Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

きみを嫌いな奴はクズだよ

 刊行されていることは知りつつも、手に取ろうか迷っていた一冊。信頼する友人の「このひと、うまくなってるよ」という一言に後押しされて、結局購入した。書店を出てすぐの喫茶店にて二時間ほどで読み終え、その後、日本から中東に戻る飛行機のなかでもう一回、そしていまパラパラと三度目を読み終えた。

きみを嫌いな奴はクズだよ (現代歌人シリーズ12)

きみを嫌いな奴はクズだよ (現代歌人シリーズ12)

 

木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年。


 わたしは短歌のことを好いてはいるが、短歌のほうではわたしのことを好いてくれてはいない気がしている。自分ではまったく作らないし(というか作れない)、どれが良い歌でどれが悪い歌かの判断には、ぜんぜん自信がないのだ。「これこそが秀歌!」なんていう気の利いた断言はできず、できるのはただ、「この歌、好きなんですよね……」という、主観丸出しのつぶやきだけである。親しくしていただいている歌人の方には、「ピアノと同じで、自分でちょっと奏者の側にまわってみると、新しい視点から鑑賞できるようになるよ」と、異論の余地がない助言をいただいているので、すなおに従うべきなのかもしれないが、「でも、ほら、中井英夫だって純粋読者だったわけだし」という分不相応な言いわけとともに逃げ回っている(そこまで強く薦められているわけでもないけれど)。たぶん、ただ詩と呼ばれるものが好きなだけ、という、このあやふやな立脚点が気に入っているのだ。やっぱり詩は、愛のみで語りたい。ヴァレリーボルヘスがあちこちで言っていたとおり、詩というものがなんであるかを、結局われわれは名指すことができないのだから。

 誤解を招きそうなので書いておくと、もちろん、実際に作るひとが技巧を無視するわけにはいかないという点も理解できる。けれど、それはわたしのような純粋読者がぜんぜん気づかないような、遥か高みでこっそりやっていただきたいと思うのだ(まあ、読者に見え透いているようだったら、きっとそれは技巧と呼べるレベルには達していないものなのだろうけれど)。これは批判などではなく、純粋読者からのただの勝手な言い草である。好きで暗誦していた歌が、じつは同じ子音ばかりを使って書かれていた、と不意に気づいて、びっくりしたことだってあるくらいだ。気に入ったあとから驚くくらいが、ちょうどいい。鑑賞のうえでの作歌経験の重要性を教えてくれた歌人の方は、読んでいる最中には技巧的だなんて感じたりしなかったけれど、一読したら二度と忘れられなくなるような、すばらしい歌をたくさん書いているひとだ。

 さて、どうしてこんな話をはじめたのかというと、木下龍也は誤解されがちだと思ったのだ。彼の歌には軽快なものが多いので、とくに短歌に詳しいひとたちから、どうしても軽く見られがち、という気がしている。ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』ではないが、軽さと重さのどちらが優れたものなのか、というのは、答えを出しにくい問題だ。重い、つまり、情報量の多い、たとえば葛原妙子の歌と木下龍也の歌を並べてみると、もはや同じ詩形式とは思えないほどである。もちろんそこから汲み出されてくるものもぜんぜんちがうのだが、歌集を読みすすめる速度も段違いで、木下龍也の歌集のほうが、はるかに気安く手を伸ばすことができる。これは第一歌集『つむじ風、ここにあります』を開いたときにも思ったことだが、情報量が少ないので、瞬間的に響いてくる歌があちこちに潜んでいるのだ。「ネタかよ!」という、つっこみを入れたくなるような歌もちらほらあるのだが、そういう歌のくだらなさも含めて、このひとの歌集を読むのは楽しい。わたしのような純粋読者にとって、この軽さ、気安さは、まちがいなく価値なのだ。

  十二枚切りのしょくぱんまん空を飛ぶとき顔が風に屈する(29ページ)

  リクルートスーツでゆれる幽霊は死亡理由をはきはきしゃべる(90ページ)

  恋人を鮫に食われた斎藤が破産するまでフカヒレを食う(107ページ)

 ネタっぽい歌としては、この歌集にはこんなものが含まれていた。くだらない。くだらなすぎるのだが、でもうっかり笑ってしまう。穂村弘の『ダ・ヴィンチ』誌上の連載、『短歌ください』にも、こういう一発ギャグみたいな歌はしょっちゅう出てくるが、そういう歌の作者たちの多くはほんとうに一発屋に終止してしまっているのが常で、歌集を刊行できるようなひとには育っていない印象がある。木下龍也は例外的なひとなのだ。なぜか何発も撃つ。たまにすべるけれど。

 でも、わたしが好きな木下龍也は、ネタに走っていないときの彼である。ふだん人前では冗談ばかり言っているひとが、ひとりでいるときにはどんなことを考えているのか。それをこっそり伝えてくれるような歌が、彼の歌集には散りばめられているように思えるのだ。冗談と冗談とのあいだに挟まれた、クズを装う善人の孤独のようなものが。

  自転車に乗れない春はもう来ない乗らない春を重ねるだけだ(7ページ)

  車椅子の女の靴の純白をエレベーターが開くまで見る(10ページ)

  ついてきてほしかったのに夢の門はひとり通ると崩れてしまう(31ページ)

  負けたとき私が何と戦っていたのか君も知ることになる(55ページ)

  戦場を覆う大きな手はなくて君は小さな手で目を覆う(62ページ)

  少女らはスカートのまま戦場を越える無色の虹を渡って(68ページ)

  ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして(69ページ)

  もうずっと泣いてる空を癒そうとあなたが選ぶ花柄の傘(73ページ)

  最近は仕事ばかりで真昼間の庭の匂いに包まれてない(75ページ)

  ここにいてここにはいない読書家をここに連行するためのキス(76ページ)

 エレベーターのなかで、うつむいて、同乗した車椅子の女性の白い靴を眺めている。ただそれだけのことがなにか淋しいのは、このとき歌人がひとりでいたからにちがいない。友人と一緒に乗ったエレベーターでは、あの箱のなかの奇妙な静けさも、一時的なものに終止して、同乗した方の靴をそこまで眺めるということにはならないと思うのだ。ただ瞬間的にひとりになったという刹那的な孤独ではなく、目を覚ましてからまだだれとも会話をしていない日のような、それなのにエレベーターがあるようなところにまで出てきてしまったというような、もっと精神的な、圧倒的な孤独を感じてしまう。白い靴が眼前に現れたのは、そういうときだったと思ってしまうのだ。その瞬間を切り取って詩にしてしまうというのは、およそ短歌という形式でしか実現不可能な選択のように思えてくる。

  それぞれに中心を持つぼくたちはひとつの円のふりをしていた(77ページ)

  死に終えた電池のように明確な拒絶でぼくを安心させて(81ページ)

  ゆうぐれの森に溺れる無数の木 つよく愛したほうがくるしむ(82ページ)

  次に会う理由としては頼りない冬の終わりに貸したセーター(87ページ)

  燃える馬があなたの町へ駆けてゆくぼくはしっぽを摑み損ねる(94ページ)

  茶畑の案山子の首は奪われて月の光のなかの十字架(98ページ)

  独白もきっと会話になるだろう世界の声をすべて拾えば(100ページ)

  つくしい名前をもらいそれ以外なにももらえず死ぬ子どもたち(106ページ)

  全方位春ゆうぐれの公園でブルーシートのおもりとなれば(112ページ)

  なかゆびに君の匂いが残ってるような気がする雨の三叉路(119ページ)

 この、〈なかゆびに〉という一首、じつはふだん短歌に触れたことのない友人に見せたのだが、反応が「え、下ネタ?」だったので驚いた。言われてみて気がついたのだが、たしかに下ネタでないのなら、これが〈なかゆび〉である必要性がないのだ。ただ手をつないで歩いていたという意味なら、〈てのひら〉でもなんでもいいのに、〈なかゆび〉。前述の歌人の方にも伝えたところ、「これは下ネタだね」と言われた。「〈ような気がする〉っていうのが気に入らないなあ」とも。

  立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ(122ページ)

  君とゆく道は曲がっていてほしい安易に先が見えないように(125ページ)

  冬、僕はゆっくりひとつずつ燃やす君を離れて枯れた言葉を(126ページ)

  火葬場の煙が午後に溶けてゆく麻痺することが強くなること(135ページ)

  雪を着る墓の匿名性を手で払って祖父を探す夕方(137ページ)

 冒頭に書いたことと完全に矛盾してしまうが、友人が「うまくなってる」と言っていたのも、なんとなく理解できた。なんというか、定型に忠実だし、語句の配置やスペースの使い方にも、以前にはなかったヴァリエーションのようなものを感じるのだ。わたしの頭のなかの主観の部分は、歌がじっさいに響いてくるかどうかだけが重要だ、と言ってはいるが、今後もこのひとの歌集は迷った末に買いつづけることになるような気がしている。しかもちょっと楽しみなのだ。

 とくに気に入ったのは、以下の一首。

  立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ(122ページ)

 ほかにもたくさんあったけれど、この言葉は発せられなかったからこそ歌になり得たような気がしていて、そこからまたしても歌人の孤独を感じた。じっさいには言えなかったんだろうな、と思う。わたしには言えない。こんな恰好良いこと。

 それから、以前『つむじ風、ここにあります』を紹介したとき、「あとがき」のすばらしさについて書いた記憶がある。この第二歌集の「あとがき」も、とても風変わりだ。ていうか、このひと、変だよ。なんて生きづらそうなやつ。

「これからどこへ行けばいい ぼくらはどこへ行けばいい
 どこへ行けば どこにも行かなくていいと思えるだろう」
(「あとがき」より、140ページ)

 これからもあまり熱意は込めず、ひっそり楽しみにさせていただく。

きみを嫌いな奴はクズだよ (現代歌人シリーズ12)

きみを嫌いな奴はクズだよ (現代歌人シリーズ12)