Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

東京日記

 いまから五年くらい前のこと。ぞっこん惚れこんでいるのに、なにひとつ感想めいたことを書けない、という奇妙な作家と出会った。リチャード・ブローティガンである。『アメリカの鱒釣り』、『芝生の復讐』、『愛のゆくえ』などを読んで、もうとんでもなく好きになってしまったのだが、一冊、いや、一篇あたりの、「気に入る文章含有率」が高すぎて、もうなにも書く気にはなれなかったのだ。このままじゃあいかん、と思っていたとき、こんな詩集があったことを思い出した。薄い詩集なら、相対的に引用したい文章も減るにちがいない。これなら書けるかも、と、初めて思えた。

東京日記―リチャード・ブローティガン詩集

東京日記―リチャード・ブローティガン詩集

 

リチャード・ブローティガン福間健二訳)『東京日記』思潮社、1992年。

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もしも、詩があったら

 先月は信じられない頻度で更新をしていたので、ちょっと控える(さぼる)ことにしていた。何度でも眺めて楽しむことのできる宝石のような詩、それがたくさん集められた、まさしく宝石箱たる詩集に、次から次へと手を伸ばすというのは、あんまりいい趣味とはいえないから。きっと詩集というのは、読み返してこそ、ほんとうの意味で楽しさを味わえるものなのだ。読み返したいと思える詩集に、これまでに何度出会うことができたのか。その数こそが、ひとの豊かさを決定づけるような気さえしている。そして、そんな詩集にまたしても出会った。

もしも、詩があったら (光文社新書)

もしも、詩があったら (光文社新書)

 

アーサー・ビナード『もしも、詩があったら』光文社新書、2015年。

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こころ

 谷川俊太郎がいなかったら、現代詩、いや、もっと広義に詩そのものが、われわれにとってこれほど身近なものでなかったことは疑いない。そんなことを考えたのは、たまたま手に入ったこの本が、谷川俊太郎にとっていったい何冊目の詩集なのかを調べようとして、とてもじゃないが調べきれない、ということに気づいたからである。このひと、いったい何冊の詩集を出しているんだろう。思えば、ここで最後に谷川俊太郎の本を紹介したのは、もう6年も前だが、あのときの『詩の本』は、過去の作品をまとめた選集の趣が強く、新作詩集というのではなかった。そういう選集をも含めたら、ほんとうにもう、何冊あるのかなんて数えきれない。詩との距離感を考えるとき、谷川俊太郎が現代に果たした、そしていまでも果たしつづけている役割は、途方もなく大きい。

こころ

こころ

 

谷川俊太郎『こころ』朝日新聞出版、2013年。

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 このごろ、「この詩人がいい、あの詩人もいい」、と、立てつづけに詩集の紹介ばかりしてきたが、いま、そのことをちょっとだけ後悔している。詩というのは、書かれていることの即効性が重視される散文とは大きく異なり、あとになってから響いてくるものも、とても多いからだ。第一印象ならぬ、「第二印象」とでも呼ぼうか。だから、性急に印象を書き留めるのは、あまり薦められたことではない。音楽をイメージしてもらったら、きっとわかりやすいだろう。最初に聴いたときにはあまりピンとこなかったものが、繰り返し聴いているうちにどんどん好きになっていって、やがては自分の一部にさえなってしまう。このマンデリシュタームの詩集を読んでいたときの感覚は、まさしくそれで、初読の際には「ふうん」と通りすぎていた詩行に、一週間ほど経ってからの再読にあたっては、いちいち足を止められた。ふつう、再読のときのほうがすいすい読めるものなのに。若き日のマンデリシュタームを含む、ロシア象徴派詩人たちの標語ともなったヴェルレーヌの言葉、「なによりもまず音楽を」を引くまでもなく、これは、音楽そのものなのかもしれない。

詩集 石―エッセイ 対話者について (群像社ライブラリー)

詩集 石―エッセイ 対話者について (群像社ライブラリー)

 

オシップ・マンデリシュターム(早川眞理訳)『詩集 石/エッセイ 対話者について』群像社、1998年。

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わたしを束ねないで

 先日まとめ買いした童話屋詩文庫は三冊、山之口貘『桃の花が咲いていた』岸田衿子『いそがなくてもいいんだよ』、それからこの本、新川和江の『わたしを束ねないで』だった。前者二人は思潮社の現代詩文庫などには入っていないので、ちょっと「発掘」のような気分で読み進めることができたのだが、この新川和江に対しては、事情がちがっていた。まとまった詩集を読んでみたいと、かねてから考えていた詩人だったこともあり、ページを開くまえから身構えてしまっていたのだ。好きになれなかったらどうしようと、すこしばかり不安でもあった。でも、十秒もかからなかった。本を開いて、そんな不安が杞憂でしかなかったのが証明されるまでには。

わたしを束ねないで

わたしを束ねないで

 

新川和江『わたしを束ねないで』童話屋、1997年。

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イタリアの詩人たち

 このごろの更新傾向を見ていただくとすぐにわかるとおり、いま、詩を読むのがとても楽しい。いや、詩はもともと好きなのだが、日本語でよく「現代詩」と呼称される、一見ルールもなにもないように見える言葉たちの自由さに、最近ひたすら驚かされているのだ。詩、というと、ペソアやプレヴェールのような幸福な例外も存在するとはいえ、海外ではどうしても韻律や形式美が追求され、それらを追求しないものは軽く見られがちである。だが、日本語においては、短歌と俳句という超短詩が形式美の部分を引き受けてくれているからか、その短さには合致しないような詩情の迸りに対しても、懐が深い。これは海外の詩が翻訳されているときにも同様に感じられ、たとえばもともとソネットとして書かれたものが、日本語では韻を踏まない十四行詩として、広く受け入れられている。『マチネ・ポエティク詩集』といった試みが示す、そもそもの不可能性が原因になっているかもしれないとはいえ、この寛容ぶりは、ちょっとすごいことだと思うのだ。日本語に翻訳された詩というのは、すでに原文を離れて、独立した芸術として光彩を放っている。

イタリアの詩人たち 新装版

イタリアの詩人たち 新装版

 

須賀敦子『イタリアの詩人たち』青土社、2013年新装版。

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いそがなくてもいいんだよ

 しばらくぶりの更新。といってもたかだか四日ぶりで、ふだんのわたしの更新頻度を知るひとは、こいつ気でも狂ったか、と思っていることだろう。ちょっと事情を説明すると、断食月中は、あらゆる会社の勤務時間を短くするように、と、当地の労働法で定められているため、平時よりも早く仕事を切りあげることができるのだ。しかし、同僚たちはみんなやたらと仕事熱心な連中なので、まずわたしが立ちあがって「帰ろうぜ」と言わなくてはならない。だから多少仕事が残ってしまっていても職場を去るようにしているのだが、それでも外出先では日中、コーヒーを飲んだり煙草を吸ったりができないため、自然、それらを求めて自宅に直帰することになる。ニコチン摂取のための、引きこもり生活。そりゃあ、読書が捗るわけである。

いそがなくてもいいんだよ

いそがなくてもいいんだよ

 

岸田衿子『いそがなくてもいいんだよ』童話屋、1995年。

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私人

 国内にいるあいだに入手した、ブロツキーによるノーベル文学賞受賞講演。荻窪にある馴染みの古本屋さん、ささま書店で購入し、帰りのバスのなか、酔うかもしれないという不安を抱えながら読みはじめ、最後のほうはバスではなく、ブロツキーに酔っていた。こんなに薄い単行本、なかなか目にすることもなさそうなもの(ぜんぶで60ページくらいしかない。しかもその半分は「訳注」と「解説」)。だが、その内容は浅薄とは徹底的に無縁、独立した一冊としてこれを刊行したのは、まちがいなく出版社の英断だった。

私人―ノーベル賞受賞講演

私人―ノーベル賞受賞講演

 

ヨシフ・ブロツキイ(沼野充義訳)『私人 ノーベル文学賞受賞講演』群像社、1996年。

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桃の花が咲いていた

 もう詩以外のどんなものも読みたくない、というときには、目に入るすべての文字が詩に見えてくる。「ぼくが欲しいのは毒だけだ、詩を飲むに飲むこと」(マヤコフスキー『背骨のフルート』より)。今日は仕事をさっさと切りあげ、日没まで家で煙草を吸ってから、断食明けの喧騒のさなか、詩集を求めて書店へと向かった。それはかつて自分が働いていた書店で、その日本語書籍の棚には、わたしが注文したまま買い手を見つけられずにいる本が、まだたくさん残っている。いや、返品できるものなら、後任のひとがすでにあらかた返品してしまっている。わたしがつくった詩の棚に残っているのは、もはや返品不可能な出版社の本ばかり。詩集よりも売りやすい本は星の数ほどあるので、利益を度外視でもしないかぎり、貴重な棚面積を詩などに割いたりはしないのだ。それは経営職に就いた書店員としてはごく自然な考えかたなのだが、それでも返品できない本はどこにも行けない。つまり、詩の棚は、なくすことができない。後任のひとに悪いな、と思いながらも、同時にちょっとだけ、ざまあみやがれ、と思わなくもない。でも、いつまでも買い手が見つからないのでは、詩集のほうも可哀想だ。だからもう、自分で買うことにした。責任、取ります。うちの子に、なれ。

桃の花が咲いていた

桃の花が咲いていた

 

山之口貘『桃の花が咲いていた』童話屋、2007年。

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すみれの花の砂糖づけ

 中東に住んでいるひとならだれでも知っているとおり、イスラム教国では先日より断食月ラマダン)に入っている。お日さまが出ているあいだは飲食禁止、という、あれである。日中はレストランなども閉まってしまうので、わたしのような非イスラム教徒にとっても、まったく無関係というわけにはいかない。わたしはもともと食が細い人間なので(一日一食で足りる)、日中に飲み食いできないというのは、べつに大した問題ではないのだが、ここに、「日中は公共の場で煙草を吸ってはいけない」という条項が付け加えられるために、事情が変わってくる。なにせ、煙草が吸えないと、息をしている気がしないのだ。というわけで、断食月中は、いつも以上に引きこもることになる。今日も、お休みだったので詩集を漁りに本屋へ行こうと考えていたのだが、煙草が吸えないことを考えた末、外出を諦めてしまった。無理、無理。でも、小池昌代に目を開かされてからというもの、日本語で書かれた詩が読みたくて仕方ない。どこかに詩が隠れていないものか、と、自宅の本の山をひっくり返してみたところ、最初に出てきたのはこの一冊だった。

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

 

江國香織『すみれの花の砂糖づけ』新潮文庫、2002年。

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