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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

オンディーヌ

 メーテルリンク『ペレアスとメリザンド』、フーケの『水妖記』と、水の精にまつわる物語を立て続けに紹介してきたのは、じつはこの本について書きたいからであった。フーケの『水妖記』を直接参照して書かれた、20世紀の傑作戯曲。

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

 

ジャン・ジロドゥ(二木麻里訳)『オンディーヌ』光文社古典新訳文庫、2008年。


 じつは一度、読もうとして挫折した経験がある。いや、挫折というのはちょっと語弊があって、なんというか不安に駆られて読むのをやめてしまったのだ。そのときのわたしは、『水妖記』を読み終えたその日のうちにこの本を手に取った。『水妖記』がいかに悲劇的な話であるかは先日書いたとおりだが、その結末を読み終えて大変感傷的になっているときに、この本を開いてしまったのだ。大筋が同じなので、差異が目につくのは当然なのだが、その差異の部分がやけに気に障った。なんてことはない、フーケの気分のままジロドゥを開くという愚行を犯したのだ。ジロドゥの『オンディーヌ』は、非常に喜劇的なのである。それが、『イリアス』の翻案であるシェイクスピア『トロイラスとクレシダ』を想起させ、嫌な予感を抱いた。日常で使われる意味での「パロディ」であるこの作品は、皮肉に溢れており、わたしが好きになれるものではなかったのだ。同じ嫌味を、『オンディーヌ』の喜劇的な文言からも感じてしまった。それが誤りであったことをあらかじめ告白しておこう。単に読むタイミングを間違えただけだったのだ。

オーギュスト そうしますと、いったい誰のために、こんなところまでおいでになられたんで? 無事に生きて戻れるかたもめったにないような場所なんですが。
 ハンス 誰のために。それは、ある女性のためです!
 オーギュスト お尋ねせんでおきます。
 ハンス あっと、お尋ねしてほしいですね、ぜひ。もう三十日もあのひとの話をしていないんです。このチャンスはのがせない。やっと、この話ができる相手に二人も会えました。尋ねてください! 名前も聞いてください、さあ」(24ページ)

オンディーヌ あたしが女の子でいるにはわけがあると思ってた。そのわけは、男のひとがきれいだから。
 オーギュスト お客さまはうんざりなさってる。
 オンディーヌ そんなことない。このひと喜んでる。ほら、あたしを見てるあの目……。あなた、なんて名前?
 オーギュスト 敬語でお尋ねせんか。騎士さまには、です・ます。なさけない。
 オンディーヌ (騎士に近づいて)きれい。この耳見て、お父さん、もう貝がら! この貝がらに敬語なんて、むり。貝がらさん、あなたの持ち主はなんて名前? このひと、なんていうの?
 ハンス このひとはハンス……」(29ページ)

 少し前に『ペレアスとメリザンド』を読んだことがきっかけとなり、およそ一年ほど間隔を空けてからの再会となったのだが、そのときにはもう『水妖記』の結末によってもたらされた悲しみも癒えており、じつに新鮮な気持ちで読むことができた。こうなるともう諧謔は魅力でしかなく、喜劇的な言葉を気の利いた喜ばしいものとして受け入れることができる。その地点に立ってはじめて、自分がものすごくおもしろい本を読んでいることに気がついた。

オーギュスト おまえもあの子の年頃には、水かさの増えてる小川に飛びこんだりしたものかね?
 ユージェニー 一度だけやってみたけど、足からひっぱり上げられたね。あの子が一日に千回くらいやってることはね、あたしが一度やって懲りたことばっかりさ。水の渦に飛びこむ、滝の水を鉢で受けてみる。ああ、なつかしいね、水の上を歩こうとしたこともあったね」(12ページ)

オンディーヌ 愛してるって言ってほしいなって、頼んだら頼みすぎ?
 ハンス (片膝を床につく)頼みすぎじゃない、言います。愛してます。
 オンディーヌ それって、どこかよそでも言った?
 ハンス 似たようなことは言った。でも意味は逆だった」(71ページ)

 最大の魅力は、オンディーヌだ。彼女はフーケのウンディーネとは異なり、騎士と結ばれて人間の魂を持つようになっても、それが理由で唐突にしとやかな大人の女性に変貌したりはしない。オンディーヌはいつまでも無邪気な少女のままなのである。

オンディーヌ あなたのだんなのあざらしなんて、鼻がなくって鼻の穴だけじゃない。プロポーズのときにくれた真珠の首飾りだって、粒が不揃いだったじゃない」(40~41ページ)

侍従 ぜったいだめです!
 オンディーヌ でも、そうできればすごくうれしいんだけど!
 侍従 宮廷の第三級のパーティーを水上まつりに変更させるなんて、じっさいにできないことです。そもそも財務省がうんと言いません。池に水をひくたびに莫大な費用がかかるんですぞ。
 オンディーヌ ただでやってあげます。
 侍従 もうおやめなさい! たとえ国王陛下が魚の王子を出迎えるとしても、陛下は財政をかんがみて、王子に水から出てもらったところで謁見されます」(109~110ページ)

 第二幕、宮廷のパーティーに呼ばれたオンディーヌの振る舞いは、すばらしい。なかでも、口やかましい侍従がオンディーヌに宮廷での礼儀作法を叩き込もうと、(無益な)努力をする箇所があるのだが、侍従を無視して詩人のほうへ駆け寄るオンディーヌは、そのたびにすばらしい会話を展開する。

オンディーヌ あなた、詩人のかたですよね。
 詩人 そう言われております。
 オンディーヌ あんまりきれいではないですね。
 詩人 そうも言われております。もっとこっそりと、ですが。ただ詩人の耳というものは、ひそひそしたささやきばかり聞こえるようにできております。ですから、ますますよく聞こえます。
 オンディーヌ 詩を書いても、きれいになれませんか?
 詩人 わたくしは、詩を書き始めるまえはいまよりもっと、醜かったものです」(111~112ページ)

オンディーヌ いちばん最初に書いた詩ってどんなでしたか?
 詩人 いちばんできばえのいい詩でした。
 オンディーヌ どんな詩よりも?
 詩人 どんな詩よりも、すばらしいできばえでした。あなたがどんな女性よりもすばらしいのとおなじです。
 オンディーヌ 自慢しながら謙遜するのね。その詩、朗読してみてください。
 詩人 あいにく、おぼえておりません。夢の中で書いて、目がさめたら忘れていました。
 オンディーヌ いそいで書いておけばよかったのに。
 詩人 じつはわたしもそう思ったんです。それで、書きました。ですがちょっといそぎすぎました。夢の中で書いてしまって」(114ページ)

 また、この宮廷ではある作家の作品名が何度も口に上る。フロベールの『サランボー』である。だが、舞台が中世であるはずなので、19世紀に書かれた小説が話題になるというのはいかにもおかしい。ジロドゥの採った解決策は、劇中ではこれを古典的戯曲として扱うというものだった。

侍従 それでは諸君、ここはひとつ諸君の創意工夫が待たれるところである。もうまもなく、国王陛下におかれてはこの広間に騎士ヴィッテンシュタインどのを迎えられる。騎士どのは三月におよぶハネムーンののち、ようやく、そのうら若き花嫁を宮廷におひろめする決心がついたというわけだ。陛下におかれては、この盛大なる儀式に余興を添えたいとのおおせである。そこでだ、王立劇場総監督、そなたはなにを提案してくれるか。
 劇場監督 『サランボー』です!
 侍従 『サランボー』。悲劇ではないか。しかも、ついこのまえの日曜に、辺境伯の一周忌でやったばかりだろう。
 劇場監督 たしかに悲劇でございます。しかしすぐに演じる準備がありますので」(81~82ページ)

劇場監督 王立劇場におかれましては、ただ『サランボー』においてのみ、合唱隊員の発声器官がリラックスして、音程は少々はずれながらも割れんばかりの声が響くわけです。『ファウスト』のときは錆びついてかたまっていた舞台装置の鎖が、『サランボー』になると、突如するすると回りはじめる。大道具が十人がかりで、幕だの書き割りだのにぶつけながらやっとのことで持ち上げていた柱さえも、たった一人の指先で、ほそいスティックよりあっさりと立ち上がってしまう。関係者が鬱になったり反抗的になったりすることもありませんし、舞台裏の埃だって、鳩といっしょにたちまち飛び去ってしまうというわけです。あるときなど、ドイツもののオペラを上演しておりました。わたくしの席から見ていますと、一人の歌手だけが喜びのあまり跳びはねるようにして、自分のパートを声いっぱいに歌っている。その迫力でオーケストラは言いなり、客席はもう拍手喝采。それというのもです、ほかの出演者がおとなしくドイツオペラの譜面どおりに歌っていたのに、その歌手はうっかり『サランボー』の持ち役を歌っていたわけです。というわけで閣下、わたくしどもの劇場は『サランボー』を千回は上演してきました。それはつまり、いきなりやれと言われて演じることができるのは、この劇しかないからです」(84~85ページ)

 悲劇であるはずの『サランボー』が、その使用法によっていつのまにか笑いを引き起こすものにすり替わっているという、この手腕はどうだろう。この後、『サランボー』という固有名詞が登場してくるたび、読者は笑いを堪えられなくなるのだ。

侍従 そこの君! 君はなにかね。
 曲芸師 あざらしの曲芸師でございます、閣下。
 侍従 そちのあざらしはなにができるのか。
 曲芸師 『サランボー』を歌ったりはいたしません、閣下。
 侍従 それもまた、こころえ違いであるな。『サランボー』を歌うあざらしがいれば、まことにけっこうな幕間のだしものになったのであるが。それはそうと、そちのオスあざらしはあごひげを生やしておるそうだが、それがどうも国王陛下の義理の父君のあごひげに似ているという者がおる。
 曲芸師 そり落とせます、閣下。
 侍従 遺憾にも偶然にも、陛下の義理の父君にあらせられては、昨日ご自身のひげをそり落とされた。かりにも妙な噂がたってはならん」(85ページ)

奇術師 あの二人はなんです? こんなところに出番はないでしょう。
 侍従 ありゃサランボーの歌手だね。引っこめるのはむりだな。
 奇術師 黙らせてください。
 侍従 サランボーの歌手を黙らせる。それはいわばヘラクレスの八番目の仕事だな。つまり、まずむりだ」(153~154ページ)

 だが、水の精の伝説が、もともと悲劇的なものであったことを思いだそう。笑いながら読み進めていて、読者がそれを忘れたころに、物語は急展開する。

王妃 それでも、あなたもわかっているのでしょう? あなたのなかには、すべての大きなものがある、でもハンスがそれを好きだと思ったのは、小さくしか見なかったからでは? あなたは光そのものなのに、ハンスは金髪と思って好きになった。あなたは優美さそのものなのに、いたずらっぽくてかわいいと思って好きになった。あなたは冒険そのものなのに、ひとつの冒険と思って好きになった。あの若者が自分のまちがいに気づきはじめたら、あなたはかれをうしなう……」(144ページ)

 オンディーヌがいつまでも「いたずらっぽくてかわいい」少女であるゆえ、彼女の想いがどれだけ真摯なものであるかが、ひしひしと伝わってくる。そしてそれがひたすらに裏切られていく様子は、聡明で理解のあるフーケのウンディーネが裏切られたのより、もっとずっと残酷なものとして写るのだ。

ハンス あの女はいま、どこにいるんだ? なにをしてるんだ? うちの狩人も漁師も総動員して探させているのに、半年たっても見つからない。しかも、遠くにいるわけじゃないんだ。今日のあけがた、教会の入り口に、ウニとヒトデの花束がおいてあった……。こんなふざけたことをするのはほかにいない」(171ページ)

 悪魔的なキューレボルンに散々そそのかされるとはいえ、結果的に『水妖記』の騎士フルトブラントは掛け値なしのクソ野郎だったが、『オンディーヌ』の騎士ハンスは、単に不完全な人間なのであって、ずっと親しみが持てる。それに、魂を得て完全無欠の女となったウンディーネよりも、終始「いたずらっぽくてかわいい」ままのオンディーヌのほうが、愛着の対象としては相応しいと思うのだ。

水の精の王 あいつはおまえを不幸にした。
 オンディーヌ たしかに。でもそれだって人間の世界のことだから。不幸だということは、だから幸福じゃないということにはならないの。叔父さま、ぜんぜん理解できないでしょう。地上にはすばらしいものがあふれているのに、そのなかでわざわざ、裏切られることを選ぶ。嘘やあいまいさにぶつかるとわかっている状況を選ぶ。そしてそこへ全力で突進する。でもそれは人間にとって、ほんとに幸せなことなのよ。そうしなかったら変に思われるくらい。苦しむほど幸せなの。だからあたしは幸せ。この世でいちばん幸せ」(210~211ページ)

ハンス 『オンディーヌ』。ぼくがこんなふうに、大まぬけで出てくる話、人間らしくけだものだったこの話は、オンディーヌという題になる。この物語で、問題はぼくだ。ぼくはオンディーヌを好きになった。それはオンディーヌがそう望んだから。ぼくは彼女を裏切った。それはどうしようもなかったから。ぼくなんて、馬小屋と猟犬のあいだで生きるようにしかできていなかったんだ……。なのに、すべての自然と運命に挟まれて、つかまった。ねずみとりのねずみだ」(214~215ページ)

 この光文社古典新訳文庫の『オンディーヌ』には、訳者によるちょっと詳しすぎるほどの「解説」が寄せられていて、この圧倒的労作はそれだけでも十分に読みごたえがある。この二木麻里という翻訳者、訳書を読むのはこれが初めてのことだったのだが、訳文の軽妙さ、流麗さといい、欠点がまるで見当たらない。作中、「めがねをかけた異教徒」という言葉が出てくるのだが、その訳注が彼女の知性・良識を存分に物語っている。

「原文は「めがねをかけたユダヤ人(les juits à lunettes)」。人種の固有名がもつ含意について、21世紀の日本人が20世紀前半の欧州の人びととおなじ解釈の地平を共有しているわけではない。機械的な直訳を避け、より近似の表象性をもとめて異教徒という語をあてた」(「訳注」より、238ページ)

 なんと60ページもある「解説」は、さながら学術論文のようで、水の精伝説の起源や作家ジロドゥの生涯を大変詳しく紹介してくれている。「文学者」と呼ばれる人びとの仕事には大抵嫌悪感を抱くというのに、この「解説」には興味深いことばかりが書かれていて、非常におもしろかった。読みたい本が増えてとても嬉しい。また、冒頭に書いた悲劇なのか喜劇なのかといった「分類の問題」は、彼女があざやかに要約してくれていることのひとつだ。ジロドゥの作品をこのように分類しようとするのは、じつに愚かしいことである。

「近代は、自然と人間とを、深く、はげしく分断した。人間は、人間のための閉じたメカニズムを徹底的にみがきあげることに執念を燃やした。メカニズムから外れた声には、しばしば耳をとざした。その堅固な閉鎖の愚昧と悲惨が、このファンタジーのなかではかたちをかえて問われていく。それは21世紀のいま、巨大な負債としてわたしたちが返済を迫られつつある問題にほかならない」(「解説」より、242ページ)

「『オンディーヌ』は悲劇なのだろうか、喜劇なのだろうか。古典的な悲劇の要とは「ひとの死」であった。のがれようのない必然によって死へおいつめられていく人物たちの運命と、その懊悩をともにした観客のなかにうまれる浄化や昇華が悲劇の機能であるというアリストテレス以来の定義から見れば、『オンディーヌ』はまちがいなく悲劇である。
 ところが『オンディーヌ』は充分に喜劇的でもある。笑いや風刺、パロディーの匂いがいたるところに埋めこまれている。劇中、もっとも深刻な実が告げられるときは、しばしばふざけているかのように告げられる。たとえばオンディーヌの特異な出生を告げるオーギュストは、前後不覚に酔っている。悲劇と喜劇を重ねたまま、さらさらと進行していく離れわざが、この作品をささえている。
 観客は、笑っているうちに、ぬきさしならないところへ連れていかれる。「真実という恐怖」をくるんでいた冗談の衣が、最後にざっと落ちたときの衝撃が、大詰めでは待ち受けているのである」(「解説」より、243~244ページ)

 戯曲というのは一見すると古めかしい文学形式であるが、20世紀の戯曲の豊潤さには目を見張るばかりだ。ベケットやイヨネスコ、ブレヒト『ガリレオの生涯』など、読んでいる冊数はべつに多くないのだが、彼らの作品にはいつも驚かされている。ジロドゥの作品を読むことでもたらされる喜びは、驚くべきものだ。もっとたくさんの本が気軽に手に取れるようになってほしい。

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

 


〈読みたくなった本〉
フローベール『サランボー

サランボオ (角川文庫)

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ジャン・ジロドゥ『テッサ』

ジロドゥ戯曲全集〈3〉テッサ、トロイ戦争は起こらない

ジロドゥ戯曲全集〈3〉テッサ、トロイ戦争は起こらない

 

ミラン・クンデラ『冗談』
「文学において、複数の筋を最後に重なるというストレットは、ミラン・クンデラの『冗談』をはじめ、小説作品でいくつか有名なものが思い浮かぶ」(「解説」より、255ページ)

冗談 (Lettres)

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ジャック・ルゴフ『もうひとつの中世のために』
クードレット他『メリュジーヌ物語』
ウンディーネ伝説の原型の探求。

もうひとつの中世のために?西洋における時間、労働、そして文化

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妖精メリュジーヌ伝説 (現代教養文庫)

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マーガレット・ケネディ『永遠の處女』
メリュジーヌ伝説とはべつに、フーケやメーテルリンクの作品との出会いののち、水の精にかんしてジロドゥに直接の影響をもたらしたにちがいない作品が一つある。1924年にイギリスでマーガレット・ケネディがあらわした小説『誠実なニンフ』である」(「解説」より、272ページ)

永遠の処女 (1965年)

永遠の処女 (1965年)