Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ドン・キホーテ

長かった。年末の宴会続きや体調不良も重なって、通読するだけで一ヶ月もかかってしまった。しかも読み終えた今でも、この本が自分の中で完結した気が全くしない。むしろようやく、この本が秘める広大な世界のスタート地点に立つことが出来た、という心境である。多くの作家や批評家たちがこの本を再三に渡って話題にする理由が垣間見えたばかりのところで、物語は終了してしまった。

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

 

ミゲル・デ・セルバンテス牛島信明訳)『ドン・キホーテ』前後篇全6冊、岩波文庫、2001年。


この岩波文庫版は「前篇」と「後篇」を合わせると全部で六冊ある。先程「長かった」と書いたばかりだがこの牛島信明訳は大変読みやすく、読書に当てる時間が十分に取れる時に読めばこんなに時間のかかることはなかっただろう。通読した友人に「前篇よりも後篇の方が時間がかかる」と聞いていたのだが、僕に関してはそんなことはなかった。実は2009年の内に読み終えることを目標としていたので、「後篇」に入ってからは読書時間を存分に確保するようにしていたのだ。それでも「前篇」と「後篇」を読む間に何の浮気もしなかったのは間違いだったかもしれない。それほどにまで、この両者ははっきりと異なっているのだ。

「おひまな読者よ」と始まる「前篇」の序文は象徴的である。この序文を読んだら最後、『ドン・キホーテ』の世界を旅することは絶対に避けられないだろう。ここではまずセルバンテスが自分の著作をいかにして高めるか、苦心している姿がある。

「君が頭を悩ませている最初の点、つまり巻頭を飾るために必要で、それもお偉方やいかめしい肩書をもつ人の手になるものが望ましいというソネット、寸鉄詩、そして頌詞について言えば、君が手ずからそれらを作るという、ちょっとした努力を払うことで十分間に合おうというものだ。なあに、そのあとでそれぞれに君の好きな名前をつけて、例えばインドのプレスター・ジョンの、あるいはトラピソンダの皇帝の作品ということにしておけばいいのさ」(前篇(一)、17ページ)

メタフィクションという言葉を論ずるときに決まって『ドン・キホーテ』のタイトルが現れる理由が、この時点で既に明らかになっている。この序文においてセルバンテスは「序文とはどのように書かれるべきか」を問題にし、上のような虚構の友人とのやり取りを交わしながら、この『ドン・キホーテ』の原作者は別にいることをほのめかす。つまりシデ・ハメーテ・ベネンヘーリというアラビア人が書いたものの断片をセルバンテスが集め、それを自ら体系化して生み出したものがこの著作である、という設定となっているのだ。この原作者の原稿が散逸してしまったという理由でストーリーが中断される箇所もあり、またセルバンテスがその続きを発見しモーロ人に翻訳してもらう描写なども小説中に挿入されている。そしてこのベネンヘーリは再三にわたって顔を出し、自らの心境を語ることは一度や二度ではないのだ。このあまりにも奇抜な重層的構造が『ドン・キホーテ』を不朽の書としたことは疑いなく、また同時に後に語る『贋作』を生み出す土壌ともなっているのだ。

さて、序文が終わるとようやくドン・キホーテの登場である。騎士道物語を愛好するあまり、17世紀の世にそれを復活させようとしたこのあまりにも有名な主人公は、郷士アロンソ・キハーダという自らの素性を遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと変え、愛馬ロシナンテにまたがり最初の旅に出る。

「これらの考えは、このまま計画を続行することをいささか躊躇させた。しかし、なんといっても彼の狂気は他のいかなる道理をも圧倒するほど旺盛だったので、彼はおのれを狂わせた物語の中で読み覚えた先例にならうことにした」(前篇(一)、56ページ)

この第一回目の旅はあっけなく終わる。彼が「城」と呼んだ旅籠の亭主によって騎士に叙任してもらい、道中で出くわした商人たちに叩きのめされると、たまたま通りかかった隣人が傷ついた彼を連れ戻してくれるのだ。まるで短篇小説のように終わる第一回の旅は、村の司祭らによる騎士道物語の焚書によって幕を閉じる。

第二回目の旅立ちに際して、ドン・キホーテは従士を雇い入れる。これがかの有名なサンチョ・パンサである。おどけ者で剽軽な旅の相棒、という小説の登場人物たちが代々引き継いでいくことになる役割は、このサンチョ・パンサによって創始されたのだ。ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』に登場するパスパルトゥーや、ディケンズの『ピクウィック・クラブ』に登場するサム・ウェラーなど、サンチョを模したと思われる人物たちは枚挙に暇がない。ドン・キホーテサンチョ・パンサという文学史上の最強コンビが結成され、彼らはかの有名な「風車の冒険」に挑むことになるのだ。つまり、風車を「巨人」と判断したドン・キホーテがこれに襲いかかり返り討ちにあう、というエピソードである。『ドン・キホーテ』を通読していない人たちの中でも有名なこのエピソードはこのようにして生まれ、ギュスターヴ・ドレによる挿画が彩りを添えているのだ。ギュスターヴ・ドレの挿画は全篇を通じて随所に見受けられ、読む者を楽しませてくれる。そういえば窪田般弥が編纂したドレの画集とも言うべき教養文庫版の『ドン・キホーテ』の表紙は、この「風車の冒険」だった。

「その方の名はドゥルシネーア、生国はラ・マンチャ地方の一村、エル・トボーソで、その御身分は、拙者が女王とも主君とも仰ぐ方であってみれば、少なくとも王家の血をひいておられるはずでござる。また、その美しさときたら、とてもこの世のものとは思われぬが、それもそのはず、世の詩人たちがわが恋人を称える際に用いる、現実離れした空想的な美の形容のことごとくが、あの方のなかでそのまま現実となっているからでござる。すなわち、その髪は黄金、額は至福の楽園、眉は弧をなす虹、両の目は輝く太陽、両の頬はバラの花、唇は珊瑚、歯は真珠、うなじは雪花石膏、胸は大理石、両の手は象牙、そして肌の白さは雪をあざむき、さらに慎みによって人の目に隠されている部分のすばらしさとなると、拙者が想像して承知するところによれば、それこそ思慮深い才能がただ抽象的に誉め称えることはできても、具体的になぞらえるものを見つけることなどとうてい不可能ですわい」(前篇(一)、226ページ)

このようにしてそれぞれの役割を負った彼らは、ドン・キホーテの狂気に振り回されながら旅を続ける。「前篇」において特徴的なのはこの狂気である。上に挙げた実在しない思い姫ドゥルシネーア・デル・トボーソに想いを馳せるためにドン・キホーテは自らに苦行を課しさえする。その理由が極めてドン・キホーテらしい。

「「そう、そこが肝腎な点じゃ」と、ドン・キホーテが答えた。「そこにこそわしの営みの微妙なところがあるのよ。つまり、遍歴の騎士が理由あって狂気におちいったところで、ありがたみもなければ面白くもない。重要なのは原因もなく狂態を演ずることであり、わしの思い姫に、理由もなくこれだけのことをするなら、理由があったらどんなことになるだろうと思わせるところにあるのじゃ」」(前篇(二)、99ページ)

ドン・キホーテの騎士道狂いは深刻なもので、普段理性的な紳士である彼は話が騎士道物語に関わってくると途端に常軌を逸してしまうのだ。風車を巨人と見なすのは序の口、金だらいを兜と見なしたり聖像を囚われの姫と見なしたり、まさしく病気である。

「それにしても、あの気の毒な郷士がどんな作り事や絵空事でも、その話の筋や言葉づかいが荒唐無稽な騎士道物語と似ているというだけで、やすやすと信じてしまうというのは、なんとも奇妙な、驚嘆すべきことではないでしょうか?」(前篇(二)、263~264ページ)

もちろん、『ドン・キホーテ』はただ彼の狂気のみを扱った作品ではない。「前篇」において特徴的なもう一つの点は、ドン・キホーテサンチョ・パンサの二人の旅と関わらないところで展開される様々な挿話の数々である。実際それに割かれた紙幅は膨大なもので、「前篇」も中盤に入ると彼ら以外の人たちの声で埋め尽くされてしまう。

「豪胆きわまりない騎士、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを世に送りだした時代は、なんと幸福な時代であったことか。すでに衰退し、ほとんど死滅していた遍歴の騎士道を蘇生させ、この世に再建しようという、実に殊勝な決意を彼が抱いたおかげで、今日われわれは、心をなごませるような楽しみの少ないこの時代に、ドン・キホーテの伝記の得もいわれぬ面白さのみならず、その伝記のなかに収められた数々の短い物語や挿話をも楽しむことができるからである。実際のところ、これらの物語や挿話は伝記の本筋に負けず劣らず、いやある面においては、それを凌駕するほど面白く、技巧と真実に富んでもいるのだ」(前篇(二)、181ページ)

「後篇」最終巻の巻末にある「解説」で訳者が述べている通り、『ドン・キホーテ』はセルバンテスの「自己生成の書」なのである。物語の本筋を延々と書き続けることに疲れたセルバンテスは、小説の中に小説を挿入することによって『ドン・キホーテ』に彩りを添えた。「愚かな物好きの話」、「捕虜の身の上話」といった本筋から遊離した物語の数々は、セルバンテスの慰みであると共に読者に新鮮味を与えてくれるのである。

「言ってみれば、これは若者の愛の典型のようなものでした。若者たちの恋愛というのはその大半が、本当の愛というよりは色欲であって、色欲の目ざすところは所詮、快楽でしかないのですから、その快楽を享受することによって終りを告げ、愛と思われたものもそこで萎んでしまいます」(前篇(二)、79ページ)

「このわたしの実例は後世の人びとに、不幸な人間の誰にでもありあまっていたものが、わたしにだけは欠けていたということを教えることになりましょう。つまり、一般に不幸な人間にとって、慰めをもたなくなることはそれ自体慰めでありうるのですが、わたしにとってはそれがさらに大きな悲しみとなり苦悩となるのです。というのも、わたしの不幸は死をもってしても終るものではないと考えるからです」(前篇(二)、180ページ)

「「それはまた、いったい何のことなの、お嬢さん? 人の話では、あれを歌っているのは騾馬引きの若者だそうだけれど。」
「いいえ、あれはほうぼうに領地をお持ちの御曹司です」と、クラーラが応じた。「そして、あの方はあたしの心の中にも確固たる領地をお持ちで、あちらからその所有権を放棄しようとしない限り、それは永遠にあの方のものですわ」」(前篇(三)、190~191ページ)

ドン・キホーテたちが巡り会う人々の多くが、恋に悩んでいるのも面白い。自分たちの愛する者と共にいることの出来ないこれらの恋人たち(多くは女性でしかも絶世の美女なのだが)は、自らの苦境を話すことで騎士道物語に沿った援助を主従に求める。

「毒蛇が毒をもっているからといって、なるほどそれで人を殺しはするものの、その毒が自然によって授けられたものであってみれば、とがめられるいわれはない」(前篇(一)、248ページ)

「貞淑で慎み深い女というのは、いわば純白の白貂だね。そして貞潔という美徳は、雪よりも白くて清らかなものだ」(前篇(二)、325ページ)

絶世の美女があまりにも多すぎて「前篇」も終盤になると彼女らの誰が一番美しいのかまったくわからなくなる。ドン・キホーテサンチョ・パンサの人物造形に天才的な手腕を見せたセルバンテスも、ここではかなり適当である。しかしドン・キホーテにとってドゥルシネーアに優る美女は有り得ないのであってみれば、それも重要なことではないのだろう。彼女は実在しないということでもってこれらの競争からの永遠の勝利を約束されているのだから。

「嘘も真実と見えれば見えるほど上等だし、本当らしさと蓋然性があればあるほど人の心を楽しませることができるのだ、と言ってやりますよ。要するに、嘘だらけの虚構がそれを読む人びとの理性と和合することが何よりも大切なんです。ですから、不可能なことをいかにもありそうなことのように描き、途方もない誇張をやや控え目にし、かくして読者の気持をひきつけては感嘆させ、不安におとしいれ、喜ばせ、楽しませるといった工夫をこらすことにより、感嘆と喜びの歩調が合うようにすべきなのです」(前篇(三)、283~284ページ)

最終的には途中から彼らと旅を共にしていた司祭と床屋の奸計によって、ドン・キホーテは檻に閉じ込められ村へと連れ戻される。1605年に出版された『ドン・キホーテ』(「前篇」)はこのように完結するのである。この小説は好評を博し、他の著者によって続篇(「贋作」)まで書かれたことからも、その人気ぶりがうかがえる。アベリャネーダという素性の知れない男が、1614年に突如続篇なるものを出版したのだ。この続篇は『贋作ドン・キホーテ』という題で翻訳さえある(筑摩書房、1999年。残念ながら現在は絶版)。この謎の偽作が正当な続篇である1615年出版の『ドン・キホーテ』(「後篇」)の方向性を決定づけたことは疑いない。

さあ、「後篇」である。「後篇」に入るとこの物語はがらりと雰囲気が変わる。まず序文の性格からして「前篇」とは全く異なり、ここでは一年早く刊行された偽作への批判に当てられているのだ。それだけならまだしも、「後篇」に登場する人物はことごとく「前篇」を既に読み、ドン・キホーテたちをよく知っている者ばかりである。『ドン・キホーテ』を語るときに取り沙汰されるメタ・フィクションの性質が、ここにきて一気に開花するのだ。

「すると学士さんが、お前様の伝記が『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』という題の本になって、とっくに出まわっていると教えてくれましてね。しかも、そこにはおいらもサンチョ・パンサという本名で登場するし、ドゥルシネーア・デル・トボーソ姫のことも、さらにお前様とおいらが二人だけで話し合ったことなどもみな載っているというもんだから、その伝記の作者は一体全体どうしてそういうことを知ったものかとびっくり仰天して、思わず十字を切ったほどですよ」(後篇(一)、54~55ページ)

登場人物の誰もが「前篇」を読むことで既にドン・キホーテの狂気やサンチョ・パンサの単純さを了解しており、それを面白がるために彼らを招こうとするのである。「後篇」の冒頭から登場し重要な役割を果たすことになる学士サンソン・カラスコは「わたくしの睨むところ、その本はこれまでに一万二千部のうえ印刷されているはずですからね。嘘だと思うなら、本が出版されているポルトガル、バルセローナ、そしてバレンシアに訊いてみればすぐに分かることです。しかも現在、アントワープでも印刷中だという噂があります。ですからわたくしには、今後この本が翻訳されないような国も言葉もなかろうと思われるんですよ」とさえ述べているのだ(後篇(一)、60ページ)。しかもそれが現実になっているということが尚更恐ろしい。つまり訳者が述べていたとおり、「前篇」は「後篇」の大きな構成要素の一つとなっているのである。

「学士はサンチョ・パンサが口にする言葉とその話しぶりに、すっかり驚いてしまった。学士はドン・キホーテの物語の前篇をすでに読んではいたが、現実のサンチョが、そこに描かれているほど滑稽にして愉快な人物だとは思いも及ばなかったからである。しかし、いま目の前で彼が、遺言とその補足書を取消し(レボカール)できないようにと言うべきところを、遺言をその追い書きもいっしょにして、ひっくり返らねえように(レボルカール)と言うのを聞くことにより、この男について読んだことはすべて本当だと信じるに至った。そして、彼がわれわれの世紀の最も名高いばか者のひとりであることを確認し、さらに、心のなかで、この主従のごとき一対の狂人はまさに前代未聞、かつてこの世に存在したためしはなかろうと、つぶやいたのである」(後篇(一)、126~127ページ)

ドン・キホーテ』における最後の良心サンチョ・パンサは変わりない。今「最後の良心」と書いたのは、「前篇」を既に読んだ人々がひしめく「後篇」の世界は彼ら主従に対する悪意に満ち満ちているからである。誰もがからかい半分で彼らを招き、冒険をさせようとして躍起になっているのだ。サンチョ・パンサはそんな世界でも相変わらず場にそぐわない諺を吐き続けてくれる。

「「どんな平らな道にも」と、サンチョがひきとった、「ちょっとした穴ぼこや障害物は必ずあるもの。よその家でも空豆を煮るが、わが家じゃ大鍋に一杯煮る。狂気のほうが思慮深さより、より多くの仲間や取りまき連を集めるもの、なんて言うね」」(後篇(一)、212ページ)

ところが、ドン・キホーテには大きな変化が訪れる。彼の狂気は様変わりし、今や彼の目には旅籠は城と移らず、田舎娘をドゥルシネーアに仕立て上げようとしたサンチョの試みも全く上手くいかないのである。それでも公爵夫妻を始めとする彼らを招こうとする多くの人々を十分に満足させるほどには狂っているのだが。

「かなり眠ってから目を覚ました主従は、ふたたびそれぞれ馬と驢馬に乗り、そこから一レグアばかり先に見えていた旅籠に向かって道を急いだ。なお、ここで余が旅籠と言ったのは、それまでどんな宿屋でもみんな城と呼んでいたドン・キホーテが、この時はそれを旅籠と呼んだからである」(後篇(三)、168~169ページ)

「前篇」のように数々の挿話が差し挟まれることはなく、今度ばかりはセルバンテスが主従から目を離すことはない。それどころか、先に挙げたサンソン・カラスコが「前篇」の読者を代表して「挿話が多すぎる」とドン・キホーテたちにクレームをつけるという描写すらあるのだ。これに対するセルバンテスの物言いがまた面白い。小説の中に読者がいて、著者が彼らにいいわけをするのだ。「前篇」から続く重層的な構造が「後篇」に至ってはめまぐるしくリンクするようになる。

「かくして原作者は、もともと宇宙全体でさえ扱うことのできる理性と才能に恵まれながらも、たえず物語という狭隘な枠内に身を置き、そこからはみ出ないように気をつけているのだから、そうした苦心をないがしろにしないでもらいたい、したがって彼が実際に書いたところではなく、むしろ書かずにおいたところに対して賛辞をおくってもらいたい、と要求しているのである」(後篇(二)、311ページ)

「後篇」の世界が「前篇」の読者たちによって動かされるのと同様に、そこには「贋作」さえ登場してくる。序文における攻撃のみならず、主従が「贋作」を印刷しているところに立ち寄ることさえあるのだ。しかも「贋作」がサラゴサにて実施される馬上槍試合を題材にしていることから「前篇」にて予告していたサラゴサ行きを取り止めるなど、徹底的にこの偽作を認めない。あまつさえ「贋作」の登場人物がこの正篇たる「後篇」に登場し、主従と対面させることで偽作にて描かれていた彼らとは似ても似つかないと証言までさせているのだ。虚実の混交ここに極まれり、と思わずにはいられない。

「否でも応でも狂人だってやつと、自分からすき好んで狂人になるやつと、どっちがより狂ってるんでしょうかね?」(後篇(一)、245ページ)

「あの人は狂気のなかに素晴らしい正気の交錯する変った狂人ですよ」(後篇(一)、300ページ)

「人を愚弄する者たちも愚弄される者たちと同じく狂気にとらわれている」(後篇(三)、352ページ) 

「後篇」の最後にはドン・キホーテの死を描くことによって、今後の偽作の登場を未然に防ぐ手立てが講じられている。愉快なことこの上ない主従の物語は、こうして幕を下ろすのである。小説と現実の境目を見失ったドン・キホーテが彼を題材とする原作を読んだセルバンテスによって小説に描かれ、それを読んだ人々がドン・キホーテと対面することでまた新たな一行が足されていくのである。末恐ろしい小説だ。

「おお、令名赫々たる作者よ! おお、幸運なドン・キホーテよ! おお、その名も高きドゥルシネーアよ! おお、機知に富んだ愛嬌者のサンチョ・パンサよ! そなたたちが一人ひとり、また皆いっしょになって、この世に生を受ける者たち共通の慰めとも喜びともなるために、無限の世紀を生きながらえますように!」(後篇(二)、247~248ページ)

読み終えた気がまるでしない、と最初に書いたことを繰り返す。「前篇」だけでこの物語が終わっていたら、今日まで残ることはなかったかもしれない。「後篇」に入ってからの怒濤の虚実の混交が、この作品に唯一無二の価値を与えているのではないか。サンソン・カラスコが述べた通りのことが実際に起こっているのは、彼の証言が含まれる「後篇」が上辞されたからに他ならないだろう。まだまだこの作品の真価はこんなものではないのだ。通読しただけで十全に把握できるようなものではなく、ようやくこの作品を判断するための材料を揃えたところ、といったところだろう。夥しい量出版されているドン・キホーテ論に取り組むための第一歩を、やっと踏み出したばかりである。

とはいえ、『ドン・キホーテ』は万人に開け放たれた愉快な冒険への入り口だ。今はこれを楽しめたことを喜びたい。小難しい議論を挟み込む必要などないのだ。本棚に常備しておく本が増えて大変嬉しい。

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

 
ドン・キホーテ〈前篇2〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇2〉 (岩波文庫)

 
ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)

 
ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

 
ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)

 
ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)

 


<読みたくなった本>
ロランの歌
『アマディス・デ・ガウラ』
アリオスト『狂えるオルランド』
ドン・キホーテを狂わせた騎士道物語の数々。

ロランの歌 (岩波文庫 赤 501-1)

ロランの歌 (岩波文庫 赤 501-1)

 
Amadís de Gaula

Amadís de Gaula

 
狂えるオルランド

狂えるオルランド

 

アベリャネーダ『贋作ドン・キホーテ
→どうやらかなりの高額になっている。

贋作ドン・キホーテ〈上〉 (ちくま文庫)

贋作ドン・キホーテ〈上〉 (ちくま文庫)

 
贋作ドン・キホーテ〈下〉 (ちくま文庫)

贋作ドン・キホーテ〈下〉 (ちくま文庫)

 

フエンテスセルバンテスまたは読みの批判』
マダリアーガ『ドン・キホーテの心理学』
クンデラ『小説の精神』
→すぐにも読みたいドン・キホーテ論。

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

 
ドン・キホーテの心理学

ドン・キホーテの心理学

 
小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)