Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

辻征夫詩集

 最近、もともと日本語で書かれている本を読むことが猛烈に楽しい。翻訳された文学ではなかなか登場してこないような語彙に溢れていて、日本語ってこんなにおもしろい言語だったのか、と思わずにはいられなくなる。言葉の微細なニュアンスが、文章全体に与える影響の大きさには驚くばかりで、たとえば助詞が一文字ちがっているだけで、日本語というのはそりゃあもう自在に姿を変えるのだ。これは詩歌において特に顕著で、これほど隅々までに意味が行き渡った言葉の流れに向き合うと、自然と静かになってしまう。英語やフランス語で本を読むとき、もしくはそれらの言語が日本語に訳されたものを読むときには、驚きをもたらしてくれるのは言葉と言葉のつながりであることがほとんどだが、もともと日本語で書かれた文章というのは、つながる前の言葉それ自体が楽しいのだ。もちろん、それぞれの言語の習熟度の問題も大いにあるだろうけれど、単語そのものがこれほどひとを驚かせる言語って、ほかにあるだろうか。このごろは和歌や短歌、あるいはこれらについて語った本ばかりを読んでいるけれど、歌人たちの語彙の豊かさ、自分の無知には驚くばかりなのだ。

 そんなことばかり考えていたら、無性に現代詩が読みたくなってきた。谷川俊太郎吉野弘みたいな、優しさに溢れた詩と触れ合いたいな、と考えたとき、どういうわけか頭に浮かんだのは「春の問題」だった。かなり前に茨木のり子『詩のこころを読む』で出会った一篇で、書いたのは谷川俊太郎でも吉野弘でもなく、辻征夫。今年の頭に岩波文庫の『辻征夫詩集』が出たばかりだ。これぞ天啓とばかりに、貪るように読んだ。

辻征夫詩集 (岩波文庫)

辻征夫詩集 (岩波文庫)

 

辻征夫(谷川俊太郎編)『辻征夫詩集』岩波文庫、2015年。


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  春の問題


  また春になってしまった
  これが何回めの春であるのか
  ぼくにはわからない
  人類出現前の春もまた
  春だったのだろうか
  原始時代には ひとは
  これが春だなんて知らずに
  (ただ要するにいまなのだと思って)
  そこらにやたらに咲く春の花を
  ぼんやり 原始的な眼つきで
  眺めていたりしたのだろうか
  微風にひらひら舞い落ちるちいさな花
  あるいはドサッと頭上に落下する巨大な花
  ああこの花々が主食だったらくらしはどんなにらくだろう
  どだいおれに恐龍なんかが
  殺せるわけがないじゃないか ちきしょう
  などと原始語でつぶやき
  石斧や 棍棒などにちらと眼をやり
  膝をかかえてかんがえこむ
  そんな男もいただろうか
  でもしかたがないやがんばらなくちゃと
  かれがまた洞窟の外の花々に眼をもどすと……
  おどろくべし!
  そのちょっとした瞬間に
  日はすでにどっぷりと暮れ
  鼻先まで ぶあつい闇と
  亡霊のマンモスなどが
  鬼気迫るように
  迫っていたのだ
  髯や鬚の
  原始時代の
  原始人よ
  不安や
  いろんな種類の
  おっかなさに
  よくぞ耐えてこんにちまで
  生きてきたなと誉めてやりたいが
  きみは
  すなわちぼくで
  ぼくはきみなので
  自画自賛はつつしみたい


(「春の問題」、28〜30ページ)
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 ああ、なんていい詩。これを書き写したというだけで、この記事を書くことの目的はすでに達せられている。「石斧や 棍棒などにちらと眼をやり」の部分、とくに好きだ。それから、「でもしかたがないやがんばらなくちゃ」。この言葉を胸に秘めているだけで、たいていのことは乗り越えられるだろう。いや、詩に実用性を求めようというのではない。そんなくだらない考えはきれいさっぱり捨ててもらいたい。詩に実用性なんて、あってたまるか。そうではなく、詩は生き物、伴侶だといいたいのだ。この詩句とともに生きれば、世界がすこしましなものになるのはまちがいない。

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  象よ


  いま彼女がつかっている
  細いきいろい象牙の箸
  あれはもしかしたら馬の骨だが
  しかし象牙だったら遠いアフリカの
  草原を群なして歩いていた
  巨大な象のもちものだったのだ
  象よ 彼女はいまきみの牙で
  雑煮の餅をつっついたぞ
  煮豆を三つつまんだぞ
  ちっちゃな仔猫をおどかしたぞ
  象よ もしかしたら 馬の骨よ!


(「象よ」、162〜163ページ)
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  電話


  たぶん 来週
  電話が鳴る
  どこかの編集部からで
  たぶん こういう
  もしもし おじさんのことですが
  詩をひとつ書いてくださいませんか
  どのおじさんでもけっこうです
  おばさんはだめですよ
  ちかごろおばさんは意地悪ですから
  (とこれは編集部の見解で)
  もちろん書きますとこたえる
  おじさんのテーマはひさしぶりだし
  (ずっとおばさんにかかりきりだったんだ)
  電話が鳴るのもひさしぶりだ
  (二年ぶりくらいだろうか)
  心配なのは 電話が鳴ったとき
  その音に聞き惚れて
  受話器を取るのを忘れることだ
  二年も 鳴らない
  電話と暮してごらん
  それが鳴ればこころたかぶり
  聞き惚れるほかになにができよう
  もしもし 誰も出ないからって
  切ってはいけませんよ
  ちゃんと電話のそばにいるんですから
  電話を見つめ 電話にさわり
  せつない思いでいるんですから――
  ねんのため
  編集部に電話をかけた
  これでよし あとは来週
  電話が鳴るのを待つばかり


(「電話」「おじさん狩り」より、126〜128ページ)
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 辻征夫のまとまった詩集を読むのはこれが初めてのことなのだけれど、もう、めちゃくちゃ好きだ。こんな詩人がいただなんて。理屈はいいから全速力で書店に行って岩波文庫の棚を漁れ、と言いたくなってくる。

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  わたしは四時半に起きた


  わたしは今日四時半に起きた
  あんまりさびしいねむりなので寝て
  いられなかったのだ
  まだぬくもりのさめないわたしのベッドに
  よこたわっているあたたかいもの
  あれはわたしの悪夢である
  悪夢は 三度もわたしに言ったのだ
  《おまえのおかげでわたしはねむれない!》
  ああ 悪夢にさえも疎まれて
  わたしはどうしたらいいのだろう
  ともかく これ以上寝ていたら悪夢に御迷惑
  とわかったのでわたしは起きたのだ
  これが早起きの理由だ


(「わたしは四時半に起きた」、23〜24ページ)
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  ラブホテルの構造


  馴染みの鮨屋の裏口の向いに
  ラブホテルが出来たのでとうぜん話題は

  そのことになった あの内部はいったい
  どういう構造になっているのだろうか

  そこは昔は原っぱで 少年たちは
  丈高い草に隠れて少女たちと遊んだが

  あるときダンプカーが来て大量の土砂を捨て
  それが踏み固められて凸凹のある

  眺望のいい空地になり少年たちはもう
  少女と遊ばなかった 少女は

  急激におとなになってどこか遠くへ去り
  少年たちも散り散りになったが

  どういう風が吹いたのだろうか
  数人が舞い戻ってしばらくすると

  空地に工事が始まりラブホテルが出現したのである
  それでその内部はいったい

  そういう構造だろうかという問題だが
  空想し(ある者は蘊蓄を傾けて)論じあってるさなかに

  この春N市の高校を出て来た見習いのアキラ君
  出前に行こうと裏口を出た途端に向うからも

  若い男女が出て来たので思わず尋ねてしまったそうだ
  どんなだった?

  男はアキラ君を睨み 可哀相に女性は
  ハイヒールを鳴らして駆け去ったが

  まじめなアキラ君はその後ろ姿に大声で言ってしまった
  そういうイミじゃないんだよう! 内部(なか)は

  どんなだったってきいたんだよう!

  われわれにも 若くて どうしようもなく
  おっちょこちょいの時代はあり

  それはつい先日まで続いた感じだが
  ようやく落着いた――と思ったらさにあらず

  疲れただけだったんだ
  こんどはぼくがアキラ君の眼の前へ

  ぬっと出て来てみたいな もちろん
  ラブホテルからだ


(「ラブホテルの構造」、81〜84ページ)
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 読んでいて吹き出してしまうような詩も多い。ひとりで、自宅にいるときにこっそり読みたい詩集だ。というのも、わたしはこれを通勤電車のなかで開いてしまったのだ。以下の「あしかの檻」を読んでいたときには、もう、ほんとうに死ぬかと思った。殺意を感じた。

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  あしかの檻


  1

 あしかに感情を移入することはできない。あしかには、あるいは事物には、感情を入れる余地なぞない。あしかはあしかであり、貝殻は貝殻だ。私はきっぱりと私だ。

  2

 あしかの、あまりになめらかな肌。それは肌というよりも、単に〈黒〉と呼んだ方がにあうようだ。とてもエロチックな〈黒〉。

  3

 あしかを二十分間、見つめていることのできるものならだれでも、〈あしかは大股で歩くことができない〉ということを知るだろう。足のあるべき場所には足がなく、足首だけがある。そしてそれも、実は足首ではなくて、ひれなのだ。それを〈気をつけ〉のかたちにしてしか、あしかは立つことができない。

  4

 おお生れながらの詩人よ。きみがぼくらに誇示する、きみの生活無能力は詩とは無関係なのだ。いつまでも、単に生れながらの詩人にしかすぎぬものは、もはや詩人ではない。あしかの方がましだ!

  5

 あしかがゲーゲー鳴く。ハラがへっているのだろうか。それともただ、鳴きたいから鳴いているのだろうか。

  6

 あしかの足(本当はひれだ)の間に、短くて小さな尻尾がある。それはまるで、さかさに勃起した少年の陰茎のようだ。あれをたたきつぶしても、あしかは生きているだろう。

  7

 色が黒く、ハゲアタマで、ひげをはやした女が風呂に入っているのを見たとしたら、私はいま眼の前で、水から首だけ出している、このあしかを思い出すにちがいない。あしかよ、死んだ魚を投げてやると、おまえは頭からバリバリ喰ってしまう。

  8

 おい、あのあしかの、あの眼つきを見ろ。あれはたしかに、〈はじらい〉を知っているぞ。

  9

 あしかがゲーゲー鳴く。私はまだ、あしかの檻の前にいるのだ。


(「あしかの檻」、12〜14ページ)
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 この詩集の編者は谷川俊太郎で、巻末には1996年の二人の対談が収録されている。笑ってしまう、と書いたが、対談のなかで辻征夫はこんなことを言っているのだ。これを読んだときにも、笑ってしまった。

 ぼくは散文を書く時は、初めに、一人称は「私」で書こう、というように決めちゃうわけ。それから、あまりおもしろいことを書くのはよそう、とか。ぼくはよく、ユーモアがあると言われたりするものだから、それでユーモラスなことを書くとしたら、別にシャクというわけじゃないけど、ニコリともしないで書いてやろうと決めたりするわけ」(190ページ)

 この対談はびっくりするほどに内容が濃くって、二人の親しさが匂い立ってくるような、すごくあけすけな内容なので、谷川俊太郎が好きなひとは全員読むべきだと心から思う。だから行け、全速力で書店へ。うん、いますぐ。

 最近、詩ももう書かないと言っているという噂がチラホラ聞こえてきたけど……。
 谷川 うん。書きませんよ、あんな詩なんてもの(笑)。おもしろくもねェ。いや、詩を書かないというより、新しい仕事をしないつもりでいるんです」(183ページ)

谷川 『21』というのは一種前衛みたいになったものね。
  『21』が出るまで、谷川俊太郎が前衛だとは誰も思ってなかったですもの。あのあとも気づかないままの人もいるだろうけど。
 谷川 だって、ぼくのことスヌーピーの翻訳者だと思っている子がいるんだよ。「えっ? 谷川さんて詩も書くんですかあ?」なんて言われて(笑)、「うーん」なんて言ってるんだよ。
  (笑)でもまあしかたがない。だけど、スヌーピースヌーピーでいい仕事ですよ」(185〜186ページ)

 詩と散文のちがいが大いに語られていて、とてもおもしろかった。たしかに現代詩に関しては、たとえば改行を入念に削除して句読点を置いてみたら、詩なのか詩的な散文なのかわからなくなるようなことがあるだろう。そもそも詩的ってどういうことなのだろう。「的」の一文字が分け隔てているものとは、いったいなんなのか。

 詩って何があるかと言うと、新聞記事を書くのと同じ言葉しか無い。要するに、何も無いんじゃないか、と思う」(208ページ)

谷川 ぼくは、詩と散文の違いを、むしろ生き方の違いだと考えているんです。だから一人の人間が詩の生き方をずっと貫けるかと言うとそれはちょっと難しくて、ある時には詩的なものの見方をしある時は散文的に生きるというようなものだろうとは思うんだけど。けれども、態度としての二つには凄い違いがあると思う。――だから、やっぱり、詩ハアル、と思うんだ」(209ページ)

 辻征夫は小説や俳句も試みていて、それらはこの詩集にも収められているのだけれど、執筆にあたって、それぞれに関心の方向性がぜんぜんちがうのが、とても興味深い。

 詩というのは書いている時間が短いでしょう? 大体、半日とか一日とかで。それに対して小説を書くのはもう少し時間がいる。ウーンと唸りが続いているような緊張、ずーっと持続している緊張の中にいたいという願望が出てきて、それで少しずつ書いてみるようになったんです。書いている時がおもしろい、という、そういうことなんです」(188ページ)

 ぼくは一方では、俳句を自分で作ってしまえば「歳時記」の読みが違ってくるはずだという思いがあった。俳句というこの数百年の伝統も気がついてみれば自分の財産なんですね。これをよけて通る必要はまったくないと思ったんです」(200ページ)

 この詩集に収められている対談として見ると、谷川俊太郎はちょっとしゃべりすぎなくらい、いろいろなことを言っている。もちろん、もともとが個人詩集に載せるための対談ではなかったのだろうけれど、谷川俊太郎も読みたいと思っていたわたしには嬉しい驚きだった。

谷川 日本の詩の伝統は、生き生きした実人生の喜怒哀楽を、どちらかと言うと、悲しみとか淋しさとかに収斂させる傾向があると思う。これは一つの問題だよね。
  そう。明るいと、浅いとか軽薄とか言われる。
 谷川 日本人の昔からの傾きでいたし方ないとは思う。悲しみという感情はぼくにとってもキーになる感情だと思うし。喜びや怒りよりも、悲しみの方が、自分の通奏低音とでも言うべきもののような気がするんだ。辻さんもそうでしょう?
  そうです。
 谷川 それが詩の中心にあるとすれば、西洋の詩とは大分違う詩だろうと思う。西洋の詩はもっとずっと人間臭い。喜怒哀楽がもっと強い」(198ページ)

谷川 現代日本には詩が瀰漫している。逆にそれに圧されて現代詩が振るわない、お株を奪われちゃってる。
  大昔だったら詩に求めたものが、ポップスや演歌、ホラー映画、SF映画で大部分満たされてしまっているんですね。
 谷川 そうなんです。SF小説なんて一種の叙事詩でしょう」(211ページ)

 なかでも、二人の読書体験が開陳される箇所は、無視できない名前がたくさん出てきた。

谷川 ぼくは、わりと飽きっぽくて、いろいろなんですよ。一時期はジャック・プレヴェールに夢中で、プレヴェールばりの詩を書いたりしたこともある。スタイルとして吉田健一シェイクスピアの『ソネット』が好きで、そのスタイルを真似したこともある。だけど、辻さんが若い頃にリルケの『マルテの手記』や『若き詩人への手紙』を読んで感動した、そういうような影響は誰からも受けていないと思うんです。
  ぼくはあの頃は、逆に詩がだめで、詩を読んでも言葉が入ってこなかった。散文はよく判ったけど。八木重吉とか、ごく限られた人だけだった」(207ページ)

 谷川俊太郎がプレヴェールを好きだというのは、やっぱりね、という感じだ。そうそう、『プレヴェール詩集』を訳したのは小笠原豊樹だが、小笠原豊樹は詩人の岩田宏でもある。で、この岩田宏が、しょっちゅう話題にのぼっているのだ。それも、チャンドラーの小説にヘミングウェイが出てくるときみたいに、ろくな登場の仕方じゃなくって、笑ってしまう。仲良かったんだろうな、と思う。

谷川 岩田宏となると本当の散文家なんだけど、あの人の小説は評判にならないんだよねェ(笑)。長すぎるんじゃないかと思うんだけどサ」(182ページ)

谷川 噂話とか好きじゃないの?
  うん。
 谷川 そうか。じゃやっぱり散文家じゃないんだ。(笑)岩田宏をご覧よ。あいつはもう身を乗り出してくるぜ」(199ページ)

 この対談以外にも、さすがにこれは散文だよね、と言いたくなるような文章も多く収録されているのだけれど、そういった文脈のなかでも辻征夫の言葉は、詩としての輝きを強く放っている。詩から一部分だけを抜き出すというのは、あまり褒められた趣味ではないけれど、この言葉は忘れずに書いておきたい、というのがとても多かった。

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  (世界中でそこしかいたい場所はないのに
  別の場所にいなくてはならない
  そんな日ってあるよね)

(「だれもいない(ぼくもいない)世界」より抜粋、110ページ)
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「詩はどこかで予期しないことが起こらないとつまらない」(「おばさんとぼくと私――或はおばさんの出現と消滅」より、96ページ)

「私どもの仕事では、少年時代の夢がすべてなのである」(「ワイキキのシューティングクラブ」より、152〜153ページ)

「詩で大事なことの一つは厳密さだということなんだね。曖昧なのは詩ではない」(214ページ)

 最後に、直接的に恋が語られている詩をふたつ挙げる。今回、なるべく引用を減らすのを心がけて、じつはものすごく絞り込んだのだ。そうでもしないと、本を丸々書き写しそうになってしまったから。上にあげた「ラブホテルの構造」もそうだけれど、このひとは性的なことを話題にしているときでも、すこしもいやらしくない。「昼の月」の美しさには、ほんとうに驚いた。こんなふうに書けるだなんて。

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  婚約


  鼻と鼻が
  こんなに近くにあって
  (こうなるともう
  しあわせなんてものじゃないんだなあ)
  きみの吐く息をわたしが吸い
  わたしの吐く息をきみが
  吸っていたら
  わたしたち
  とおからず
  死んでしまうのじゃないだろうか
  さわやかな五月の
  窓辺で
  酸素欠乏症で


(「婚約」、31〜32ページ)
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  昼の月


  恋人よ ぼくのからだの下で
  暫く眠り 疲れを癒しなさい
  きみの姿勢は だれが見ても
  お行儀がいいとはいえないが
  気にしないで眠りなさい
  ひろげられたきみのゆたかな
  腿と腿のあいだにも
  ぼくのからだがあるのだもの
  だれも見てはいないから
  このままの姿勢で眠りなさい

  愛って ほんとうはどんなものか
  知らないけれど
  恋情ならばけんとうがつく
  きみと離れているとき
  ぼくのなかにあいている
  おおきな闇 そこを吹き抜けて
  希望を凍らせ 憎しみのように強く
  渇望をかきたてる風のことさ
  だからぼくはきみと会えば
  言葉もなくきみを摑み ぼくの空虚を
  きみで塞ごうとするんだ

  じゃ 眠りなさい
  感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
  きみは息を整えて眠ろうとしている
  ぼくはきみに重みをかけないように
  静かにかさなり
  からだで子守歌をうたってあげよう
  こうしていると きみが一段一段
  眠りの深みに降りて行くのが
  そこだけが別の小動物のような
  きみのあたたかい襞の反応でわかるのだ

  おやすみ いとしいひと
  きみが微かな寝息をたてはじめると
  ぼくはきみから離れて
  細くあけた窓から外を見ている
  そしてさびしさでいっぱいになって
  かんがえている
  ひとりぽっちでいるときの
  ぼくの空虚は
  あの青い空の
  月のようだ


(「昼の月」、74〜77ページ)
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 岩波、グッジョブ。谷川俊太郎、さすが。この本は、一生読み終える気がしない。ずっと持ち歩いていたい。何度でも読み返したい。

辻征夫詩集 (岩波文庫)

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〈読みたくなった本〉
阿部良雄訳のフランシス・ポンジュ詩集

フランシス・ポンジュ詩集 (双書・20世紀の詩人)

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ロジェ・グルニエ『チェーホフの感じ』
「ロジェ・グルニエが書いている。臨終の床にあるチェーホフに女優オリガ・クニッペルが近づいて、氷嚢を胸に置こうとしたら、医師であり作家である彼女の夫は言ったそうだ。――空っぽの心臓の上に、氷など置いても仕方がないよ」(「チェーホフ詩篇(抄)」より、132ページ)

チェーホフの感じ

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茨木のり子選『金子光晴詩集』
 二十行ぐらいで、世の中に住んでいる普通の人――妻というのは絶対裏切らないもの、人生は謙虚に慎ましく職人仕事などしながらじっと静かに生きていくような人、そういう人が大事なんだ、たとえば芸術をやっているような奴はそういう人のそばを通る時は息をひそめてそっと通りすぎなきゃいけない、そういう人をおどかしちゃいけない、という詩です」(195〜196ページ)

金子光晴詩集 (世界の詩 44)

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トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

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