はそなえていないのである」(135ページ)

ゲーテが軽気球に熱中したのは、それが意味深い乗り物であることを予感していたからにちがいない。まさに悪魔のマントであって、ひとっ飛びして「上(かみ)の世界」へとつれていく。その「上」は空であるとともに身分制時代の上流階級でもある。高い塀や門で守られ、下々の者の立ち入りを許さない宮殿やお屋敷でも、上からならば手もなくのぞくことができる。王城であれ王都であれ、眼下にながめてヘイゲイできるのだ。「ガスを少々」送りこむだけでいいのである。
 モンゴルフィエの軽気球がパリの空に舞い上がってから六年後、フランス革命が勃発した。偶然ではないだろう。いわばもっとも民主的なこの乗り物が、一夜にして身分制社会を崩壊させた。あとの混乱を考えると、かなり「実習費」が高くついたようだが、課程をひととおりすませたぐあいで、時代は急速に近代へと変わっていく」(232ページ)

 なかでも『色彩論』は、彼の科学的関心の集大成とも言えるもので、おまけにそれが当人の狙いに反してすこしも科学的なものでないということには、ちょっと泣き笑いを誘いつつも、興味を持たずにはいられない。ちなみに、この執筆にも彼は三十年以上の歳月を費やしているのだ。まったく時間感覚がおかしくなってしまう。

「『色彩論』はニュートン批判にはじまり、光学から物理学に及んでいるが、実のところ、これはニュートンとも光学とも物理学ともかかわりがない。というのは終始、色彩の物理学ではなく、色の生理学とでもいうべきものをめぐっているからだ。色彩と人間の感覚とのかかわりをとりあげて、これほど包括的で示唆に富み、またこれほど独創的な仕事は世に二つとないだろう。光学の専門家には無視され、ニュートン学派からはせせら笑われ、物理学者には相手にされなかった。シロウトに土足で自分たちの専門に踏みこまれた気がしたらしいのだが、その誤解は当然だった。著者自身がたぶんに自作を誤解していた」(240〜241ページ)

ゲーテの『色彩論』は人間の感覚、とりわけ目玉に捧げられた長大な讃歌というものだ。色ひとつをとってみても、それがいかに精妙な反応を示すものか。その「特殊感覚エネルギー」を実証するために、自分の目玉を素材にして、三十年に及び一連の「化学実験」をした」(245ページ)

 科学というものを言語的に捉えようとする試みは、ちょっと後世のヴァレリーを思い出させる。ふたりには共通点が多い。まず、先にも述べたヴァレリー的な意味での諦めの悪さ。すべてを明晰に、論理的なものとして把握しようとするところなどはそっくりである。そういえばヴァレリーも彼流の『ファウスト』を書いている。ヴァレリーのほうでは、このドイツの文豪との類似にどれほど意識的だったのだろうか。

「当然のことながら、この静的人間は、一つとして舞台用の劇に成功しなかった。動きがつくれなかったからだ。彼が書いたのは『ファウスト』をはじめとするレーゼドラマ、読むための劇ばかりである。彼はカントを理解しなかった。その思考原理が、認識の生成といった動きをともなっていたからだ。
 ゲーテはおそろしく勤勉に動きまわったが、ついぞ活発なタイプではなかったのである。受身の静的人間であって、静かな時代の最後の偉大な代表者だった」(87〜88ページ)

「静かな時代に育った教養人の特徴がよく見てとれる。彼はいつも静止したものに目をとめて、そこから一つの固定した型にひきもどす。これほど石の蒐集に熱心だったが、鉱物学の基礎をなす化学には、ゲーテはほとんど興味を示さなかった。石を砕き、溶解させて、要素や成分を見ようとはしなかった。化学が物質の変化を扱っていて、つまりは「動的」な学問だったせいだろう」(125ページ)

 ゲーテの執筆姿勢についても、関心は尽きない。

ゲーテはいたって筆まめだった。気が向けば、どこであれすぐに書いた。また、どこででも、ちゃんと書けた。紙さえあればいい。ポケットに残っていた勘定書、芝居のビラ、紙切れ、封筒、何かの余白。そこに思いついたのを書きとめておく」(155ページ)

筆まめゲーテはまた整理好きであって、雑多に書きとめたものを、あとでまとめて清書した。その際、多少の手直しをしただろう。さらにそれを埋め草に使った」(157ページ)

 こういった紙片の数々には、日本における短歌のようなかたちで書き留められた四行詩が数多くあったという。彼は定型詩をこよなく愛していた。

「言葉の遊びではあれ――あるいは、だからこそ――あからさまに本心をのぞかせることもできたようだ。形式の仮面を楯にすれば、何であれいえる。宗教批判はタブーであっても、宗教を掲げる者の傲慢ぶりは腹にすえかねた。ゲーテは四行詩に託している。

  科学と芸術を知れば
  おのずと宗教をもつ
  科学も芸術も知らなければ
  おのずと宗教にすがる」(252〜253ページ)

 また、こちらは八行だが、こんな詩も紹介されていた。

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  見渡せば
  峯々すべてが憩い
  梢に
  息吹く
  けはいなく
  森には小鳥の声もない
  待て、すぐに
  私も憩う

(「旅びとの夜の歌」、106〜107ページ)
――――――――――――――――――――

「夜に小鳥は鳴かない。姿も見せない。「待て、すぐに私も憩う」というのは、夜も遅いので、自分もそろそろ休もうというのだ。三十一歳というと、もう結構な齢だと思うが、ゲーテはこの詩を山小屋の窓の横の板壁に書きつけた。古今の名詩とされるものだが、ふとどき者の中学生のやりたがる壁の落書きとしてはじまった」(107ページ)

 ところで、ゲーテが『色彩論』という「目玉に捧げられた長大な讃歌」を、みずからは科学的著作と信じこんでいたことからも明らかだが、彼は視覚に重きを置くひとだった。彼の論理性、すべてを明晰なものにしようとする姿勢は、ひょっとするとすべてを可視化しようとする挑戦、と言い換えることができるのかもしれない。

「絵は幼いころに学んでから、詩と並びつねにゲーテのかたわらにあった。大部な『ゲーテ画稿集』があるとおり、素人のたしなみをこえ、彼はひとりのレッキとした画家だった。画帖をひらいて軽妙にクロッキーをとり、気に入れば色をつけた。学んだ人におなじみの多少とも型どおりの窮屈さはあるにせよ、作者の名前を隠して示されたら、だれもそれをゲーテ作とは思うまい」(197ページ)

「これほどの視覚人間も珍しいのだ。目にくらべ、ゲーテがいかに耳に対して鈍感であったか、同時代の音楽的天才であるベートーヴェンや、シューベルトよりも、ツェルターといった凡庸な楽長を、最高の音楽家と考えていたことからもうかがえる」(86ページ)

 ゲーテの時代のドイツというのは、この文豪にさえも専業作家であることを許しはしなかった。『読書について』ショーペンハウアーが呪っていたような、印税という概念が登場して作家たちの懐を温めるようになる時代の前のことである。著作というのは仕事を終えてから書かれるもので、現実生活の影は、彼らの書くものをその卑俗な環境からできるだけ遠ざけようと働きかけたかもしれない。

「個性と能力に対して、社会はそれを受け入れるシステムをもたない。いかなる活躍の場も与えない。とすれば外界から意識的に目をそむけて、内部にひきこもるしかない。ゲーテはしばしば「内的世界」という言葉を口にした。それはまた時代の合い言葉というものだった。才あって世にいれられない者たちの精神生活を支えたものだろう。外の世界と縁を切って、内部の世界にとじこもる。ドイツの文学や思想にくり返しいわれる観念性のはじまりである」(147〜148ページ)

ゲーテが生きていた時代のドイツは、政治や経済においては見るかげもなかったが、精神的にはすこぶる輝いていた。カントが『純粋理性批判』を世に出したのは、ゲーテがワイマール公国の財務局長になった年である。その前後にレッシングが『賢人ナータン』で宗教哲学を絵解きした。シラーが革命的な『群盗』を書いた。
 カントが『判断力批判』を公にしたのは、ゲーテが二度目のイタリアへ旅立った年のこと。シラーが「三十年戦争」を素材として高らかに歴史哲学を語った。そのかたわらで、シェリングが自然哲学を説いていた。
 ヘーゲルが『精神現象学』を公刊したのと同じ年に、ゲーテは『ファウスト』第一部を書き上げた。さきに見たとおり湯治場テプリツでベートーヴェンと会ったのが1812年であって、この年にヘーゲルの『論理学』が世に出ている。ゲーテの晩年にはドイツ・ロマン派とよばれるホフマンやノヴァ―リスやハイネがあらわれた。ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』を書き、フンボルトが『比較言語学研究』を発表した」(225ページ)

 現在の評価からは想像もつかないが、ゲーテは生きているあいだ、常にさまざまな論敵たちに囲まれていたようだ。死に瀕しての有名な言葉「もっと光を!」についても、おもしろい打ち明け話があった。

ゲーテの神格化がはじまったのは、十九世紀半ばあたり、市民社会の拡大のなかでのことで、生前、ゲーテはのべつ悪口をいわれていた。二十代のころ、「シュトゥルム・ウント・ドランク」(疾風怒濤)の旗手とみなされたときは、年かさの世代から冷笑され、あれこれからかわれた。中年のゲーテフランス革命にビクついている臆病者とみなされていた。老いてのちは、ハイネやベルネといった革命派から、ていのいい標的にされた」(212ページ)

「三月二十二日、午前十一時半、ゲーテ、死去。最後の言葉は有名な「もっと光を!」。死に際しての名言集に欠かせない。しかし、ゲーテ記念館に生前のまま保存されている部屋を見れば、おおよそわかる。天井の低い小部屋であって、窓が小さいのだ。お昼前のひととき、ゲーテは呟くように言ったのだろう。
 「暗いねェ。窓を開けて、もっと光を入れてくれないか」
 老人の性急さで、多少とも嫁の気の利かなさを思っていたかもしれない」(265〜266ページ)

 話題が非常に多い本なので、まとまりのない感想になってしまったが、不完全な人間としての「ゲーテさん」と仲良くなるには、これほどうってつけの本もない。ゲーテは一般に、あまりにも短絡的に「天才」呼ばわりされているが、「天才」なんて言葉は部外者から見たときの単なる評価、それも理解しようとさえしないときの決まり文句にすぎず、膨大な時間を費やして数々の著作を書いていた当人からしてみれば、ほとんどその努力を否定されるにも等しい呼称だろう。等身大の「ゲーテさん」は天才ではなく、ひたすら諦めの悪い努力家だった。彼の著作をもっと読んでみたくなった。

ゲーテさんこんばんは (集英社文庫)

ゲーテさんこんばんは (集英社文庫)

 


ゲーテ作品以外に読みたくなった本〉
シラー『ウィリアム・テル
「ちょうどこのころ、ゲーテの同時代人シラーは、スイスにつたわる伝説の英雄についての戯曲を思案していた。よく知られたことであるが、名作『ウィリアム・テル』の作者シラーは、いちどもスイスへ行ったことがない。スイスの地図や、現在の写真にあたる風俗画と、ほんの少しの資料をたよりに、スイスの町と人とを芝居にしたてた。
 『ウィリアム・テル』には、いかにもあざやかにスイス人の生態がとりこまれている。風土や風習だけではなく、登場人物の姿かたちから語り口にいたるまで正確に描写されている。『スイス案内』といった本が、ついうっかり引用してしまうほどである。
 想像力や体験といったテーマで議論をするのにうってつけのケースだが、シラーにとっては、おそらく議論の余地などなかっただろう。スイスとスイス人を言うために現実のスイスを必要としなかった。むしろ、あれほど正確にスイスをえがくことができたのは、あるがままのスイスを見たことがなかったからだ。もし彼がスイスの山や谷をめぐり、旅先の宿で黒パンをかじるなどしていたら、単に疲れはて、途方にくれただけだったろう。とりとめのない、矛盾し合った印象によって、明快で力づよい内的イメージをかき乱された」(76〜77ページ)

ヴィルヘルム・テル (1957年) (岩波文庫)

ヴィルヘルム・テル (1957年) (岩波文庫)

 


ハイネ『ハルツ紀行』
ゲーテから半世紀ばかりあとのことだが、ハインリヒ・ハイネがハルツ旅行をして、ブロッケン山に登った。当時、ゲッティンゲン大学の学生だったハイネは、紀行文を書いて出版社に売り込む目論見があったようだ。おなじみの諷刺と諧謔をまじえて書いている。あきらかに取材の目で歩いており、おかげでその『ハルツ紀行』を通して、山のこともよくわかる」(105ページ)

ハルツ紀行 (1949年)

ハルツ紀行 (1949年)

 


バウハウス・ワイマールに関する本
「グロピウス校長はゲーテと似た実務家能力をそなえていたのだろう。ごく短期間のうちに特異な芸術家チームをつくりあげた。L・ファイニンガー、パウル・クレーオスカー・シュレンマー、W・カンディンスキーといった画家、建築家、工芸家たちがバウハウスの教壇に立った」(205ページ)